来訪者 / 観察者 / 随伴者
瀬夏ジュン
来訪者
アキオは家に帰った。
「おかえり……」ミカは、顔を伏せていた。「お風呂、はいる? さき、食べる?」
「はら減った」
「うん」
流しへ行くミカの足どりが、ぎこちない。塩ビのフローリングに、100均スリッパがこすれる。
古くて小さいながらも、二人だけの巣を借りることができた。身を削る日中から、毎晩ここへ逃げもどると、急に力が抜ける。嫁の顔を見れば、身をしばる緊張は散り、魂は救われる。
けれど、今日は、なにかが違う。
アキオは鈍く身体を運び、居間のイケアに腰を沈めた。ボタンをはずし、胸をはだけた。なかなかLEDに置き換わらない蛍光灯の下で、いつも聴く音が、耳へ届く。冷蔵庫の開け閉め。鳴るレジ袋。まな板のリズム。テレビの芸人。
その空気の振動が、アキオを表面から解きほぐしていく。凝り固まった内側まで柔らかくする。芯まで、もう少し……。
「おまたせ」
二人分の茶漬けを、ミカはテーブルに運んだ。目を合わせない。
「食べやすくて、いいよな、茶漬け」
カツオ節、ノリ、シバ漬け、ウメボシ、そしてたっぷりのワサビ。アキオの好物だ。
だが、向かいのミカの椀には、見慣れないものが載っていた。ジャコ、ほうれん草、カズノコ、添えられたレモン。
「なんだよ、その具。嫌いなもん、ばっかりだろ」
好みが変わったのか? それとも、いままでウソをついていたのか?
釈然としないまま、アキオは茶漬けをかき込んだ。そのとき、部屋のすみに箱があるのに気づいた。リボン付きのハデな包装。
まわりを見る。いつも使わずに置いたままのティーカップが、ボードに乗っていない。ゴミ箱には、菓子の袋が捨ててある。
「だれか来たのか」
ミカは顔を上げない。
「おい」
口をひらかない。
「なんとかいえ!」
長い長い数秒ののち、小さな声がした。
「もう、いるよ」
意味が不明だった。
「もう二人じゃないよ」
なんだと? いる? だれが?
「ここに、いるよ」
高速度撮影のように、ミカは顔を上げた。見たことのない笑みだった。
「おかあさんは、さっき帰ったよ。買ってくれた。マタニティ」
蛍光灯は、おだやかにミカを照らした。
おなかにそっと手を置く彼女は、まるで聖母のようだった。
慈愛に満ち、深く包み、光をまとう、未来の母だった。
アキオは、いった。
「そうか」
茶漬けが鼻の奥でツンとした。
それはワサビのせいだけでは、なかったろう。
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