それのない風景で
湿原工房
第1話 橋
「この川は浅いね」
「濡れて渡ろうとは思わないけどね」
「橋があればいいんだけどな」
「見る限りないらしいね」
「ないな」
「橋があるなら俺たちは川の深さに無頓着のままでいられただろう」
「昨日渡った橋はどこに行ったんだろう」
「昨日も一昨日も橋はなかったんだよ。コンクリの欠片もない、きれいさっぱりな川だよここは」
「じゃあどうやって君はここにいるんだ、君ん家むこう側だろ」
「だから、もっと上流か下流かに行けば」
「ここより近い橋っていうと隣町まで行かないとないのは知ってるか」
「隣町のを渡ったんだろ」
「歩いたのか? 隣町から? 車も自転車もなしに?」
「タクシーかな」
「いくらだった」
「憶えてない」
「違う、乗っていないんだ」
「いや待て」
「橋の建設予定を?」
「違う。聞け」
「……」
「俺たち迷子になってないか」
「あると言い張っていた橋がなかったんだ。たしかに路頭に迷ってるよ」
「違う。橋はここじゃないどこかにあるんだよ」
「隣町にな」
「それじゃない、昨日俺が渡った橋がさ」
「どこに」
「ここではないどこかだよ」
「で、どこよ」
「分からない」
「そんな橋はない。昨日今日引っ越してきたわけじゃないんだ」
「もちろん」
「だったら」
「待て待て、だからといって、一々の橋を知ってるとは限らない」
「まあたしかに」
「だったら」
「待て待て、なんで昨日渡ったはずの橋へ行く道を間違うことがある」
「ぼけたのかな」
「2人して?」
「2人して」
「2人してぼけて隣町の橋を渡った?」
「いや、俺の家は川の向こうじゃない可能性について」
「そうか。橋のあるない以前に、川は渡らなかった、すげえじゃん天才じゃね。じゃあ俺そろそろ」
「おい」
「痛っ、なんだよ」
「で、家はどこにあるんだ」
「あっちだよ」
「それお前の家の方角」
「お前の家は俺より知ってるのがいるだろ」
「俺か」
「お前だ」
「それが、向こう岸にあるって確信が拭えない」
「不思議と俺もだ」
「冗談は置いておいて――ほんと、橋があったって微塵の痕跡もないな」
「こうして目の前に悪い冗談があるんだ、これ以上冗談をいうな」
「もっともだ」
「それにしても、こうして見ると対岸てのは幻想的だな」
「そこにあるのに届かない」
「太陽はもう渡ったな」
「ところで、なんのために川を渡ろうなんてことになったんだっけ」
「「渡ろう」なんて、硬い意志ではなかったけどな」
「橋があるつもりで来たからな」
「それが、まさかなくて、立ち往生食らって、俺たちは川を渡ることを意識しはじめたんだ。いま俺たちは川について、渡るということについて、彼岸について初めて意識しはじめた」
「いかにもお前趣味な話題だけど、それは橋になるのか」
「ならない」
「河原で夜を明かしたくはないんだ」
「まったくだ」
「しかしどうする。ほんとに日が暮れる」
「そうだな。日のかげりだけが時間を報せている。川は時間を教えないんだな……ゆくかわのながれはたえずし」
「リテイク」
「は?」
「この状況で趣味に走るのはナンセンスだってさっき言っただろ、河原で夜を明かしたくはないんだ」
「ああ、そうだった」
「どっちかがおんぶしていこう」
「一人は犠牲になると」
「靴脱いでズボンもまくり上げれば、足が濡れるだけだ。どうってことない」
「わかった、恩にきる」
「おい」
「なんだ」
「打開策をだしたのは俺だ」
「そうだな、助かるよ。よいっしょ」
「おい」
「早くズボンまくれよ」
「なんでそうなる」
「おい、石を投げるな、水が跳ねるだろ」
「好都合だ」
「おいって」
「なんだよ」
「そもそも俺は向こうに行く必要はないんだよ、こっち側に家があるんだから。お前は足を濡らして帰ればいい。違うか」
「違う」
「おい、……てめ」
「うわ、おい」
「なんだよ」
「押すなよ、濡れるだろ」
「好都合だ」
「てめ……」
「くそ」
「あ!」
「あ!」
「あー……」
「あーあ……」
「どっちが背負う?」
「ナンセンスな話だな」
「そうだな」
「冷たっ」
「やっぱり浅いよこの川、膝までもない」
「俺たちはその膝までもない川と昼を通して睨めっこしてたんだ」
「橋なんていらないな」
「実際ないけどな」
「いや、あるじゃない」
「ああ、隣町に」
「なんでこんなのに橋架けたのかなって」
「えいっ」
「冷た!」
「凍傷になりたくなかったんじゃない?」
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