ディアホライゾン ~暁の契約者~ 著:三河ごーすと
ファミ通文庫
プロローグ 二人の出会い、二人の契約
【1】
「最果ての秘密」を生まれながらに抱えた少女――
自分がいったい何者なのか、
何のために生きているのかも知らぬまま、
彼女は夢見ることも、
自由に生きることも許されなかった。
だから、思ったんだ。
神様から「不自由なシナリオ」しか 与えられなかったというなら、
僕は運命の半分を彼女にあげたい――
たとえ「死」を分かち合うことになったとしても。
*
薄暗い森の中。
一人の少女が鬱蒼と茂る枝葉をかき分けて走っていた。
木漏れ日に照らされて、彼女の全身がハッキリと浮かび上がる。
十五、六歳ほどの少女だ。薄紫色の長い髪につぶらな瞳。その滑らかな肌は血の気を失ったように白い。
彼女の名前は、ソフィアといった。
「…………ッ!」
何度となく聞いた低い音がソフィアの耳を撫でた。巨大な鋼鉄の脚が地面を踏み、森の木々をなぎ倒しながら進んでいく音。彼女はその場にしゃがみ込むと、震える腕を押さえながら息を殺した。
おそるおそる木陰から背後を見てみれば、視界の遥か先に、黒々とした巨大な影がある。
それは、暗雲ではない。イナゴの大群でもない。
集落である。
四本の脚を持ち、いくつもの居住可能な民家を背に抱えた、歩く集落だった。
「……逃げないと」
そうつぶやいて立ち上がろうとした瞬間、彼女はぞくりと背筋を震わせた。
ぬちょり――。
いつの間にか、粘液の塊のようなものがソフィアの両脚に覆いかぶさっている。
それは、スライムと呼ばれる魔物だった。
「は、離れてくださいっ」
引き剥がすために手を伸ばすが、指がスライムの体の中に埋まってしまうだけで、すこしも動かすことができない。
その間も、スライムはぴったりとソフィアの素肌に吸いつき、収縮を繰り返している。
(もしかして、食べられてる……?)
さーっと血の気が引いていく。
気が遠くなるほど長い距離を追手から逃げてきて、気力も体力も尽きかけていた。そこへ新たに魔物にも襲われたとあって、絶望感が足元から全身に広がっていく。
体に力が入らない。
恐怖と疲労が、彼女から抵抗する力を奪っていた。
ソフィアが死を覚悟した、そのとき――
「勘違いだったら恥ずかしいから一応確認しておきたいんだけど……君とそのスライムは、お友達同士とかじゃないよな?」
彼女の絶望と反比例するような、あっけらかんとした声が聞こえてきた。
すぐ近くの木の枝の上に、一人の少年が立っている。
茶色の短髪。好奇心旺盛そうな大きな瞳。年齢はソフィアと同じく十五、六といったところだが、無邪気な表情のせいかどこか幼さを感じさせる。
身長もそれほど高いとはいえない。
しかし腰につけた剣は、その大きな刀身といい、煌びやかな装飾といい、まるで王家の宝剣のようで、少年の印象にまるでそぐわなかった。
しばらく呆然としていたソフィアだが、ようやく自分が何を言われたのかに思い至って、
「どこをどう見たらお友達同士に見えるんですかっ」
と、声を荒らげた。
少年は頬を掻く。
「いや、スライムをひざまくらしてあげてるのかなって」
「ち、違いますっ。襲われてるんですっ」
「そっか。それじゃあ助けた方がいいな」
「はいっ……あ、いえ」
一瞬だけ語尾を上げたあと、ソフィアはしゅんとうなだれた。
「無理にとは言えないです。もしもこの魔物が凶暴だったら、あなたに迷惑をかけてしまいますから……誰かを巻き添えにするぐらいなら、潔く死の運命を受け入れるべきなのかもしれません」
「は?」
ソフィアの言葉に、少年はぽかんと口をあける。
そして、しばしの沈黙の後でこう言った。
「君さ……かなり世間知らずだろ?」
「え?」
「まあ、任せなって――よいしょっと」
少年は木の枝から飛び降りると、大きな宝剣を鞘から抜いた。柄の部分に宝玉が埋め込まれた黄金色の剣が、木漏れ日を反射して眩く輝いている。
一閃。
宙に黄金色の尾が引かれた。
宝剣はスライムの表面だけを器用に切り裂き、細胞の核にあたる部分を破壊した。
核を砕かれた魔物は溶けていき、ソフィアのふとももが外気にさらされる。
先ほどまで素肌を這っていた粘ついた感触が消え、ソフィアは安堵の息を吐き出した。
そして、呆けたように言う。
「すごい……魔物を一撃で倒すなんて」
「ほら」
ソフィアの目の前に少年の手が差し出される。
さっきまで剣の柄を握っていた彼の手は、血豆とすり傷だらけだった。
お世辞にも色男とは呼べない、年齢不相応にあどけないその顔に、しかしソフィアは言い知れない安心感を覚えていた。
「あ、ありがとう、ございます。あの、あなたは……?」
「俺? ああ――」
一瞬、きょとんとしてから、少年は口を開いた。
「俺は、リアン。世界一の冒険者になる男だ」
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