ハンドクリーム

三谷銀屋

ハンドクリーム

 この頃の風潮として、OLというものはフレグランスに弱い、というのがある。

 例えば、香水、エッセンシャルオイル、お香から始まって、ハンドクリーム、リップクリーム、シャンプーその他諸々。いろいろなフレグランス製品が世の中には溢れかえっている。その匂いの種類と言えば、ラヴェンダー、ハマナス等の花の香りや、せっけんやミントの爽やか系、はちみつ、レモン、りんご等、食欲をそそるような甘い香りまで。

 これについては私とて例外ではなく、いろいろな香りのする各種ハンドクリームを、ドラッグストアやおしゃれな雑貨屋に立ち寄る度にせっせと集めたりしている。そして、ハンドクリームの香りは毎日その日の気分によって使い分け、デスクワークの最中は一時間おきに気分転換と称して掌や指先に入念にすり込むのだ。

 こんな感じであらゆる種類の香りのハンドクリームをデスクの引き出しやら自室のメイクボックスの中やらに大量に氾濫させている私なのだが、実はたったひとつだけ苦手な匂いがある。

 薔薇の香りだ。

 もわっと鼻腔の細胞を包み込むような濃厚な花の香り。

 苦手な理由は、この香りの自己主張の強さに加えて、私が不思議に何度もこの薔薇の香りを夢に見るからだ。いや、正確には、夢に嗅ぐ、というべきか。


 夢の中で、私はだだっ広くて、暗くて、深い・・・・・・まるで深夜のまっくらな体育館のような場所で、古びた1個の木の椅子に所在なさげにぺったりと腰掛けている。

 ソワソワとした気持ちを抱えてぼんやりと座っていると、不意に私の首にひんやりとしたものがスルリと巻き付く。

 それは、白い手だ。水に浮いて死んでいる魚の腹の色のような白さ。その手は闇の中で透明な光を放ちながらヌメヌメとテカっている。

 後ろを振り向きたいけれども振り向けない。

 白い手が私の首をぎゅうぎゅう締め上げるからだ。

 その手からは、ぬるく湿った薔薇の香りがぼんやりと匂い立つ。薔薇の花そのものの香りではなく、匂いの元を人工的に練り固めた、あのハンドクリームの香り。

 喉元を締め上げられたままで意識が次第に遠のいていき、ついに自分の命も闇の中に沈んだかと思った瞬間に、私はいつも目が覚める。

 だから、そういう夢を何度も繰り返し見る分、私は薔薇の香りのハンドクリームだけはどうしても好きになれなかった。


 しかしある日、私の女友達の1人がピンク色の可愛いパッケージのハンドクリームを私にプレゼントしてくれた。薔薇の香りの。

 街中のありふれたカフェのチェーン店で、私たちは向かい合って座っていた。1年ぶりに会う、元同級生だった。

 久しぶりに会う彼女は血色の良い、ツヤツヤした顔をしていた。にも、関わらず、彼女の瞳はビー玉のように無機質な光を宿していてどこかに重篤な病気を抱えているのではないかと思わせるような荒涼とした雰囲気をも漂わせていた。

 きっと私の考えすぎだろう。久しぶりに会うので、私の気持ちもどこか高ぶっておかしくなっているに違いない。

「貴女、ハンドクリーム集めるのすきだったわよね?このハンドクリームを見つけたとき、咄嗟に貴女の顔が思い浮かんだの。こうして久しぶりに会えのだし、遠慮せずにもらってちょうだい」

 彼女は優しく、親切だった。

 私は心から喜んでいるような笑顔を顔に浮かべて、彼女が差し出すプレゼントを受け取った。申し訳ないが、家に帰ったら多分これはゴミ箱に捨てるだろう、と思いながら。

「ねぇ、つけてみて」彼女が言った。

「家に帰って夜寝る前につけるわ」私はなんとか誤魔化そうとした。

「ねぇ。ここでつけて」

「でも・・・・・・」

「ねぇ、せっかくのプレセントなんだから、ここでつけてみてよ」

 彼女は意外な執拗さをみせた。

「ねぇ、つけて。塗ってみてってば、ねぇ。つけて、つけてつけてつけてつけてつけてつけて・・・・・・」

 彼女があまりにしつこく言ってくるので、私も根負けするしかない。

 素直に薄桃色のクリームを手に塗り、両手を合わせて擦りこんだ。ふうわりと、あの薔薇の香りが手元から匂いたつ。

 私は急に息苦しい気分になり、思わず、自分の首に手を当てた。

 目の前の友人は、それを見ながらビー玉のような目をギラギラと輝かせて、何も言わずににやりと私に微笑みかけた。


 その夜、私はやはり夢を見た。

 しかし、いつものように首をしめられる夢ではなかった。

 後ろ向きに椅子に座った女の首に自分の手をかけ、締め上げる夢だ。ぎゅうぎゅうと。

 女の体がなんとか空気を吸い込もうとびくりびくりと揺れ動き、白い喉が反り返りながらグネグネと波打つ。女の顔はなぜか見えない。

 私は女が自分の手の中で苦しむその光景に見とれながら、さらに力をこめてゆっくりと丹念に締め上げる。

 死にゆく女が力なくもがく度、自分の手からは薔薇の香りがふわりふわりとまき散らされた。

 女の体から力が抜ける。

 そして私は、薔薇の香りに包まれて恍惚とした気持ちのまま、夢から覚め、朝を迎える。


 洗面と歯磨きを済ますために洗面所へ行って驚いた。鏡をみると、自分の首筋に指のあとが赤くくっきりとついているのがわかったのだ。

 急に、ふんわりと濃厚な薔薇の香りが鼻腔をくすぐった。

 どこから香っているのか。

 わからない。

 昨日帰った後で手はいつもより入念に洗い流し、ハンドクリームの残り香などはよもや残っているはずはないのだが。

 鏡の中の自分の顔が不意ににたりと微笑んだ。心の中は笑うどころじゃなくて、驚き、途方に暮れているはずなのに・・・・・・私は笑っているの?

 私は奇妙な笑いを顔に張り付けたまま、心の中は恐怖と戸惑いで凍り付いていた。

 薔薇の香りに取り囲まれて、息が詰まる。

 鏡の中から私を見つめてくる私の笑顔は、昨日、ビー玉の目をした友人が私に投げかけた暗い微笑みに妙に似ていた。

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