第4話
「行ってきます」
と、身支度を済ませた彼は玄関でスニーカーを履きながら、いつもの爽やかな笑顔で言い放った。
おいおい。
「帰ってくるつもり?」
彼は訝しげな私にわざとらしくにっこりと笑い、本の数冊入ったトートバッグを肩にかける。
「そこは、『行ってらっしゃい』でしょ。はい、ちゅー」
「え?」
自分の家から出かける他人になぜだか怒られた。その上そいつは目の前で明らかにキス顔だった。これはもう、ため息を吐く他にすることが見当たらない。いや、あるのだが。
何もせずに何かを待つ彼を放っておくと、閉じていた目をパチリと開けてこちらを見つめ、首を傾げる。その後また、さあ来いと言わんばかりに目を閉じ、再び何かを待ち始めた。諦めて小さく音を立てて口付けると、満足そうな彼は「また来るね」と残して出て行った。
バタンと閉じた戸に向かって、「もう来んでよろしい」と半笑いで呟いても、届ける相手の居なくなった言葉は虚しく空に消えて行った。
やっとひとりになって、奪われた睡眠時間を取り戻そうかとも思ったけれど、妙に目が冴えていたので仕事をすることにした。
ソファを背もたれにし、先ほど向かい合って食事をしていたローテーブルとの隙間に座る。結局オムライスには彼の希望で花丸を描いた。褒められた気分になるらしい。その後彼は私のオムライスにハートを沢山描いていた。ケチャップが多くて塩辛かったがまあ良かろう。
床の上に放り出されたノートパソコンをテーブルに載せ、起動させる。商売道具だというのに、我ながら雑な扱いをしたものだ。
パソコンが起動し、文章ソフトが起動するまで少々時間がかかるタイプのうちの子は、なかなかの年数我が家で働いている。きっと今背もたれにしているソファよりも長い。5年くらいか。
起動しきるまでにかかる時間は、よく考え事に使われている。
―しかし。よく3ヶ月も同じ人間と毎週毎週会えるものだ。いや、3ヶ月ならまだいい。この先あとどれ位彼は家へやってくる?いつ終わりが来る?彼に恋人ができるまで?それとも、
―それとも?
今日また来ると言っていた。その時に聞いてみようと思う。
PC用の眼鏡を掛け、起動した文章ソフトに文字を打ち連ねる。それが私の仕事。平らな画面の上で決められた記号を組み合わせて虚像を紡いでゆく仕事。
キーを叩いてどのくらいの時間が経っただろうか。瞼が重くなってきた。漸く睡魔がやってきたのだ。ぼんやりとした意識の中、パソコンを閉じその場に横たわる。寝よう。フローリングば少し冷たいけれど、目を閉じると間もなく意識が途絶えた。
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