お茶漬けのシーン

デバスズメ

本文

午前様。

帰りが深夜0時を回ることを示す言葉で、会社帰りに飲んで夜遅くに帰ってくるサラリーマンに対する皮肉として使われていた言葉だ。今となってはどうかは分からないが。

ともかく、アキオは午前様だった。

「ただいま……」

マンションに帰り、なるべくそっと部屋の鍵を開け、なるべく小さな声で帰りを告げる。妻のミカを起こしたらコトだ。だが、リビングに明かりが付いてる。これはすなわち、そういうことである。

「起きてたのか」

気の抜けたような安心したようなアキオの声に、テレビを見ていたミカが振り返る。


「ん。おかえり。なんか食べる?」

ミカの睡眠を妨げると恐ろしいことになるが、元から起きていればそうはならない。むしろ、妙に機嫌が良さそうにも見える。

「あー、なんか軽く食べられる物でも貰えるとありがたいんだけど」


「ふっふっふー。そう来ると思って、ご飯を用意していおいたのだ」

ミカは謎の笑みを浮かべて台所に向かう。どうやら、相当に良いことがあったらしい。ミカのご機嫌を損ねるという最悪の事態を想定していたアキオは、安心からかドバっと疲れが出る。


台所の手前のリビングまで入り込み、スーツの背広を脱ぎ、ソファに投げる。飲み会で緩みきったネクタイを解いて、これもまたソファに投げる。ソファに座れるスペースがなくなったので、身体はテーブルにつけた。


台所の方からは、湯をわかす音と、何かネギらしきものを刻むような音が聞こえる。会社の飲み会なんでろくなもんじゃない、そんな心の重みが、じわじわと軽くなる。

ミカは鼻歌なんか混じらせている。感情は伝播するというが、まさにそれが今、起きている。


そんなことを考えていると、ミカが何やら持って戻ってきた。

「はい、どうぞ」

テーブルに置かれたのはお茶漬けだ。さっと食べやすく、ちょうどいい。

「お茶漬けか。いいね」


大きめの茶碗にやや小盛りに守られた白米。上に乗っているのは鯛の漬け。そして刻んだ万能ねぎが少々。

「ずいぶんと豪華な……もしかしてミカ」

「へっへっへー。今晩はちょっとお高いお刺身を食べたのだ」

「あー、やっぱり一人でいいもん食ってやがったな」

「ふっふっふー」

ミカはニヤニヤと笑う。その顔を見ていると、アキオも不思議と笑顔になる。

「ははっ。それじゃあご相伴にあずかりましょうかね」

「うむ。あずかるが良い」

アキオはお茶漬けをすする。出汁が効いていて美味い。脇に添えられたワサビを少々、辛さが味に変化をもたらしこれも美味い。

「美味しい?」

「うん。うん」

テーブルの向かいからミカが声をかけても、アキオはほとんど無言でお茶漬けを食べ続けた。その態度が、お茶漬けの美味しさを語っている。口は口程に物を言う。美味しいという言葉よりも、料理を食べ続けることが、どれほど旨さを伝えるかということだ。

「そうかそうか」

ミカはアキオのそんな姿を見て、また笑うのであった。

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