トリセツの無い異世界転生

@alice_n

第1話 目覚め

 トンネルと抜けると……全身を包む柔らかい感触と、甘い香り。微かに頬を掠める風は心地よく、花と木の気配を運び、僅かに美味しそうな匂いも混じっている。ん?トンネル?別にトンネルを歩いた覚えはないが、ずっと暗闇の中にいたような気がする。

 トクントクンと耳元に鼓動が感じられ、自分が誰かの腕の中にいることを悟った。

 眩しくて目が開けられない。薄ら開けた瞼の隙間は明るすぎて白く塗りつぶされている。


「あら、起きちゃったかしら」


 優しく、心地良い声は、聴いているこちらが笑顔になりそうな、溢れんばかりの幸せを滲ませている。

 チョット待て……。

 いつも俺を叩き起こす、地獄の門番ケルベロスも尻尾を股の下に挟んで逃げ出しても不思議ではない、笑顔で怒りを振りまくあの声じゃない。


「いい子ね」


 細く柔らかい腕で自分を抱く、まるで聖母の様な慈愛に満ちた微笑みに、キャパの狭い乳児の脳みそはパニックを起し、盛大な鳴き声を上げたのだった。


 母親の乳を飲み、健やかな成長を遂げている俺は前世の記憶をほぼ引き継いでこの世界に生まれた。「ほぼ」というのは、死の間際の記憶がないのだ。多分、これが最後だろうと思う記憶は、中学3年の夏休み直前、ありがたくも面倒臭い担任の激励と課題の山を抱えて、汗をかきながら帰宅した日。夕飯がナスとパプリカとアスパラ入り夏野菜カレーだったことも覚えている。

 が、次に目覚めたらこの世界の母の腕の中だったのだ。赤ん坊の姿で。恐らくこれは、いわゆる異世界転生だと思うのだが、トラックに撥ねられて死んだ記憶も、この世界の神に導かれた記憶も、神官に召喚された記憶も無い。

 勿論、チート能力を授かった記憶も無い。科学の発達した世界にの一般家庭で育った中学生までの記憶だけを脳に抱き、木と石造りの家が立ち並ぶこの世界で、領地だけは広大な田舎貴族の三男坊として新たな人生を歩む俺は、やはりこの世界でも平凡な人生を歩むのだろうと、ノンビリ暮らしていたのだった。

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