第2話 いじめについて

 いじめとはどうして起こるのか、何を以ていじめとするのか、といった話はどんな学校や会社といった組織にでも存在する疑問だ。

 本人がいじめだと思えばいじめだ、と声を上げる者もいるがそれもそれで偏った意見ではないかとボクは思うのだ。

 そもそもいじめというのはボクが思うに、自分より下にいる存在を作ることで潰されそうな自尊心を保っているということ。

 普通に生活していても自尊心を保ちたくなったとて他者を蹴落とすという発想は中々出てきづらい。蹴落とす暇があるならば高めるという思考が少なからずあるのだから。無論、蹴落とすという発想は人としてあって当然だしむしろない方が違和感を感じる。人間とはそれほどまでに卑しく、醜い生き物なのだ。ボク含め。

 話を戻すと、何故人は蹴落とすという手段を選ぶのか。

 それは成長の過程で『蹴落とす』という手段を用いた時、偶然それが成功してしまった時に、これで通用する、と勘違いしてしまうからではないだろうか。

 一度これでいい、となると人間は進化することを拒むようになる。現状維持が楽と言われるように、前に進まないというのは非常に楽なことである。

 勿論そういう生き方があってもいいと思うし、他人の人生にボクが口を出せることなんてないに決まっている。けれどもその現状維持のせいで他人に迷惑をかけてしまったらそれは否定されても文句は言えない。

 迷惑をかけるということは他人の生き方を阻害することであり、自らの怠惰な発想から生まれた思考によって遮られたのだとするならば到底許されることではない。

 当然社会では糾弾され、場合によっては刑務所に入れられることにもなる。阻害には阻害で対応するのが一番確実なのだ。


 要するにボクが何を言いたいかというと、いじめという行為は人間としてやってはいけない行為であるということ。

 子どもでも理解できる理屈ながら、平気で目を背けようとする人間がいる。

 ただ勘違いしないでほしいのはボクが糾弾しているのは『いじめ』であって『距離をとる』ことではない。

 嫌いだと思う人間は生きていればそりゃ出会うだろうしボクだって死ぬほどあってきた。顔を見るだけでぶん殴りたくなるほど波長の合わない奴もいる。

 けれどそれは相手の生き方をボクのほうが理解できていないだけ。喧嘩という手段を用いて暴力的に思考を刻み込むことは可能だが、あまりに非効率的だ。

 それならばさっさと距離を置いて関わらないようにするのが得策で、最善策なのだ。

 よく『無視』といってシカトすること自体がいじめだと唱える人間がいるが、ボクは違うと思う。悪口を言ったり暴力を振るったりすれば人の生き方を否定することになるので否定されて当然だと思うけれど、相手から距離をとって極力関わらないようにすることの何がいけないのだろうか。

 波長が合わない状態で人間関係を無理やり構築したところで大した価値は無い。

 無視というのは合理的な案だと思うので異議を唱えたい。




 ボクの言いたいことは以上だが、余談をしておく。

『いじめ』という行為が生まれるのには一応しっかりとしたメカニズムがあるとボクは思っている。

 いつぞやの機会に話したかもしれないが、人間を一番素早く、かつ確実に結び付ける方法とは何かご存知だろうか。

 正解は『共通の敵』を与えることだ。

 共通の敵を得ると人間関係というものは凄まじい速度で結成されるのだ。敵の敵は味方という言葉があるように、いじめの被害者という存在を虐げるために人間とは凄まじい程の結託力を見せる。

 そうした心理の中に潜んでいる感情は決して悪いものだけではなく、本能的に必要不可欠な、加担しないと次は自分が標的になる、というものも少なからずあり、そのネットワークはある種義務のようにもなっているため、結託力が高くなるという訳だ。

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