いつかの夏
エニシ
第1話
野暮用で出かけた裏庭から保健室にいつも通り戻ると、そこには見慣れぬ生徒の姿があった。薬品臭の漂う棚の前でごそごそと何かを探すような挙動をしている。短めに切られた髪に長く伸びた手足、思い当たったのはバスケ部主将と監督を兼務している学生の名前だった。彼は事あるごとにこの保健室に立ち入っては、友人達と話をする事を趣味としていたのだ。
何をしているのか問えば体をビクつかせてこちらを振り返った。頬は紅潮し口が半分開かれている。ボソボソと何かを呟くと俯いてしまった。これは、と額に手を当て確かめると発熱の兆候がある。流行りのインフルエンザなら早急な判断に迫られる。一先ず体温を測る為に体温計を差し出すと何故か腕を押して拒否されてしまった。
「今日は部活があるから…」
そんなことを言われて拒まれた所で、保険医としての役目を果たせない。駄々を捏ねる子供をあやすように髪を撫でながら落ち着かせると彼は渋々体温計を脇に挟んでくれた。それにしてもたかだか部活でここまで責任感を負わされているなんて。チームワークが物を言うスポーツだ。さぞかしストレスも多いのだろうと考えを巡らせている内に測温が終了した。
38.1度。
微熱などという表現では済まされない程の高熱に耐えていたのであろう少年がいじましい。頭痛もあるだろうに今まで一言も体が辛いだのという言葉は聞かなかった。精神的にタフなのか肉体的にタフなのかは知らないが我慢強すぎる性格は時として本人を苦しめることがあるなと独り言ちた。即座に備えられたベッドに寝るよう言いつける。落ち着いたら、親を迎えに来させるべきだろう。一人で帰らせるのは気が引けたので最悪自分の車で送ることも考えていた。少年の口は「熱い」と一言だけ漏らした。そういえば彼は薬を探していたのだ。解熱作用のあるものを選び水と共に運んでやると僅かに解放されたような表情を浮かべた。ごく、と薬を嚥下する喉を見つめる。深い溜息を吐くと小さな体はまた布団の中へ潜っていった。
「誰かから感染したのかも知れないな」
ゲホ、と小さく咳も聞こえた。まあまずインフルエンザと見て間違い無いが安易な判断は避けなければならない。
「吐き気はある?」
「有りません」
「関節の痛みはどう?」
「少し…腰が痛くて」
あまり話し過ぎるのも辛いかと思えば黒い瞳はじっとこちらを伺っているようだった。幸か不幸か保健室のベッドには少年一人だけがいる状態で他の生徒は居ない。朝から何も食べていないのだという彼の為に、冷凍庫にしまってあったミカンを取り出した。皮を剥き一ふさ千切って口許へ持っていってやるが唇は閉じたまま開かれない。
「ビタミンは取っておいた方が良いんだよ、冷たくて美味しいと思うけどな」
そのまま自分の口に入れて咀嚼する。そのままぼーっと焦点の定まらない目でこちらを見ていた。一つだけなら、としばらくして力なく呟く。もう一度ミカンを取り口許へ持っていく。咥えたかと思えば瞼を閉じて辛そうに身を捩った。
「もしかして…苦しくて食べられない?」
「…ハイ」
彼は答える。涙目で訴えられるとこちらも堪えるものがあった。
「その、方法が無い訳じゃ無い」
逡巡した後に悪戯っぽくミカンを咥えてみせる。
「こうやれば、楽に食べられる。勿論君が嫌じゃなければの話だ」
きょとんと目を開いて言葉を失った顔を見て内心ふざけ過ぎたかな、と後悔を覚えた。第一そんなことをしては病気がうつってしまうかもしれない。
リスクは覚悟しているが背に腹は替えられないと思った。何より熱に浮かされている少年の姿はとても扇情的で見続けるのが辛くなるほどで。
「無理にとは言わないよ、今はとにかく静養していて欲しい」
「…試してみたい」
思いの外素直な少年を見て安堵する。ミカンを咥えたままの状態で顔を近づけていくとやがて唇が触れた。柔らかく温かみのある唇がそっとミカンを啄み静かに離れていく。背徳的な気持ちが押し寄せ視線を反らした。なぜなら相手は子供とは言え生徒でありこちらは教師なのだから。とろりと溶けたような表情で彼は口の中のものを咀嚼している。さっき確認したのだから酸味は然程無いはずだ。
「先生」
「何?」
「凄く美味しかったです」
「う、うん」
何故か鼓動が早まるのを感じる。口の端を持ち上げた少年はこちらを見上げる。
その時はまだ背後の薄暗い影に気付かずに居た。いつもは開いている筈のカーテン。僕は特に珍しいとも思わずに処置を続けてしまった。そこには彼が率いるバスケ部のメンバーが待機していたのだ。パシャリ、と音がして振り返る。彼らの暇つぶしの材料にされたと気付いたのはその時だった。携帯を手にした生徒が誰に送信して欲しいか尋ねてくる。自分のポケットを探したがそこにある筈の携帯は無く、既に彼らの手の内にあると知った。まさかこんな事態になろうとは。別の職員に知られる前に今までの記録を抹消しなければと即座に思う。
「待ってくれ、誤解させるようなことは何もしていない」
心拍数が上がるのが自分でもわかる。嵌められたというのが正しい。その事実に気付くのが遅すぎた。あどけない顔をした生徒が不敵な笑みを浮かべ携帯をくるくると回した。
「どーする?掲示板にでも上げとく?」
今までのことが演技だとは思い難かった。訊かれた少年は思案するように数秒間を置いて「そうだな」と呟く。その言葉で主犯が誰か明らかになったようなものだった。こちらには生憎助太刀してくれるような仲間は居ない。かと言え頭を下げて懇願するのも釈だった。出来れば穏便に済ませたいがそう上手く行くとは思えない。彼らの要求をのむしかない、と腹をくくった。
「こっちの希望はたった一つです、先生」
黙って聞いていると少年は唇を薄く開いて微笑む。ねめつけるような視線がこちらを見ている。額に汗が浮かぶ。
「わかった、わかったよ」
思わず出た了承の言葉に子供たちは満面の笑みを浮かべていた。恐らく普段上から物を言っている教員を玩具にするのが趣旨なのだ。そんなことを考えている内にぐり、と脇腹を硬いものでなぞられる。ぐっと顎を引き寄せられる。体に纏わりつくような視線に嫌悪を覚えて再度身を捩った。かと言えこちらには何も対抗出来るような手段は無く、精々意識を繋ぎ止めておくのがやっとだ。理性が崩壊しかける。こんな子供の戯言相手に。それは屈辱以外の何物でも無かった。
「謝れば、写真の拡散も止めて…くれるのか」
「保証は出来ないけど」
でも酷いことはしないよ、と首を傾げて見せた。仕方ない、と空気を吸い込む。下らない子供の享楽に付き合うのはうんざりだ。
首元のネクタイが引き絞られた。呼吸が儘ならず、酸素を求めて脳が痺れだす。どこまでも甚振ろうとする姿勢に流石に怒りが湧く。とは言え微弱な電流のように体に流れる甘い感覚からは逃れ難く、視界が少しずつ混濁していった。暫くして体は開放され、代わりに体の芯から疼くように脈動が押し寄せてきた。目も、知らぬ間に涙で潤んでいく。熱い、と零す。薬の瓶がカランと音を立てて顔の横に転がった。何より咥内が燃えるように熱く、アルコール度数の高い酒を飲んだ後のようだ。水が欲しい、と訴え手を伸ばすが退けられる。少年の白い指が鼻先を擽った。もう全ては彼らの術中にあるのだ、とままならない思考が告げていた。
いつかの夏 エニシ @kamuimahiru
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