第646話 幻影.8

『かふっ…!』


膝から崩れ落ちるチヴァヘナ。

辛うじて床に倒れ伏しはしなかったものの、内臓やら骨やらを殆ど致命傷レベルで負傷したために動けずにいた。

目は見開き、ヒューヒューと必死に呼吸をしているが、上手く息が吸えずに苦しそうだった。


「どう?いくら回復力の高い魔族といえど、内臓の一部を失うのは相当堪えるんじゃないかしら? ガラスの杭でも嵌め込んでおけば栄えるわよ」


その言葉に、チヴァヘナはアーリャが消えた青年の飾り付けを思い出す。そうか、そう言うことかっ!!

ギリリと歯を食い縛り、アーリャを睨み付ける。


『クソッ、ただの…餌の分際で…っ!!』


「あらあら。餌にしっぺ返し喰らった雌牛が何かほざいているわ」


アーリャがくすくすと楽しそうに嗤っている。

思う存分に仕返しができて満足しているようだ。もっとも、そんなアーリャを、グロレとリジョレはドン引きして少し距離を空けていたが。


もぞりと、音がした。


チヴァヘナの背後で立ち上がる気配を感じて、笑い出す。

そうだ。一旦魔力が途切れてしまったが、私の魅了洗脳が上手くいかないわけがない!!


『私を止めるのがちょーっと遅かったようね!』


「ちっ」


アーリャが小さく舌打ちした。


ジョウジョの最後の妨害で手こずったけど、これでもうあの男は私のモノよ!


ふらりとユイが立ち上がり、ゆっくりとチヴァヘナの方へとやってくる。右手には倒れてもなお手放さなかった刀が鈍い色を放っている。


目は虚ろで、チヴァヘナの方を静かに見詰めていた。

洗脳は完了してしまっていた。


その様子をチヴァヘナは満足そうに見て、アーリャ達を指差した。


『さぁ!あいつらを殺しなさい!』


今、ユイの目にはチヴァヘナが命令を逆らえない人間の姿が写っているはずだ。これからチヴァヘナの出す命令に何の疑問も抱かずに遂行する。万が一タゴスのように洗脳に気付いて幻覚が解けても、命令に逆らえば耐え難い痛みが走り、命令に背く事は出来ない。


これで終わりだ。ざまーみろ。


警戒するグロレとリジョレ。鎖を引き戻したアーリャがいつでも劇激できるよう身構えたが、ふと不思議そうな顔をしていた。

なんだ?何故この男は動かない?


いつまでたってもその場から動こうとしないユイを振り返り、掛けて直ぐだから聴こえていなかったのかと、もう一度命令を下そうとしたとき、ユイが口を開いた。


「──…サネチカ様。貴方様をそのようにしてしまったのは、世話役であった私の責任であります」


『?』


何故?

基本的に、はい、しか言えない様にしたのに何故言葉を話している。もしやもう解けたのか?


しかし、相変わらず目は虚ろのままチヴァヘナをしっかりと見ていた。いや、見据えていた。

訳もわからない怖さがチヴァヘナの中に生まれつつあった。


『何しているの!早く行きなさい!!痛い目に遭わすわよ!!』


命令を強制する信号が魔力を帯びて、チヴァヘナからユイへと向かうが、それが直前でバチンと弾けとんだ。それが何度も。

理解不能な事態にチヴァヘナは動揺した。

魅了洗脳を事前に回避されたことはあるが、洗脳が完了してからこんな不具合になった事などない。サキュバスとしてあってはならない!!


『っ!』


その時、チヴァヘナは気付いた。


目の前にいる男から恐ろしい感情が魔力を通じてチヴァヘナに叩き付けられていた。

殺気ではない。恨みも憎しみも、そんなものは感じられない。なのに、こんなにも自分を殺そうとする意志が深い悲しみと共に伝わってきた。


殺さなければならない。


洗脳が完了した今、力差は歴然なのに。

それなのに、強制する信号は弾かれ、逆にチヴァヘナがユイの感情に呑まれている。


負傷したといってもチヴァヘナは多くの人間や魔族を喰らってきた強者だ。拘束もされておらず、逃げようと思えば逃げれる筈なのに。


(なんで、足が……)


指先ひとつ動かない。


「これが、世話役として貴方様にしてあげられる最後のものです。信親様。これ以上堕ちていかれる前に、どうぞ、死んでください」


『待って、待って!お願──』


一線。銀の線が斜めに走り、吹き出た赤が一気に視界を染め上げた。こんなところで、私が…っ!?


『ああ!ああ!!ごめんなさい!!ゲル!!最後まで一緒に居たかった!!』


ゴッと鈍い音を立てて視界が飛び、チヴァヘナの意識は途絶えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る