36℃の色鉛筆【改訂版】

ハットリミキ

第1話 私の肉

 ある朝、それは私のベッドに突然現れた。


「何、これ?」

 ベッドの真ん中に、肌色の餅が落ちていた。子猫ほどの大きさのそれは、しかし餅などでは決してなかった。

 私は、自分の傍らに落ちていたそれに、恐る恐る手を伸ばした。

「!」

 それに触ったと同時に、自分の腹部に何か触れたような感覚がした。私が触れたそれはやわらかく、温かかった。

 私は自分の腹部を見た。

 すると、腹部の忌々しい贅肉が消えて無くなっていた。

 ベッドから出て、姿見の前でパジャマの上着をめくりあげた。映っていたのは、くびれたウエストだった。

 信じられなかった。その前夜、眠る直前まで、確かにこの胴には肉がついていたのだ。

 何度も「この腹肉、取れないかな」と願っていた。トイレで座った時に胸の下にできる、プックリとした肉の帯。

 私は顔がにやけるのを感じた。夢のようなウエストを手に入れたのだ。


 そうなれば、目の前の肉塊はもう邪魔なだけ。

 ちょうどその日は、燃えるゴミの日だった。私は家中のゴミをまとめ、その中に肉塊も放り込み、ゴミ集積所に捨ててきた。

「これであのにっくき腹肉ともおさらば!」


 しかし、そう思ったのもつかの間。


「痛っ!」

 突然、腹部に鋭い痛みを感じた。

 すでに無くなった腹肉のあたりが、ひどく痛んだ。

 私は嫌な予感がして、ゴミ集積所を見た。するとカラスが一羽、私が出したばかりのゴミ袋の中から、あの肉塊を引きずり出していた。

 私は慌ててカラスを追っ払い、腹肉を救出した。少し血が出ていたが、無事だった。


 私の体から離れたものの、まだ繋がっていたらしい。

 これでは捨てられない。

 困った私はアパートの自室へ戻り、スーツケースを探した。そしてそれに肉塊を入れ、蓋をした。これなら蚊にくわれることもない。

 やっかいな物を抱えてしまったな、と私はうんざりした。


 けれど、手に入れたウエストは最高だった! 

 タンスの肥やしになっていた服がすんなりと入り、男の視線も集めるようになったのだ。


 一方、私は帰宅すると必ずスーツケースの中を開け、中の肉塊を確認した。

 そのままにしておいたらお腹を下したから、毛布を巻いて温めた。生理痛がひどい時は、横にカイロを置いたら痛みが緩和した。決して冷やさず、乾燥させず……そうやって世話をしているうちに、やっかいなはずのこの肉塊に、私はやがて親しみを覚えるようになったのだった。

 私は毎朝それに触れ、そうして自分の健康を知った。男達にちやほやされながらも決して外泊などはせず、帰宅すると必ずそれの様子を確認した。


 そんなある日。私は恋人と、レストランで食事をしていた。

 突然、腹部に熱いものを感じた。最初は温かい程度だったものが、次第に火に焼かれたような熱さになり、私はそのまま気を失った。

 彼は驚いて私を病院にまで運んでくれたけれど、まったく異常は無かった。


 病院のベッドで目がさめた私に知らされたのは、自宅アパートが全焼したことだった。見つかったスーツケースの中は、炭しか残っていなかった。

 けれど私は死ななかった。私はついに、腹の肉の呪縛から解かれたのだ。

 なのに、えたいの知れない喪失感に私は呆然とした。その理由は、まもなくわかることとなった。


 *


「それが、僕と結婚できないことと、どう関係しているの?」

 男はそう聞いたが、彼女は淡々と続けた。

「私、あの日からトイレに行ったことが無いの」

「え?」


「お小水も大も一切出なくなった。生理も無くなったわ。

 怖くなって病院に行ったけれど、やはり悪いところはどこもない。

 その時検査した医者が言ったの。

『あなた、妊娠したことがあるのね』

 私の腹は、焼けて消えたのよ。

 私の腹の中に入ったものは、全部消えるの。

 いつの間にかできていた私の子どもも。

 そして、これからできる子どもも、きっと……」

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