in Ed

@sadameshi

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 ――天使が空を舞い、神の思召おぼしめしにより、翼が消え失せ、落下傘らっかさんのように世界中の処々方々に舞い降りるのです。


 ――私は北国の雪の上に舞い降り、君は南国の蜜柑畑みかんばたけに舞い降り、そうして、この少年たちは上野公園に舞い降りた、ただそれだけの違いなのだ、これからどんどん生長しても、少年たちよ、容貌ようぼうには必ず無関心に、煙草を吸わず、お酒もおまつり以外には飲まず、そうして、内気でちょっとおしゃれな娘さんに気永きながほれれなさい。


                        ――太宰治『煙草と美青年』


 不良には煙草。

 麗人には花。


 それがこの世の常の印象というものであるならば、俺らは全くもって個性がなく、ありふれた印象の額縁に揚々ようようと収まって日々を過ごしていた。


 煙草と花、不良と麗人には、しかし目には見えない共通の項がある。

 それはどちらもロマネスク空想的であるということ。

 不良も、麗人も、どちらもきっと文学を好む素養がある。

 現にだ。

 不良の俺は煙草を吸うが、同時に文学も嗜む。 

 麗人の彼女もまた、掌に乗せた錠剤をすうっと口に放る気軽さで、縁側に体を横たえ本を読む。


 水が低きに流れるように、二人はどちらともなくかれ合った。


 俺が初めて彼女を見染めた時分、俺は手に蛇を握り、そのことが訳もなく情けなくて、狼狽える自分に戸惑い、戸惑うことで頬が紅潮するのを感じた。

 枝に切った頬の傷が痛む。

 その頬を、彼女は躊躇いもせず黄色いハンカチーフで拭いてくれた。


 あまつさえ驟雨しゅううである。


 頬に幾筋も髪を泳がせた彼女は、自分の庭の小さな闖入ちんにゅう者に裸足で駆け寄った。

 肌に張り付く服を厭うようにして。


 「蛇に追わされて、あなたはとても不憫ね。」


 それでも彼女は喜んだように、蛇の開いた口の前に、自分の指を差し出す。


 「初めて見たけれど、あまり綺麗じゃないね。」


 そう言って愚かな俺を睥睨へいげいする。

 俺はその時、愚かさが生む悲哀というものを知った。自分が愚かな人間であることも加えて知った。

 それは雨滴に濡れる肌と共に、俺を酷く冷たくさせた。

 雨は轟轟ごうごうと、音の紗幕を引いて、景色は灰色に霞む。

 俺は彼女の家の、垣根を掻い潜り、四つん這いとなった姿勢のまま、芝生に顔を向け、背に彼女の声を聞いた。


 雨が弱まるにつれて、夕陽は少しも悠揚ゆうよう迫らぬ態度のまま、辺りをだいだいに染め上げる。

 彼女の髪に紛れた水滴が、陽光を抱えて煌いた。


 「濡れてるけど、それを抱えたままじゃ家に上げられない。」


 彼女は膝立ちとなって、それから正座して、濡れた芝生を掌で撫ぜて遊ぶ。

 斜めに下ろした彼女の瞳に、俺は見入った。


 「あなたはユウレイ。」

 「……あ、うん。勿論だけど。」

 「そう。………だったらそんなモノ捨てて、上がって。どうしてもあなたに見て欲しいものがあるの……。」


 邂逅はかくして。

 彼女は僕が捕まえた蛇を躊躇うことなく踏み潰し、頭を砕き、僕の手を引いて立ち上がらせた。

 雨はまだ少し、地に未練を残すようにして降っていた。


 彼女は若い絵描きであった。

 画材の、きつい匂いが充満する部屋に、僕は訳も分からず連れ込まれた。

 その時見せられた絵には、中央に無味乾燥な塔が、歪な形をした塔が一つ、描かれていた。

 人間よりも遥かに高い塔。

 その天にも届かんとする塔に、数多の人間が互いを押しやり、潰し合うようにして堆積しつつ、すがりついて登ろうとしていた。


 そしてその絵の裏には、彼女が認めたと思われる文章が、長ったらしく添えられている。

 それは本当に彼女の言葉か、はたまた何かの引用か、浅学な俺には分からない。

 分からないが、僕はそれを彼女の遺言の一片として受け取り、写し取った紙切れをいつも持ち歩いている。 

 

 僕はそれを事あるごとに見返すのだ。



――『kare/kanozyoらは、身動き一つしていなかった。』


――『肌は土気色で、血液はもとより、皮膚の下には真皮も筋肉も、骨も、ないような、触れて硬いのか、ふやけているのかも判別しない四肢をこれまた同じ様な胴体にぶら下げて、表情には苦悶とも、微笑とも、憧憬とも、恍惚とも、全てが綯交ぜになった、あるいは全てが台無しになったものを縫い付けられ、個々の声の周波を聞き分けられるような、一体となって同じ呪文を唱えているような、はたまた地鳴りのような、不明瞭な空気の振動が、辺りに響き、辺りとは、なにやら砂埃に消し炭が混ざって、薄い大気を削った、荒んだ砂漠、いや、優に天蓋に突き刺さんとする峻厳とした一枚岩が、彼方此方に突き出て、いや、降り注いで、湧き出てくる、分裂する、表出する、想起されるkare/kanozyoらは、折り重なって、身動き一つせず、一つの塊となって揺らめき、轟き、生は唯一、岩々の間に屹立する一輪の塔のような百合に秘され、kare/kanozyoらは、その巨大な百合の茎に縋るように、微動だにせず、堆積して、何事かを銘々に唱和した。』


――『塔と化した百合の花は独り聞き届けた。』


――『銘々の話を、大気の震えから斟酌しんしゃくして、大気の裂けた唇の間から漏れたものとして。百合にとって聞くことは、話すことと同義であり、壮大な独り言にうつつを抜かした執念。』

 

――『熱に浮かされたようにkare/kanozyoらは話し出す。さすれば、天蓋から、雷のような密集した笑い声が降り注ぎ、打ち消す。それはkare/kanozyoらの脳天に響く。脳天は天蓋。おのおの苦悩する。あるものはその爆音に泣き叫び、あるものは同じく哄笑し、涙し、あるものは斜に構えて、やり過ごす。』


――『百合の花は独り聞き届ける。』


――『その姿勢は苛烈・熾烈しれつ、不動、屹立きつりつである。』




 …………。


 「ねえ椿つばき蜃気楼しんきろうって知ってる?」


 ある日、家の垣根越しに彼女は聞いた。

 唐突な質問に、僕は虚を突かれ彼女の方を向くが、垣根の葉が邪魔をしてその表情までは窺えない。

 彼女は瞬く星辰せいしんを見上げている、そのシルエットだけが辛うじて見えた。


 「ああ、そりゃ知ってる。」

 「もしね、それが自分の知らない故郷の幻影だったとしたら、どうする?」

 「どうするも何も、だってそれはおかしな話だろ。知らないのに、なんで故郷って分かるんだ?」


 彼女は夢見がちな女性であったが、こうも曖昧な問いというのは初めてのことだった。

 俺は煙草に火を点けて、その立ち昇る紫煙しえんを眺める。


 「それはね、えっと、直観?感じる方じゃなくて、観る方の観。知ってそれと知る、みたいな感じで。」

 「わけわかんねぇ。…………まあ、蜃気楼ってことは、その向こうに本物があるんだろ?だったらいいじゃん。手がかりが出来て。」

 「そうだよねえ。でもさ、こっちには船もなければ、海はいつも大時化おおしけ、だとしたら?」

 「あ?条件を足すなよな。飛行機で行けよ、飛行機で。」

 「それが出来ないから、困ってるんだよねえ。」


 これは比喩だ。

 彼女は何かに懊悩おうのうしている。

 それは分っているのに、要領を得ない話に僕は歯噛みするしかない。


 「ったく、冷えるから家に来い。いくらでも話、聞いてやる。」

 「こんな時間じゃ、パパに怒られちゃうよ。」

 

 そう言った彼女は、空を見上げたまま、玄関へときびすを返す。

 煙草の煙が一条、垣根の壁を越え、彼女の家の庭の方へと流されていく。

 それを追うように、彼女が芝生を踏みしめ、去って行く。


 「明日でも、いつでも、聞いてやる。だから……。」

 「優しいね、椿はさ。私のこと、そうやって愛してくれるから……。」

 

 そしておもむろに口笛を吹く彼女。

 それはいつも叱られ、矯正されている癖。

 その音色が、僕の耳に残余して消えない。


 ――Amazing Grace.


 「浜辺に立って、故郷の蜃気楼を見た人は、きっと不幸なんだね。それが一番、不幸なことなんだね。」


 古謡こうたいさつき。

 彼女の遺言ゆいごんのまた一片は、アメイジンググレイスの抑揚に溶けて消えるように、あるいは霧散する煙草の煙のように、俺の脳裡のうりかすめて掴まえることが出来なかった。


 初めて好きになった人。

 何を置いても大事にしたかったその人は、春の夜、地に見事な蘇芳すおうの花を咲かせて死んだ。


 それから、一年。

 まだ彼女の言うような蜃気楼は水平線に見えず、花霞はながすみの中を俺は一人歩く。

 ただ、懶惰らんだに、花がそこに咲いて散るように、この身を生にゆだねて、見苦しく生きている。

 


 


 

 

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