妣に捧げる譚詩曲(母に捧げるバラード)

高麗楼*鶏林書笈

李栗谷が語る母・申師任堂

 後世の人々は、この時代を彩った人物の一人として〝申師任堂〟の名を挙げます。この時代の大半の女性同様、彼女も家庭婦人として生涯を送りました。そのため、同じ時代に生きながら、私(大長今)自身、実はこの方についてよく存じ上げません。そこで、御子息である栗谷(李珥)先生に、お母さまである師任堂さまについて伺ってみることにしました。栗谷先生は、皆さまも御存じのように、朝鮮王朝を代表する大学者で、私より一世代後に活躍された方です。ですから、実際は顔を会わせる機会は無いはずなのですが、本書内では、私は時空を自由に往来出来ることになっておりますので、あまり深くお考えにならないように。


長今「既に御存じのことと思いますが、御母堂申師任堂さまは、後世〝母親の鑑〟として多くの人々から尊敬されています。」

栗谷「そのようですね。息子の私が言うのも変ですが、母は私たち七人の子供たちを育てただけでなく、優れた書画、詩歌も残しています。」

長今「私も師任堂さまの作品を拝見したことがありますが、本当に素晴らしいものですね。」

栗谷「母は七歳の頃から、古(いにしえ)の画家・安堅の作品を手本に絵を学び始めたのですが、その安堅よりも母の方が上手であると評されています。」

長今「それは本当にすごいことですね。師任堂さまは絵を描くことが好きな少女だったようですが、子供時代は、どのように過ごされたのでしょう?」

栗谷「母は五人姉妹の次女で、幼い頃からとても賢く、多くの書物を読み、絵画以外にも書や刺繍も上手でした。性格も温和で妹たちの面倒もよく見たそうです。」

長今「御両親もさぞ可愛がられたことでしょう。」

栗谷「ええ。結婚する時も、外祖父(申命和)は父(李元秀)に〝他の娘たちは結婚して家を出ても少しも寂しくないが、この子が出て行くと思うと、とても寂しい〟と言って、結婚後も暫らくの間、実家に留まるよう勧めました。」

長今「師任堂さまの御実家は江陵にあり、夫君の御家は漢陽にあって簡単に行き来は出来ませんからね。」

栗谷「ところが母は父に次のように言ったのです。〝どうぞ漢陽に戻って学問に専念して下さい。そして科挙に合格したら一緒に暮らしましょう〟と。」

長今「お父さまは、それを受け入れたのですか?」

栗谷「一応は諒承したようですが、なかなか発とうとはしませんでした。結婚したばかりだったので、離れて暮らすのはやはり寂しかったのでしょう。父があまりにぐずぐずしていたので、業を煮やした母は、ならば自分が出て行くと言い出しました。ここに到って父もやっと重い腰を上げて漢陽に旅立ちました。その後、結婚半年目に外祖父が世を去ってしまい、母はもちろんのこと、父もとても悲しみました。母はそのまま江陵で三年間外祖父の喪に服することになり、父はその間に必死に勉強して科挙に合格しました。」

長今「外祖父さまの服喪を終えた後、師任堂さまは上京したのですね。婚家は漢陽・寿進坊だったそうですが、そこでお母さまはどのように過ごされましたか?」

栗谷「口数がとても少なく、行動も極めて慎重でした。我が家で祝宴が開かれたことがあり、親族の女性たちも大勢集まり、皆が賑やかに談笑するなか、母だけは隅の方に黙って座っていました。そんな母の姿を見た祖母は〝この子はどうして何も言わないのだろうね。少しはお話なさい〟とおっしゃたところ、母は〝家の門より外には出たことが無いので何も知らず、話すことが出来ないのです〟と応えたのです。この言葉を聞いてその場にいた婦人たちは皆恥じ入ったそうです。幼い頃から多くの書物を読み、外祖父からも様々なことを学んだ母が何も知らない筈はないのですが、そうした素振りは少しも見せませんでした。」

長今「本当に慎ましい方だったのですね。」

栗谷「しかし、母の才識はすぐに知られるようになりました。」

長今「このことについて、とても興味深いお話があるそうですね。」

栗谷「この場に集まっていた婦人の一人が誤って下裳を汚してしまったのです。この婦人の家はとても貧しく外出用の衣服を持っていなかったそうです。この下裳も近所の人から借りたもので、弁償も出来ず途方にくれていました。この様子を見ていた母は、侍女に筆と墨を持ってくるように言って、その婦人の側に行きました。母は婦人に慰めの言葉を掛けながら、侍女の持ってきた筆を手にすると汚れた下裳に葡萄の絵を描きました。それは見事なものでその場にいた人々は一様に感嘆しました。母は、この下裳を市場で売ることを勧めました。下裳は予想外の値段で売れて、新しい下裳を買ってもお釣りがくるほどでした。」

長今「母として嫁として妻として師任堂さまは多忙な日々を過ごされたようですね。」

栗谷「日中は家の仕事に専念していましたが、夜になると実家が恋しく思われてよく涙を流していました。ある日、親戚の小間使いが我が家にやってきて玄琴を弾いたのですが、これを聴いていた母は〝琴の音というのは恋しさを抱く者の胸をいっそう焦がすものですね〟と呟き、その場にいた人々の心を打ったそうです。祖母はこんな母を不憫に思って、時々、江陵の実家に里帰りさせました。」

長今「栗谷さまが初めて科挙に合格されたのが十三歳(数え年、以下同じ)の時だそうですが、お母さまは大変喜ばれたそうですね。」

栗谷「ええ……。私は、その後八回科挙に合格したのですが、合格の報せを伝えられたのは、この時だけでした。」

長今「師任堂さまが亡くなったのは四十八歳でしたが、その時、栗谷さまは……。」

栗谷「十六歳でした……。実は私は、母の臨終には間に合わなかったのです。」

長今「それは、また……。」

栗谷「父が仕事で地方に出ていたのですが、兄と私もついて行きました。その帰途、荷物の中に入れて置いた鍮器が突然、真赤になってしまったのです。胸騒ぎがした私たちは大急ぎで家に戻ったのですが、母は既にこの世の人ではありませんでした。後で知ったのですが、鍮器が変色した正にその時、母は息を引き取ったそうです。」

長今「不思議なこともあるのですね……。最後に一つ伺いたいのですが、師任堂という雅号には、どのような意味があるのでしょう?」

栗谷「中国の周王朝を建てた武王の祖母、つまり文王の母〝太任〟を師匠にするという意味です。太任は賢婦として有名な女性です。母は結婚後、この雅号を使うようになりました。」

長今「お忙しいなか、長い時間どうもありがとうございました。」

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妣に捧げる譚詩曲(母に捧げるバラード) 高麗楼*鶏林書笈 @keirin_syokyu

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