2.白石和葉

「よし」

 弁当をかき込むように食べ終えて、立ち上がる真由子。

「行こう」

 そそくさと昼食を済ませた俺たちは中屋上を後にし、改めて文芸部室に向かう。


 大抵の生徒は昼食を教室で取るため、昼休みの廊下は授業中までとはいかないがどことなく静まり返っている。わずかに聞こえてくる教室からの声は、扉一枚隔てればほとんど遮断してしまえる。

 引き戸を閉め、カーテンのような垂れ布の前に立つ。

 ――誰かいる。

 文芸部部室前。何かをぱちぱちと叩く音が静かな空間に響き渡る。

 隣の真由子を見る。神妙な顔をしている。籠絡。今から彼女は外交を行うのだ。……果たしてこいつに完遂しきれるのか?

 真由子は目の前に垂れ下がる布に手をかけ、思い切って中に侵入した。後に続く。


 布をくぐって視線を上げ、部室内を見回す。

 部室中央には、普段教室で使っている机が2×2で並べられている。部室奥にはスチール製の大きな本棚、俺たちが立っている入り口すぐの左手側には縦長の木製の本棚がそれぞれ設置されている。

 ――そして、中央の四つの机のうち、右手奥の席に座って、薄型ノートパソコンのキーボードに手をかけたまま、こちらを見て固まっている女子生徒がひとり。


「ぅえ……ァ……」


 驚いた顔で目を見開く彼女は、狼狽えるように小さなうめき声を上げた。

 真っ赤なノートパソコンの横には、トマトジュースのパックと総菜パンがふたつ。おそらく購買で買ったものだろう。ひとつは半分くらい手がつけられていた。

「なな、なん、ですか……」

 木枯らしみたいにか細い、ほとんど聴こえないくらいの囁き声が彼女から発せられた。

 後退りするかのような弱々しい声。真由子はその言葉に返事をする。

「文芸部ですよね」

 勝てる相手と踏んだのだろうか。強気に出ているように聴こえるのは単に相手の声が小さすぎるからってだけの気もするけれど。

「……はい、そうですけど……」

 羽虫が耳元を飛んでいったみたいな小さな返事が返ってくる。

「SSS団です。文芸部を乗っ取りにきました」

 また随分とストレートな。やっぱり勝てる相手と踏んだのだろう。こんなやつに足元見られるとか、大丈夫か文芸部。


 改めて文芸部の彼女を見る。

 腰まであるんじゃないかってくらいに長い黒髪は、パイプ椅子の背もたれを覆い尽くし、頬から目元までを隠しており、輪郭や表情の全てを窺うことはできない。蒼白く見える肌は、夜の海みたいに真っ黒なその髪との対比でもはや病的だとまで言ってしまえる。

 目元には隈があるように見えるけれど、単に毛髪の陰なのだろうか。視点の定まらないその目は忙しなくきょろきょろと動く。口許は緩く吊り上がり、表情はどこか不安定だ。鼻筋はすっとしていて、……もしかして本来美人なんじゃないかと思ったりもするのだけれど、どうにもその無駄に長い髪が台無しにしてしまっている印象を受ける。腰まであるようなストレートロングが映えるのは、それこそアニメやライトノベルだけの話ではないだろうか。現実で見るとちょっと、みっともないというか。

「SSS団……知っている……くひ……」

 真由子の言葉に彼女は俯いて、そう呟いて不気味に笑う。

「涼宮ハルヒ……わたしも好き……続き、早く読みたい……」

 その異様な雰囲気に、真由子は押し黙る。

「田中……真由子さん……知ってるよ、わたし、貴女のこと」

「――!」

 真由子がシリアスな表情で、ぴくりと反応する。……いや、まあ、お前のこと知らないやつなんて学校が大嫌いかよっぽど他人に興味ないやつくらいでしょうよ。

「乗っ取る……ふふ……略奪……征服……侵略……」

「……おい、ちょっとヤバいんじゃないかこいつ……」

 真由子の耳元で思わず囁く。目の前で肩を小刻みに震わせながら笑い声を漏らす彼女は、誰がどう見てもヤバい奴のオーラを発している。

「あなた、名前は」

 しかし真由子は、動じることなく尋ねる。肩の揺れがぴたりと止まり、彼女は言う。

「……白石。白石、和葉。前生アトランティスの戦士……くひっ」

 ……前生アトランティスの戦士? 俺の聞き間違いだろうか、いや、彼女は今確かにそう言った。ちょっと待て、もしかしてこいつは――いや、……。

「白石……あなただったのね」

 ? ちょっと待て、なんだ真由子、お前こいつのこと知っているのか? ……もしかして、前生アトランティスの戦士に乗っかるのか? 石の塔の戦いを私は覚えているとか言うつもりなのか⁉

「文化祭で発行していた文芸誌。私あなたの書いた小説が一番好き」

「!」

 彼女――白石はその言葉にばっと顔を上げ、目を丸くさせる。しばしその表情のまま呆然と固まって、やがて口許をふっと緩めて、にやりと頬を綻ばせた。

「ふふ、そう、ありがとう……ありがとう」

「もしかして……今も何か書いていたの?」

 真由子は彼女の手元にあるパソコンに視線を送る。

「……うん、そう、そうだよ。夏休みから書き始めた新しいやつ……くふ、み、見る?」

 白石は垂れ下がる髪の間から視線を流し、パソコンの画面を少しだけこちらに向けた。

 垂れ目がちな目元に、長い睫毛。やはり顔周りを明るくしていれば、美人の部類だろう。

「……読みたい。読んでいい?」

 おい、誘惑に負けてんじゃねーよ。籠絡はどうした。

 真由子は言いながら白石の目の前の席に座った。そうだった。こいつには謎の行動力と変な大胆さだけはあるんだった。俺だけ立ったままもなんなので真由子の隣に着席する。

「もう少しで書き終わるんだけどね……」

 真由子は真剣な表情で読み始める。俺も少しだけ覗き込む。

 一定の間隔で、ページめくりのキーを叩く乾いた音だけが響く。


 洗練された文章。読み手を惹き込む書き出し。ぱっと流し見ただけでも、それが分かる。あ、これ腰据えてじっくり読みたいかも――そんな風に思わされる。

 五分くらい経っただろうか。真由子がパソコンから目を離した。ちょうど序章が終わったところで画面内のページは止まっている。

「……すごい。面白い。ほんと面白い」

 溜息を零すように、真由子は言った。

「くひ、あり、ありがとう」

「完成したら読ませて」

「……うん、分かった。じゃあ、残しておくね……」

 ――

 妙に引っかかる言い方だった。書き終えたら全部消してしまうとか、そういう職人気質的な信条なのだろうか。分からない。単なる作家的な、詩人的な言い回し? 彼女の喋り方は独特なものがあるし、おそらくは本人にとっては何かしらの意味がある言葉なんだろうけれど……俺にはその発言の意味を、捉えることができなかった。

「……どうやったらこんな面白いものが書けるの。同い年、なのに……」

 真由子は至極真面目に呟く。……本来の目的も忘れて。

「そ、そんなにほ、褒め……ひひ」

 白石は真由子から視線を逸らす。右手側の床を見つめながらくひくひと肩を揺らす。


「……小説、好き?」

 ふとやってきた沈黙をそっと破って、白石から、融けて消え入る雪みたいな声で、そんな質問がなされた。彼女の方から質問がなされるなんて少し意外だった。その言葉はどこか寂しげで、やっぱり真っ白な雪を思い起こさせた。

「うん。好き。大好き。私、本しか友達いなかったし」

 ……そんな悲しいこと堂々と言うなって。

「く、くひ……わ、わたしも、そう。友達、本、だけ……あ、違う、あと、地縛霊、くふ」

「地縛霊……?」

 俺は思わず声が漏れる。

「好きな作品ってある? 作家でもいい」

 真由子は訊く。もう純粋にコミュニケーションを取ろうとしている。それは微笑ましいことなのかもしれないけれど、本来の目的忘れているからな、お前。

「くひ……好きな作家……そうだね、夢野久作、恩田陸、ああ、でも一番は、ふふ……〝作家〟大槻ケンヂ……ふふ、オモイデ教は至高……くるぐる使いに……ステーシーズも好き……」

 少しだけ熱の籠った声色で、白石は呟いた。

「……それ、面白い?」

「面白い。面白い! 毒電波、爆弾、新興宗教、誘流メグマ祈呪術……UFOに埋め込まれた器具……ナイフで抉って……鉛筆を目玉に突き刺して……少女は百六十五の肉塊に解体される……」

 傍から見れば完全に頭のネジが外れた人だけれど、これはおそらく小説の内容紹介のはずで……。どこか虚ろな目を輝かせて、白石は楽しげに語った。

「……面白そう」

 真由子が言う。

「よっ、読む? くひ、貸す、貸す……」

「うん、読む。借りる」

 ……あ。もしかしてこいつ、ちゃんと真っ当な方法で文芸部員と親交を深めていこうとしているのか? 少しずつ親しくなって、やがてこの場所に自分も居座れるようになろうと、そういう清い作戦なのか?

 昼休み終わりのチャイムが鳴った。文芸部室の三人はなんとなく一斉に、天井に視線を向けた。

「……白石さんて、何組なの」

 立ち上がりながら、真由子が尋ねる。

「……4です、死……デス、です、くひ」

 白石は発話のたびに引き攣った笑みを浮かべる。

「放課後はここにはこないの?」

「あまり……こない……帰る」

「そう。……じゃあ、またね」

 またね。真由子は確かにそう言って、部室を後にしようとする。

「あ…………」

 背後でかたり、と音がした。二人して振り返ると、白石が立ち上がっていた。

「あ……うぇ、っと……」

 すらりと、少し心配になるくらいには細い身体。それでもきっとスタイルは悪くないはずで……しかし残念なことに結構な猫背で、その黒髪と同じように長いスカートの丈も相まって、歩く姿はさながら、妖怪が這い回っているようだった。


 白石は部室奥の本棚から何かを取り出し、ゆっくりとこちらに歩み寄る。

「くひ、け、契約……」

 入部届けが二枚、目の前に突き出される。

「契約?」

「契約……」

 一人しかいない部活動、自動的にその一人が部長となるのは当たり前か。

「ああ、……私たち、演劇部に入ってるんだけど」

 左隣の仕切り板に視線を送り、真由子が返事をする。

「……あれ……入部、違うの……」

 乗っ取る、という言葉も、彼女には結局入部のことだと思われていたのだろうか。

 真由子の言葉に少しだけ、面食らったような寂しげな表情を見せる白石。どこかしょんぼりと背中を丸めて、自分の席に戻る。

「……ひひ、まあ、いいよ、ね……どうせもうすぐ、全部終わるんだから……」

 そう呟いて、かたかたと身体を揺らしながら笑う。完全に独りの世界に入ってしまったらしい。「授業始まるけど」という俺の言葉に微塵も反応しないまま、笑い続ける。

「……行こ」

 真由子の言葉で、俺たちは部室を後にした。



 教室に向かう途中の廊下。黙ったまま歩く真由子。

「……危うい感じだよな」

「…………」

 階段近くで、彼女は歩く速度を緩め、立ち止まって俯いた。

「……どうした?」

 振り返り俺は尋ねる。遠くから教師たちが会話をしながら歩いてくる音が聞こえ、それに気づいたらしい真由子は再び歩き出し、俺の隣に追いつく。

「ねえ、気づいた?」

 進行方向を見ながら、彼女は小さく言う。

「何に?」

「白石さんの手首」

「……手首?」


「切ってたよ、彼女」


     ◇


 五限の授業。教師の説明も話半分で、昼休みのことを思い返す。

 ただ一人となった文芸部員。部室で一人、小説を書いていた少女。

 端的に言えば、〝普通〟とはかけ離れた少女。

 どこか噛み合わない会話。定まらない視点。唐突に入り込む自分だけの世界。

 ――リストカット。

 聞いたことはある。それがどういう意味であるのかも知っている。

 けれど、それを実際に行っている人には、今まで出会ったことがなかった。

 あるいは、身近にいても、気付かなかっただけなのかもしれない。

 自らの身体を傷つけること。それによって、自分の苦しみを和らげたり、誰かに訴えかけたり、注目してもらいたかったり、あるいは、生きていることを確かめたりすること。

 俺には、到底理解できるものではないけれど。

「明日の昼休みも、行こう」

 教室に入る直前、真由子はそう言った。その言葉は、どことなく覚悟に満ちていた。――部室を乗っ取ることとは違う覚悟が。

 白石和葉。もしかしたら彼女は、真由子なんかよりもずっとずっと重い何かを、抱えているのかもしれなかった。

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