棄教
キロール
棄教
以下の文章は、灰燼と化したヴェルンホーンにて唯一残されていた書を冒険者である私が見つけたものである。
友が旅立ち、既に幾年の月日が流れた。
嘗ては神官を志した私もその旅路に付いていく筈であったが、ある理由で私は信仰を保つ事が出来なくなった。不甲斐ない話ではあるが、剣に選ばれた友をただ見送るしか出来なかったあの日を、今でも忘れる事はできない。あの日以来、私は己に対する深い怒りと……世界に対する深い疑義に苛まれている。
本来ならば、誰に語ることなく墓にまで持ち込むべき事柄を、今こうして文字を認めているのは、友の旅路が不首尾に終わり、我等の滅びが近づいてきているからに他ならない。幾多の魔族を退けたと風聞で伝え聞いた友は、魔王の元までたどり着けたのか否か。どちらであるにせよ、全ては終わった話だ。
魔王は数多の手勢を従えて、ヴェルンホーンを灰燼と帰すべく進軍中だ。
ヴェルンホーン、国と呼ぶにはあまりに小さく無防備な街。女神クロデアを崇める者達が山間部に程近い平野に位置するこの場所に街を造ったのは二十年ほど前。こんな場所に造られた街が、今まで存続出来たのは女神クロデアの加護である、そう宣って居られた神官長は、既にヴェルンホーンには居ない。クウェルクス公国にでも逃げ込んで、今頃棄教でもしているに違いない。
しかし、女神クロデアの加護は一時はあったのかも知れない。何しろ、この様な
何れ誰かが読む事があれば、私の文章は不敬に映る事だろう。それは私自身も感じている。何故なら、私は今でこそ女神クロデアに対する信仰を失っているが、嘗ては多くの者達と同様の信仰心を持ち合わせていたからだ。
選定の剣に選ばれるために体を鍛え、女神クロデアに祈りを捧げて日々を暮らしていた。魔族の襲来も、皆で力を合わせて乗り切り、あの時まで過ごして来た。
あの忌まわしいアルデア真書の写しの一部を垣間見るまでは。
それが本物であるのかは定かでは無い。ただ、私は納得してしまったのだ、そこに書かれていた事柄と、書き足されたであろう見知らぬ異端者の言葉に。
『女神クロデアが魔族を生み出した』
『女神は故意に魔王をつくり、それで生じる数多の悲喜劇を偉大なる方々に捧げ、慰撫している』
『所詮、この世は芝居小屋の演目』
死に掛けた行商人の荷物に紛れていたその写しを見やり、多くの者は一笑に付した。
私もその場では笑って己の真意を誤魔化したが、まるで鉛でも飲み込んだかのように胃の腑の辺りに重い物が蟠るのを感じた。私は、それらの言葉に納得してしまったのだ。本当に伝え聞くアルデア真書の写しかも分らぬ戯れ言を。
「所詮、この世は芝居小屋の演目…か。」
小さく呟いたと同時に激しい物音が響いた。街の周囲を覆う柵が破壊されたようだ。ヴェルンホーンの終わりは近い。せめて、私が見聞きしたあの書が偽物であってくれればと願いながら、ペンを置こう。私は真実を知ったのではなく、ありもしないでっち上げに振り回されただけであれば良いのだが……。
(以下に記された文字は極度の興奮状態にある事が窺われる歪んだ文字が並んでいる。)
馬鹿な! 馬鹿な! 女神め! 選定だと、一体何を選定したんだ! ああ、魔王など、魔王など見るのではなかった!
私は見た!
……炎を吹き上げる歪んだ漆黒の甲冑に、血に塗れた棍棒、そしてヴェルンホーンの神官戦士だけが持つ蛇の紋章の入った盾……。その姿を見ただけで、魔王である事が分かった。他の魔族を圧する存在感があるからだ。そして、一瞬炎が揺らめきそれが見えた時に、私は女神に対する不信を、怒りを爆発させた。
女神よ、ふざけるな、あれは何だ……!
ああ、そうだ。見間違う物か、私は見たのだ!
数多の血と臓物を浴び、不浄の炎で周囲を焦がす魔王の双眸が見えてしまったのだ。あれは、あれこそは、我が友カンデラリオの双眸ではなかったか!
あの愛するカンデラリオの澄んだ空のような青い双眸が、殺戮と破壊に酔い痴れていたのだ。
その瞳を、久方ぶりに見た私は、恐れと懐かしさと嫌悪と愛情を抱き、逃げ戻って来た。逃げられるはずも無いというのに。
ああ、戸口から熱を感じる。扉が焼け落ち、姿を見せたのは……
書はここで終わっている。ヴェルンホーンを襲った魔王ダルガンステルの消息は不明だが、彼の魔王について奇妙な噂を聞いたことを付随しておく。
彼の魔王には破壊の道化と呼ばれる女が付き従っていると言う。この世は芝居小屋の演目が口癖のこの道化の魔族は、女神クロデアの信徒を異様に毛嫌いし、棄教した者を彼女なりのやり方で愛するのだという。
その道化は一体どちらなのだろう、ヴェルンホーンで育った若い女なのか、それとも、アルデア真書の写しなるものを書き記して流布した者なのか…。どちらであっても、この書が魔族と戦う上での警句となることを願っている。
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