第2話 壊死の邪光:永遠の白百合
「はい、これで処置は完了です」
応急処置、とやらはすぐに終わった。
ぼくの左目は清潔な白い包帯によって覆われていた。どうやらやはり、左目は潰れているようだったが、この際もうどうでもよかった。そも、このまま死ぬところにあったのだから、残念には思えど目の一つや二つくらいに頓着しようとは思わない。
それよりも、もっと考えなければならないものが目の前にある――――首を握り潰されて事切れた死体と、血塗れの軍服を着た白い女の子。
流石に、目の前で死体が転がっているとなると、仮に自分を殺そうとした人間だとしても哀れみが湧いてくる。独特の血生臭さも凄いし、人間らしからぬ色をしている肌も見ていて辛いものがある。
でもまぁ、取り敢えず必要なのは。
「……ありがとう」
「礼には及びません、これも私の使命の一つです」
彼女へのお礼だ。
彼女はぼくを助けてくれた。あのままならば、ぼくは間違いなく誰に知られることもなく殺されて、暫く経って白骨死体として発見されていただろう。ニュースどころか新聞に載るかにどうかすら微妙なところだ。勿論、手際良い応急処置に関しても。
……それにしても彼女は何なのか。金属バットのフルスイングを受けても全くの無傷で、どころかそれを素手で受け止めて、人間の首を簡単に握り潰すだなんて。彼女がもっと筋肉ムキムキだったならまだ納得がいっただろうが、そうであるようには見えない。
それに、あの軍服もよく分からない。コスプレなのだろうか。なんとなくそんな気はしない、あの刀も本物なのかな。それに……彼女は、とても機械的に見えた。
「……ねぇ。聞いてもいいかな」
「はい、何でしょう?」
ぼくの治療を終えてから、彼女はずっと立ち竦んでいた。何か考え事でもしていたのだろうか……兎も角、恐る恐る聞いてみると、すぐに機械的な返答が帰ってくる。これに関しては、少々ぼくにはありがたく感じた。
何を聞こうか、と一瞬迷った。自分でそう問い掛けておきながら聞くことに迷うとは我ながらちょっと情けない。ほんの少しだけ、空白が出来てしまった。
「君は、何処から来たの?」
取り敢えず簡単な質問を。それでいて重要なことを聞けたと思う。
「……帝都東京、であると記憶しています」
初めて少し躊躇するような、揺れ動くような動作を見せて彼女はそういった。
ていと、というのは分からないけれど、東京というのは理解できる。成程、こんな片田舎にまで随分遥々とやってきたものだ。
揺れ動くさまは一瞬だけだった。そう答えた直後に、彼女はすぐにいつもの機械的な落ち着きを取り戻して、くるりと私から背を向けて外に向かって歩きだそうとしていた。
「ちょ、ちょっとどこいくの?」
「付近の陸軍部隊と接触し、現状把握に努めます」
「陸軍……って、そんなの無いよ、この時代に」
陸軍部隊……少々妄想癖でも有るのだろうか、と一瞬思ったが、その言葉とともに、一瞬だけ動揺しているのが見えた。表情に変化はないのだが……なんというか、彼女の雰囲気はとても素直なもので、だからぼくには分かりやすかった。
この国からは軍隊は消え去って久しい。自衛隊、というものは確かにあるが、陸軍と呼ばれる者達は失ってからもう何十年と経っている。探したところで余程見つからないだろう、亡霊程度ならばまあ見つかるのかもしれないが。
「それに、そんな血塗れで出歩いたらすぐ捕まっちゃうよ、唯でさえ……さっきの子が、警察を呼んでいるだろうし」
「その点に於いては心配ありません、私には陛下より直々に賜った権限があります。敵対者の殺害は権限の内であり、いつ如何なる場合においても無条件で許可されます。また、手違いによる拘束には十分な説明が陸軍より行われます」
「いや、だから……え、そんなことが許可されてたの?」
「はい」
「え、えーっと……いや、でも、だから、陸軍なんてもう無いんだって!」
「情報の信頼性は非常に低いものです。現状把握と合わせ、陸軍と接触し情報の精査を――――」
「うあー、もうっ!」
どうも話は平行線だった。なにせ向こうは存在していることが前提で話しているのだからたまらない。向こうは接触すると言って憚らないし、自分は絶対に捕まらないと豪語する。そもそも、仮に軍隊だとしてもそこらの人間を殺して許されるなんてことが有るのだろうか。
話はどんどん怪しい方向に捻れていく……というか、彼女の素性だけがだが。だが、彼女を放っておきたくはなかった。なにせ、彼女はぼくの恩人であって……それに、ぼくは彼女の美しさに心を奪われてしまっていたのだから。
実に人間としてどうかという思想では有るのだが、彼女を殺人犯として逮捕させたくはなかった。出来る限り、長い間彼女とは居たいが、然しぼくのそんな意思とは相まって彼女はカツカツと去っていこうとしてしまう。
「――――名前!!」
彼女を引き留めようとして、思わず叫んだ。そう言えば、それを聞いていなかった。会話の先延ばしにしかならないが、兎も角自分のとっさの機転に感謝する。
予想通り、彼女は立ち止まった。それから、相変わらず機械的に振り向いて、機械的に口を開こうとしたので、それを遮って大声を出す。
「ぼくは、君の名前を聞いてないよ。君の名前を、教えて」
「藤宮。藤宮一葉です」
情緒もなく。容赦なく、まるで斬って捨てるかのように彼女はそう言った。全く以て困ってしまう、ぼくはもっと君と……藤宮さん、君と話がしていたいのに、ぼくの気持ちなんて知らずに先に行こうとする。
もしかしたら、恋をした人間というのはこういうもどかしさを抱えて生きているのだろうか。であればまるでぼくは恋をしているかのように、もっともっと、彼女を助けるために、彼女と一緒に居たいが為に会話を引き伸ばす。
次は一体どうしたら良いだろう、どんな風に会話を繋げるべきか。今まで友達が居なかったのがここにきて仇になるなんて思わなかった。……そうだ、今度は、彼女にぼくを知ってもらわなきゃ。
「そっか、君の名前は藤宮一葉。藤宮さんで良いかな? えっと、ぼくの名前は――――」
果たして、名乗り名乗って、ぼくは一体どうするつもりだったのだろう。彼女と共にあって、彼女を逃せば、果たしてぼくはどうなるだろう。せいぜい、殺人の容疑者として捕まって終わりだろう。
ここまで意味不明な死因なら、流石に捕まらないだろうか? いや、刑は減っても少年院に入るのは免れないか。じゃあ……一緒に、あてのない逃避行でも?
――――そこには、それも悪くないかもしれないと、思ってしまったぼくがいた。
「やっと、嗚呼、長かった。やっと見つけたわ!」
ぼくの名前が、或いは危うい思考が、反響する声に掻き消された。重く、重く。静かに告げているようで、それでいて全てを塗り潰していく重厚さだった。
カツン、カツン、と弾けるような音がする。軽い音だった。まるで軽やかに心を弾ませるかのような。まるで花畑を歩く少女のそれのような、透き通るようでいて――――どこか演技がかった足音だった。
ただ、暗い廊下の向こう側から、ぼく達へと迫ってくる気配は、そんな生易しいものじゃなかった。
「なにせまるで手掛かりが無かったのだもの! ローゼンクロイツの計測はあてにならないし、ユーティライネンは喋らない。聖下のお考えはそも私達では理解できないし……ああ、まるでまともなのは私だけだったわ」
――――怖気が奔る。
まるで、死が歩いてくるようだった。たった今、ぼくは死を目の前で見たばかりだ。いや、その前には、本気の殺意すらもぶつけられていた。少しの手違いでぼくは死ぬ筈だった。だから、死の恐怖自体は経験している。
だが。だが、これは何だ。ただ、こちらに近づいてくるというだけで体が震えてくる。それ自体がまるで死であるかのように、それが辿り着いた時、ぼくの生が問答無用で終わるかのように。
まとも、まともだと今言ったか? その言葉の殆どはまるで理解不能で、いや、それ以上に本能的に、ぼくの身体はそこから迫りくる脅威から逃げ出そうとしている。けれど、脚が竦んで動かない。
人間にここまでの矛盾を生じさせる、それは悪夢か、いいやそんな生易しいものじゃない。彼女が……藤宮一葉が齎す機械的なそれとは違う。それは、それは――――まるで――――
何重にも積み重ねられた、死と生が其処に在った。
「初めまして、藤宮曹長。歓迎するわ、この時代、このくそったれな世界に!!!」
――――ああ、殺意そのものだ。
年齢で言えば……恐らく、名乗った名前から察するに外国人なのだろうが、それでもぼくから見てみれば、恐らくはぼくより少し上、程度のまだうら若い少女にも見える。
長く、カールした美しいブロンドの髪を持ち……藤宮さんのそれとは違って見える、白い軍服のようなものと、マントを身に纏っている絶世の美少女と言える姿形。美しい蒼い瞳は、爛々と藤宮さんに注がれていて、ぼくは眼中にない用に見えた。
藤宮さんのそれとは違う、穏やかな、儚さにも似たそれとは違う、賑やかな、まるで世界を照らし出すかのような美貌であった。きっと街を歩けば、十人中十人が男女を問わず振り向いて、口々に美しいと呟くような。そんな姿だ。
けれど、違う。いや、その美しさに間違いはない。だと言うのに――――この、奥底から来る震えは。
「……私の与えられた情報群の中に、貴女の軍装に適合する軍隊の情報は存在しません。所属と階級を求めます」
ブロンドの彼女を前にして、藤宮さんは全く以て機械的に、冷静沈着に彼女へと向けてそう問い掛けた。
ああ、そうだ、それは必要だ。もしかしたら、この震えは、この死体の前にありながらの第三者登場による精神的な衝撃によるものかもしれない。なれば、彼女が何者かを知ることが出来たならば何か変わることもあるだろう。
どうにも、藤宮さんも初対面のような反応をしている。然し、向こう側は藤宮さんのことを知っている……まさか。本当に、陸軍の人間なのだろうか、と。希望的観測が頭を過った。
「ええ、ええ、そうでしょう。貴女にとってはそうでしょう、まるで貴女にはわからないでしょう。なぜなら貴女は時の旅人、私にとっての数十年の現実は、貴女にとっての数秒にも満たない」
「余りにも哀れだわ。ゆっくりと時を経ることだって辛いのに。貴女はまるで、階段を一歩、なんとなく飛び降りるかの如く時を遥かに超えてしまった」
ブロンドの少女は、つらつらと歌うように言葉を連ねていく。まるで歌劇を見ているかのようだ。そこには深い深い悲しみが見て取れる。
彼女の外側……藤宮さんを直視することによって湧き上がる悲嘆、そしてそれ以上に彼女自身の内側から湧き上がる同情を、欠片も包み隠していなかった。
……彼女への恐怖が溶けていた。それが感情を持った生物であることに、取り敢えずホッとしたのだろうか。今は、その単純な思考回路に安心してもいたが。
「質問に答えて下さい。貴女の所属と、階級を」
藤宮さんが言葉を急かす。確かに、その煙に巻くような言動は此方を哀れむばかりであって、彼女が問い掛けたそれに関しても……と言うより、何もかもが分からない。
……いや、少しだけ推測できることが在るか。言っていることはよくわからないが――――恐らくは、彼女は藤宮さんの素性を知っているということか。
「ええ、良いわ。私の名前、私の所属、教えてあげるわ。私は白百合、私は翼、私は生と死の狭間にある者」
「私の名前は――――私の所属は――――」
――――背筋を刺し貫くような寒気。
先程失った絶対的な恐怖が、今蘇った。違う、これはぼくの受け取り方の問題なんかじゃなかったんだ――――これは。彼女が、意図的のそうしていた、というだけの話だった。
代わりはなかった。彼女から逃げなければならない、彼女から離れなければならない、彼女と同じ空間に居てはならない。名乗らせてはいけない、そうしてしまえば――――逃げられなく、なる。
止まれ、止まれと言葉を繰り返そうとしている。耳を塞ごうとする、或いは立ち上がって背中を向けて逃げ出そうとする。でも無理だ、身体が動かない。圧倒的な『存在』。其処に居るだけで、ぼくの身体は蛇に睨まれたように動かない。
「リディア・ウラジーミロヴナ・リトヴァク。救済組織『岩畔機関』所属、階級は中尉――――或いは、
――――救済組織。
リディア、その名前はやはり日本外の名前なのだろう……それは理解できるし、合致する。
それよりも、その言葉が燻った。救済組織、岩畔機関。無論そんな組織は……勿論、ぼくは。いや……階級が、と言っている以上は、もしかしたら軍隊なのだろうか。
だとしたら、何か影で暗躍する特殊部隊かなにかだろうか。
普段なら、陰謀論だとか、ただの厨二病の妄想だとかで笑い飛ばしていたと思うんだ。だけれど、ぼくは……眼の前にいる超常を超えた力を持った少女藤宮と、その前に立つリディアというブロンドの少女を見て。首を、横に振れなかった。
「リディア・リトヴャク、ソビエト連邦のエースパイロットと同一人物と見て間違いありませんか? はじめまして、リトヴャク中尉。岩畔機関に所属することになった経緯は不明ですが、私は歓迎すると共に岩畔機関の健在を歓喜します」
「ええ、ええ、その通り。私は赤い星の白百合、それはもう大昔の話であるけれど。岩畔機関は健在よ、けれど貴女は、やはり何も知らないのね」
「はい、私は現状把握について非常に不完全な状況です。空白情報の補完を求めます、リディア中尉」
「……空白、ええ、貴女にとっては空白でしかないわ。けれど、いいえ、だから」
リディアが、ふらりと藤宮さんへと歩を進めた。
それはまるで、花畑に舞う乙女のようで、ああ、それは、それだけは――――不味い。
喉が異常なまでに乾いている、足が竦んでいる、手指の先すら動かない。ぼくは今のところ、何も危害を加えられていないどころか、眼中にすら入っていないというのに。
ただ、本能が警鐘を鳴らしている。お前は、これにとって、指先一つで殺せるような他愛のない存在なのだから。そこで震えて息を潜めているのが最善であると、言っているというのに。
「――――ダメだ、藤宮さん、逃げて!!!!」
昂る心は、抑えられなかった。
ひゅん、と空を切る音がする。ぼくの耳には、それが幾つか重なっているように聞こえた。
その一瞬、ほんの一瞬で現れたのは――――藤宮さんの腰元から抜かれた剣、その白銀を濡らす鮮烈な赤、そしてぼくの目の前に転がる斬り落とされた白い軍服の袖に包まれた腕。
それは、ぐじゅり、ぐじゅりという音を立てていた。何か黒い……膜、というべきなのだろうか。少なくともぼくが見たことのない、よく分からない何かに包まれた人体の一部は……どうにも、急速に腐っているように見えた。
「うっ……!!」
証拠として、腐臭がぼくの鼻をつんざいた。夏場の生ゴミなんかとは比べ物にならない臭気に思わず吐き出しそうになりながら、鼻から下を右手で覆った。
そして――――ブロンドの少女の碧眼と、ぴたりと視線が交わされた。
「――――あらあら」
右腕を斬り落とされながら、リディアはまるで変わりない笑顔を保ちながらぼくを見ていた。ぼくを見ている、そう、ぼくを見ている。鮮血を撒き散らしながら、何でもないかのように。
……大きな力で首を掴まれた途端に、叫びだしたそこに転がっている死体とは違う。人体の一部を切り取られて、大量の血を流して、それだけされて、全く持って何でもないかのように。
――――やっぱり。
「……可哀想なネズミさん、黙っていれば、優しい私は見逃してあげようと思っていたのに」
まるで残酷な天使の如く、ふわりと少女の外套が舞った――――そして、それと同時に、目の前で腐っていた右腕が、呑み込むような『黒い光』に包まれて消えていった。
それの行く先を追ってみれば、彼女の右腕へと収束し、形を成していき。やがて切断面など無かったかのように、さっきの光景が嘘だったかのように、そこにまた右腕として存在していた。
「……説明を求めます」
「あら、必要? というより、理解してないのね、石頭ね。聖下に育てられたのに、そんな風に面白くない生き物になれるなんて!! 逆に面白いわ!!」
「良いわ、全部全部教えてあげる! 但し……手を動かしながら説明するわ、必死に私に喰らいついてきてね!!」
刀身に付着した血を振り払いながら、藤宮さんがそう言った。その声には、わずかに困惑が含まれているのがわかった。何に対してのそれなのか、考えている余裕は無かった。
リディアのその笑顔は、相も変わらずであった。腕を切断され、自らが撒いた血に塗れ、踏みつけようとも。一切の躊躇なく、笑いながら、一歩踏み出したのを合図に、右腕を振るった。
正しく、轟音。刀の空を斬る音など掻き消すほどの、あの少女の細腕から放たれると思えないほどの、重たい、まるで獣の如き一撃は――――然し、藤宮さんの振るった軍刀によって迎え撃たれる。
その右腕が縦に……肩まで、真っ二つになった。まるで馬鹿みたいな鮮血を撒き散らしながら、それでも……それでも、リディア・リトヴャクは、笑っている。
「ここは西暦2017年。ここは日本国の片田舎。貴女の愛した大日本帝国は、帝都東京は、とっくの昔に消え失せて、貴女の役目は全くご破算」
開いた右腕から、あの『黒い光』が噴き出した。そうなれば、当然右腕を裂いたばかりの刀に『黒い光』が触れることになる――――そして、そこに触れた地点から。刃の白銀を、鈍い錆色が覆っていくのが見えた。
「なにっ……!?」
その驚嘆は、果たしてどちらに対してのものだったのだろうか――――ぼくには、傍目から見ているぼくには分からなかった。
兎も角、藤宮さんは握っていた刀を捨てて、そしてその間に迫るリディアの左腕を、右腕で思い切り弾き飛ばし、そして左手の拳が硬く握り締められ、リディアの顔面を躊躇なく撃ち抜こうとした。
そして、それは間違いなく捉えた。砲弾の如き一撃、ほんのすこし指先を動かすだけで人の首を手折れる程の身体能力、それで振るわれる拳を人間がまともに食らって正常な形を保っていられるわけがなく。
脳症が弾け飛んだ。ピンク色の組織が散り散りに撒き散らされて……これ以上は、余り深く考えたくなかった。
だと言うのに。
「やっぱり強度と身のこなしは一流ね。けれど――――貴女、『使わないの』?」
「――――あ、っ?」
弾け飛んだ組織の全てが『黒い光』に覆われて、リディアという少女を再構築していく。そしてその右手は――――彼女の撃ち抜くために伸ばされた左腕を、しっかりと握り締めていた。
離れているのに、ギチリ、ギチリという骨の軋む音がした。藤宮さんが右足を出そうとして。それより先に、リディアの左掌が、藤宮さんのちょうどお腹に当たる部分に触れていた。
「……こんな風に、ね?」
その右手から吹き出すのは、『黒い光』、『壊死の邪光』。先に、リディア自身の切り離された腕を腐らせ、身体を再構築させ、そして藤宮さんの刀を錆びつかせたもの。
それを生体に使用したら、何となくだが――――どうなるか、理解できた。その恐ろしい、辿り着いた結果が嘘であることを祈りながら――――それは、直ぐ様残酷な肯定を見せた。
「――――が、は」
――――吐血。藤宮さんの口から、尋常でない量の血が流れ出ていった。
■
「……全く、ようやく見つかってくれたな。本当に、奴らではないが、随分と待たせてくれた」
自動散弾銃にドラム・マガジンをセットしながら、老いた男は一人呟いた。
とある一定の地点にまで辿り着いた超常存在に対して、通常兵器は最早豆鉄砲にすらならないということは男自身よく分かっていたが、然しそれでも、それに頼らざるを得なかった。
男の人生には、後悔ばかりがあった。手を伸ばそうと思ったときには全てが手遅れだった。その一端を掴んで、押取り刀で駆けつけたときには、既に全てが終わった後で、何もかもが水の泡であると、思っていた。
「ふン……全く。死ぬことなんぞ怖くないと思っていたが、情けない。情けないが、これが与えられた最後の機会だろうよ」
右手が震えるのを、無理矢理に握り締めて抑え込んだ。
――――これは、七十年前にやり残したことに対する精算だ。
全く以て自分本位の戦いであった。小狡い男である、とは彼自身思っていた。
結局のところ、自分がやろうとしていることは彼等のそれと同様である、いやそれ以上に薄汚いものであると。
彼等は……岩畔機関は、曲がりなりにも『救世』という目的のために動いているそれがどんなものであれ、彼等は前向きだ。未来を見据えて、その為に人間としての身体すらも捨てて戦う事を決めたのだ。
対して、自分はただ過去の亡霊だ。昔見た残影を、今此処にもう一度見ようとしている。浅ましい、実に唾棄すべきものであった。
「だが、そんなものは承知の上だ」
咥えた安物の紙巻煙草の先端に火をつけて、立ち上がる。
随分長い間乗り回していなかった……然し、この日のために万全を整え続けていた側車付自動二輪車のエンジンを立ち上げる。
「奮い立て、加藤浩康。俺の七十年前が、未だ色褪せぬままならば」
――――エンジン音を轟かせ、老いた男は疾駆した。
七十年前からの、七十年間続けた『戦い』の終着点へと向けて。
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