奇病が齎すは幸福か不幸か。

空唄 結。

第1症例 鉱石病

「目覚めはどうだい」


 カーテンが静かに開かれる。私が寝ているベッドの反対側だけを、そっと。配慮されていることに胸が痛む。


「良くもないけど悪くもないわ」

「だろうね」


 それが毎朝の私達のやり取り。お決まりの始まりが今日の無事の祈り。せめて、せめてもう一日だけでも普通の日常を。そんな無意味な祈り。

 私の体は蝕まれている。「鉱石病」。それはとても深刻な奇病だ。最初は指先が少しだけ動かなくなり、そしてある日、少しだけ欠けた。欠けた断面からは血など流れなくて、美しい宝石のように煌めいていた。次は踵だった。指先と同じように硬くなり、欠けた箇所はやはり輝いていて。貧乏だった私と夫は、悲しみながらも喜んだ。これで少しくらいならば美味しいものが食べられると。

 私の体が鉱石に変わっていく度、家の中のものは少しずつ高価になり、食卓の品数も増えていく。夫は幸福そうで、でも気の毒そうに私を見つめる。私は確かに不自由だったが、夫に幸福を捧げられるのなら、指や足の一つや二つが人間じゃなくなっても平気だった。今まで私を養ってくれたお礼がしたかったのだ。


「オレンジだよ、好きだろう?」

「ええ。甘いといいわね」


 手首の先がすっかりなくなってしまった私の代わりに、夫は私の世話を甲斐甲斐しく焼いてくれる。好物のオレンジの皮を剥き、滴る果汁に塗れた指で私の口へ果実を運んでくれる。オレンジの実と彼の指を味わうと、酸味と甘みが混じりあって、口内が悲しみで満ちていく。


「……ごめんね」

「何言ってるんだ。僕達は夫婦じゃないか。もし僕が君と同じ病にかかったとしても、君も同じように介抱してくれるだろう?」

「そう……ね。変なことを言ったわ」


 気にしないで、と首を振る夫。その優しさが私には今、何よりも、毒だった。

 余命、三週間。それが町医者の見立てだった。余りにも短いと嘆いた夫。三週間かけてじわじわと死んでいくのだという恐怖に怯える私のことなど気付かずに、少しでも長く生きられるように頑張ろうな、と泣き顔を隠して笑う夫に、私が何を言えただろう。

 本当は、欠けていく指先が悲しかった。消えていく足が恐ろしかった。ベッドに寝たきりで、私は、絶望した。もしこのまま死んでいくのなら、どんな苦痛が待っているのだろうと、考えない瞬間はない。一刻も早く死んでしまいたいとさえ思った。だが夫はそんなことを望まないだろう。それが私を更に雁字搦めにしていく。

 つきん、と痛みが走る。


「あ、れ」

「どうした?」


 夫がオレンジを剥く手を止めて顔をあげる。と、途端に叫んだ。


「な、に?」

「お前……涙が……!」


 涙、と聞いて悟った。末期の症状が始まってしまったと。つきん、つきん、と痛みが脈動する。赤い涙が止まらない。

 ああ、死んでしまう。それならば、早く。早く私の心臓まで鉱石に変わって。痛みで薄れゆく意識の片隅で、夫が助けを求めているのが聞こえる。もういいのよ、あなた。私の体は売ってしまえばいいわ。きっとお金持ちになれるでしょう。だって人一人分の鉱石ですもの。あなたがしあわせになれるなら、からだなんて、いらないの。


***


 私はすっかり動かなくなった体の奥底で、永遠に続くような痛みに耐えながら、鼓動が止まるのを待っている。開かれたままの瞳は少しずつ鉱石へ変わり、意志とは関係なく流れる涙だけが私の生を物語る。その日、耳元でいつも通り始まる朝を感じて、そして、恐ろしい言葉を、聞いた。


「それ以上泣かないでくれ。折角の鉱石が錆び付いてしまうだろう」



『鉱石病』という深刻な病にかかっています。体の一部が鉱石になり不自由になってしまう病です。この症状は一時的です。悪化すると痛みと共に血涙を流すようになります。

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