第140話 フォーヴ・マスク

 正生の口に鬼が押し込まれる。


「おぉあっ」


 仰け反って呻く夫の背中を押さえ込みながら、伊佐美は激しい期待に胸を躍らせていた。また白い獣が現れる。それはつまりケダモノの欲求を満たす相手が求められるということだ。


「球磨先生、フォーヴ・マスクについては?」


 クッキーの身体でみひろが言う。


 性欲の鬼をぐいぐいと正生の口の中に押し込んで口を閉じさせる。押さえていないと飛び出してしまうようだ。裸の身体が赤く染まっていく。乗っている背中が熱くなってきた。


「カクリ様から説明は聞いたので」


 伊佐美はみひろの身体のクッキーを見る。


「姉さん以外は聞いとるよ」


「わたしだけ?」


 あさまがビックリした顔をする。


「修行中やったしな」


 クッキーは近寄って白目を剥く正生の顔にさわる。肉体がみひろだからかもしれないが、その視線は必要以上に大人めいていた。他人の肉体であれ、性体験を越えたからかもしれない。


「簡単に言えば、安全装置やな」


「安全装置?」


「白い獣は単純に言うて、そのままではヒーローとしては使えへんやろ? 子供を産ませるためやったらレイプを厭わへんし、気が大きくなった兄さんの発言も世間体が非常に悪いやん」


「そう、ね。あれは酷い」


 クッキーの説明にあさまは頷く。


(酷かったな)


 伊佐美は思い出す。


 ケダモノと化した正生は恥ずかしいセリフを際限なく吐きながら、徹底的に腰を振って子作りに及ぶ。あれが夫の隠された本性であるという事実と、それとは無関係に与えられる快楽の狭間で頭がおかしくなりそうだった。


 癖になる。


「せやから、こうなる」


 そう言うクッキーの目の前で、正生の顔が人間から、ヒヒに近い姿に変わっていく。身体から放出される白い毛、夢魔が具現化させるエネルギーの塊をフォーヴ・マスクが吸収して変化させる仮面だ。険しい顔の、渋みのあるヒヒ。


「え、ええ?」


 あさまが驚いているが、話を聞いていた伊佐美も、フェアリの実在しそうで実在しない絶妙な猿加減に驚きは禁じ得なかった。サルになると聞かされた時は幾ら何でもあんまりだと思ったが、人間に近いが故に変化としては自然だった。


「ギイィイッ!」


 正生がサルとして鳴いた。


「ギ? ギギィ!?」


「まず喋られへんようになる」


 クッキーが説明する。


「ゲッゲッゲッゲ!?」


 正生本人も驚いているようだ。


「女に近付いては子供を産め、みたいなんを口走っとったら、どんだけまともな活躍しても評価は得られん。サルの顔で、人語を話さんかったら、とりあえずなにを言うてもセーフやろ?」


「ギギギ! ギギー!」


「なるほど」


 抗議する正生を見ながらあさまは納得する。


 全身の変化は頭の髪の毛が白くなるところからはじまった。これは能力が脳の反応から現れることと関係しているらしい。白い毛が首から背中、腕、脚と先端に向かって広がっていく。


「もういいか」


 伊佐美は立ち上がった。


「ギギイィ!」


 正生が飛び上がる。


 腹側は以前のように白い毛では覆われず、顔から広がった赤黒い筋肉質の肌のようなマスクで、よりサル的に仕上がっていた。


「もともと白い毛を全身に出してる言うんは出力的に無駄遣いやと言う判断があるみたいやな。あと前面に関して重要なんは股間や」


 クッキーが正生の下腹を指さす。


「ないやろ?」


「なくなってるわ、ね」


「ギー」


 二人に見つめられて正生が辺りを見回す。


「生殖器はウチがさっきやったみたいに兄さんですら弱点やねんけど、それとは別に、白い獣にとっては致命的な欠点でもあった訳や」


「ああ、セックスが終わったら」


「そうや、満足すると戦闘能力が落ちる。弱点と欠点の両方を補うためにマスクが股間を完全に覆って、使用を制限しとる」


「ギギギ!?」


 二人の会話は正生にとっても寝耳に水だったようだ。フェアリが本人に説明しなかった理由は伊佐美にもなんとなくわかる。機能としては事実上の貞操帯、装着を拒否しかねないからだ。


「でも、使わないと元に」


「姉さん、それは」


 クッキーがあさまに耳打ちする。


「本当にそうなっているのね」


 みひろが伊佐美を見て言った。


「ええ、解除のためのパスワードを知るのは妻のみということで、正生を最終的に止めることになります。プロポーズを受け入れられるなら、この場でお教えしますが」


「もう少し、考えさせて」


 九歳の少女の姿ながら、気だるげなその雰囲気には風格が漂っている。正生に心が動いているのは明らかだが、切り替えには時間がかかるだろう。夫婦生活も十分に長い。


「もちろん」


 伊佐美は答えて、呆然と立ち尽くす正生の手を掴んで歩き出した。これ以上、巨人を放置して置くわけにも行かない。まずは止めなくては。


「ギーッ! ギギギ!」


 ヒヒの顔をして、正生はなにか言う。


「正生を信用してない訳じゃない」


 当然のことながら言っている意味がわからないので、伊佐美は勝手に喋った。それは自分に対しての言い訳でもある。貞操帯のようなものを夫に取り付けることに罪悪感がない訳でもない。


「だが、その力は争いを呼ぶ。これ以上、無節操に相手を増やしていく訳にはいかない。甲賀古士のときのように、力を与えるべき相手が現れたとしても、愛妻同盟の許可が必要になる」


「ゲッゲッゲ」


 相槌かどうかもわからない。


「そうだ。浮気の許可制だ」


「ギキーキギ」


「ありえないか? ありえないだろうな」


 伊佐美は笑った。


「妻のだれか一人でも納得させるだけの理由があれば、浮気ができるという意味では寛容な方だと思って欲しいところだ。とりあえず今日は心配するな。巨人を止めたら、相手をしてやる」


(マスクの機能を聞いたときにわかっていた)


 伊佐美は思う。


(同じ前線で戦う能力である意味で、白い獣の相手が回ってくる確率が高くなることは、つまり戦う限り、正生を独占できる)


 罪悪感よりも得るメリットの大きさ。


「ギーギー」


「うれしいか? そうだろう?」


「ギャッホ、ギャッホ」


「楽しみか。そうかそうか」


 伊佐美は正生を引きずって進む。


 白い獣と化した正生が、目を合わせてから明らかに怯えていたが、気にしなかった。自覚はある。足りていない。飢えている。その感情がもう出てしまっている。色狂いの性欲を移植されたと聞いて我慢などできない。


(白い獣の味は一番わかっているはずだ)


 緩む口元に涎が溢れそうになる。


(生まれながらに強くてこれほどうれしいことはない。強烈な正生の欲望に正面から応えられる。そして離れられなくしてやるからな)


「ギギギギギッ!」


「さーっ! さっさとあれを倒すぞっ!」


 伊佐美のやる気は全開だった。


 正生を引っ張って外にでると、月に照らし出された巨人がこちらに迫るようにその巨体をこちらに向ける。なにかで人を感知しているようだ。


「ギギギィイ」


 抵抗を諦めた様子の正生が伊佐美を見る。


「マタのセンサーでは、あれの内部の正生たちが見つからなかったということは、術者もあれの内部だろう。頭か、胸か腹か。とりあえず腕ってことはないだろう?」


「ギギ」


 伊佐美の言葉に正生も頷く。


「じゃー、まず腕を落とそうっ!」


 伊佐美は両手を高く掲げ、自分から上へ広がる空気熊を感じる。構えの時間を長くすることによって空気熊はそれだけ大きくなる。


 シンプルな強さを追求した能力だ。


「スラッァアアアアアアアッッシュ!!」


 十分に溜めたところで振り下ろした熊の爪が、巨人の腕を引き裂いて土砂崩れを起こす、地響きが広がって正生がポカンと見上げた。


(悪くない)


 気力も体力も充実している。


(これが幸せオーラ)


「どうだ? 出てきたか?」


「……」


 無言で白い獣は首を振った。


「よし、ここからは加減する。術者を殺しては元も子もないからな。タァァアアッチ!!」


 構えを短くして巨人の頭を押すイメージ。


 土の首がぐらりと仰け反った。


「ギー」


「どんどん行くぞ」


 巨人など、伊佐美にとってはただの的だった。

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