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 矢吹蒼甫やぶきそうすけは、よく降るなぁ、ぐらいの感覚で、<サン・ロビー>でからだに安全帯を装着するとWチェックした。いや、サード、フォース・チェックしたぐらいだ。<サン・ロビー>の壁に書かれた、顔から直接手足の生えたキャラクターだけが、矢吹の安全帯を確認していた。矢吹には雨より安全帯の装着の確認のほうが重要だった。

 オン・ザ・フィフス・チェックで

「安全帯よし」

 と大声で指差し確認すると、安全帯のテザーを肩に掛け、それこそ、九州北部伝統の炭鉱夫スタイルで西日本最大のジェットコースター<バイパー毒蛇>に向かい、一歩一歩しっかりとした歩みで歩いていった。

 ここで、頭のいい読者ならもう気づかれているかもしれないが、矢吹が安全帯でサイドバーに結び付けられていても、もし踏み外せば、矢吹は、たった独りでこの<グランド・ワールド>に居るのである。

 朝、運営会社の北九州アミューズメントの職員が出勤してくるまで、宙吊りになるのである。

 人の仕事に対する使命感とは誠に恐ろしかった。そんなこと、つゆも考えず矢吹は<バイパー>に雷鳴轟く豪雨の中、向かっていた。

 到着した矢吹は、事前に相当迷ったが、作業を暗闇で行うのは、無理と判断。<バイパー>のバックヤードに廻り、小さな自販機のような分電盤のアクセスパネルで電源を入れた。

 実は<バイパー>の操作は、ここしか、わからない。

 作業中にコースターが勝手に走り出すのを防止したかったが、どれが、安全ブレーキなのか、渡されたマニュアルをなんど見てもわからなかった。

 ヴィーンと鈍い音がして、<バイパー>自身の灯りが点灯し、煌々と周囲を照らすまでになった。

 矢吹は最高部を見上げた。ある、確かにある、あれが避雷針だ。最高部に更にアンテナのように天高くそそり立っている。

 あそこまで、行くのかと思うと、かなりめげたが、仕事である、なんとかしてやらねばならない。

 <バイパー>搭乗のプラットホームまで、なんとエレベーターがあった。当然矢吹は利用した。

 中は、雨を避けられたし、ちょうどよい狭さで落ち着いた。

 なにげなく、エレベーターの操作パネルのボタンを押そうとして、手が止まった。

 女の長い髪の毛がびっちり、二つしかない昇降のボタンの隙間に絡みついていた。

 これには、矢吹も閉口した。

 そして、押そうと思ったボタンには、炭だろうか、黒く、炭のような黒い粒子がついていた。

 ボタンについている黒い炭のような汚れは手袋をしていたため、なんともなかったが、ボタンの隙間に絡みついた長い大量の髪の毛は本当に困った。

 ボタンがその隙間への詰め物のせいで、全く押せなかった。

 仕方なく、矢吹は、髪の毛を絡め取りなんとか、ボタンを押せるようにした。

 絡め取った長いおそらく女ものの髪の毛をどうするか一瞬逡巡したが、ゴミ箱まで捨てに行く気はおこらなかった、その場所エレベータの中にすてた。

 矢吹は、女性自身を捨てたような、嫌な気持ちになったが、それと同時にエレベーター

が動き出した。

 少しの間だが、落とした、いや捨てた、髪の毛を見ていた。エレベーターが伝える微弱な振動で、まとめて床にすてていた髪の毛が徐々に、紙相撲の力士のように振動に合わせて動き出し、人の顔を、そう丁度頭部の位置に向かってまとまりだした。

 矢吹は、思わず、履いている安全靴で髪の毛をぐじゃぐじゃに踏みにじってしまった。 そのままだと、本当に人の頭がそこにあるかのように動いていたからだ。

 しかし、それは、気のせいだったし、逆にありえない恐怖にかられて申し訳ないことをしたようにさえ思った。

 安全靴で髪の毛をいじったときに、矢吹の躰のバランスが若干乱れた、自分の背後に黒いものがあることに気づいた。

「うわっ」

 悲鳴とともに、矢吹は、小さなエレベーターの中で振り向いた。

 背後のエレベーターの壁には、掘り起こしたばかりの炭坑の鉱石や石炭で書きなぐったような、黒一色の落書きが在った。

 ハングル文字だ。

 壁一面に書き殴られている。

 ところどころ、どす黒い赤が混じり、血で書かれたようにも見える。

 矢吹は、韓国語は、日本人なのでわからない。

 しかし、九州、とりわけ北九州は、在日朝鮮人の多い地域だ。実際コリアン・タウンもあるし、簡単に、日本用の通名であることを想起させる名前の友人もクラスにはたくさんいた。

 戦時中に強制連行か、食い詰めて一儲けしに来たのかは、歴史認識と政治に対する

左右の思想性で大きく別れるところだったが、戦時下、炭坑にたくさんの在日朝鮮人がいて、戦後そのまんまになっていることは、もう矢吹の世代だと三世代目ぐらいにあたるが肌でどこの地域の日本人より知っていた。 

 なんて書いてあるのか、わからないのが、ものすごい恐怖だった。せめて意味がわかれば、恐怖が小さく抑えられるような気がした。

 そう思っていると、エレベーターは、チンっと小さく鳴り、<バイパー>のプラットホームに到着した。

 エレベーターのドアが自動で開くと、プラットホームの端には、髪の長い女がコートを着て、うつむき加減で立っていた。

 

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