第129話 引導

「ホンマに行くん?」


「行く」


 決断するのに一日かかった。


「そらウチは姉さんの意向を尊重するしかないんやけど、こういうことは当事者同士の問題やから、娘とは言え、首を突っ込む言うんは」


 クッキーが戸惑うのは無理もない。


(わたしだってどうすればいいか)


 あさまの中でも色んな感情が渦巻いてぶつかり、雨で散った花びらのようにドロドロに汚れていた。真剣に正生を殺して、自分も死のうとさえ思った。現世の苦痛から逃れるしかないと。


 屋敷の廊下をクッキーの手を引いて進む。


 見届けて欲しい、とこの天才少女に頼んだのだが、本音は一人で母に対峙する勇気がなかったからだ。母とは折り合いが昔から悪い。


 それこそ兄が死ぬ以前から、ずっとだ。


 昨日からずっと自室に籠もっている。そう家人から聞いて向かった屋敷の奥、父の前に当主だった曾祖父が呪術を研究していた場所。蔵を改造した重たい扉を呼びかけもせずに開く。


「お母さん!」


 あさまは大声で呼んだ。


「……」


 母は無言で振り返った。


 蔵の中には注連縄がそこかしこにぶらさがっていた。それには様々な呪符が張られている。血文字、しかも新しい。床には数え切れないほどの小さな鏡が並べられている。


 蝋燭の灯りが反射して中は不気味に明るかった。


「お母さん、聞いて、正生は」


「呪われていた」


 母は落ち着いた声で口を開いた。


「そう言いたいんでしょう?」


「うん」


(怒って、ない?)


 あさまは頷いた。


 母の性格ならば、正生に呪いをかけている最中だと思ったのだ。だが、呪符や鏡にそれらしい反応は見えない。準備は整えたが、途中で止めたかのような静けさしか室内にはなかった。


「だとしたら、だれが呪ったのかしら?」


「え? わからない、けど、正生が昨日来たのは、羽黒リリになにか指輪をつけられたからだって、その、ね?」


 緊張に思わずクッキーに助けを求めてしまう。


「そ、そうなんです」


 ビックリしつつも天才少女は喋る。


「兄さんはそないなつもりはなかったはずで、お恥ずかしい話ですが、昨日もウチら妻のひとりと朝までとか、欲求不満ですらなく、テストと寝不足とで、あさまのおかあはんの女としての魅力はホンマ、ウチらみたいな子供には太刀打ちできひんですけど、なにもなく襲いかかるほどっちゅうことはないと思うんです」


(ごめん、クッキー)


 色々と気を使わせていた。


 九歳に説明させることではなかった、とあさまは反省する。なんだか正生といると感覚が麻痺してくるが子供なのだ。きちんと配慮しなければ。


「羽黒ではないわ」


 母は静かに答えた。


「わたしは知っている術ならば視覚的に見えるぐらいまで修行を重ねてる。彼の左手には弱い術がかかっていたのが見えたけど、あれであんなことはできない」


「そうだと思う」


 あさまも、クラスメイトがだれかをレイプさせるような呪いをかけるとまでは思っていない。もっとくだらない嫌がらせのはずだ。


「だとしたらだれか、ってこと」


「だれかって」


「わたしは憎まれているわ」


 母は巫女装束の胸元から小さな壷を取り出す。


 艶のある光沢を持った、赤みがかった丸い壷してある栓を抜くと、中から白い煙のようなものが床に向かって溢れていく。


「五十鈴家に嫁いできたときから、わたしの望みはこの家を潰すことだったから」


「なに言って」


 見たことのない術にあさまは警戒する。


「トシテ」


 母はつぶやいた。


「そういう名前の小さい呪家があったのよ」


「として?」


 聞いたことがない名前だった。


「わたしはそこに拾われて呪術を学んだ。そして優秀さを買われて赤穂家の養子になり、五十鈴家に嫁ぐことになった。二十五年前」


「お母さん、昔話は関係ないの。呪いをかけたのがだれでもそれはわたしがなんとかする。聞いて、わたし、当主を継いだの。だから」


 あさまは話を断ち切って宣言した。


 術を見続けるのは危険である。関係のないことを喋りながら、発動までの時間を稼ぐのは呪術の常套手段である。


「継いだ?」


 母の声色が強ばる。


「そう、奥義を受け取った」


 あさまは手を合わせ、名簿を出してみせる。


「……」


 母の目が大きく見開かれる。


「もちろん、未熟なわたしには使いこなせない。でも、お母さんの望みがなんでも、もう、終わり。わかるでしょう?」


「波羅夷」


 母は口にする。


「わたしに使うと言うの、あさま」


「憎まれてるとか、五十鈴家を潰したいとか、わからないけど、礼司が言ってた。見えない呪いだって。呪いをかけただけ、返ってくるって」


 あさまは言う。


「お兄ちゃんが死んだのも、そうだって」


「姉さん」


 横のクッキーが小さく首を振る。


「……」


 目の前の母の表情が怒りに染まっていた。


「お母さん、聞いて」


 あさまは名簿の最初の頁をめくった。


 そこには波羅夷を生み出した、五十鈴流開祖の名前が刻まれている。現在まで伝わる呪術のおよそ半数、すべての基礎を築いたと言われる人物だが、最期は呪殺に失敗して命を落としている。


 見えない呪い。


「礼司と離婚するんでしょう?」


「あの人に、聞いたの」


「……」


 蔵の中の空気が張りつめるような母の声に、あさまは頷く。汗が出てきた。幼い頃、術を仕込まれる過程で刷り込まれた恐怖がある。兄と比べれば出来の悪い自分に対して、目の前の女にあっさりと見限られた記憶がある。


「あさまの修行は東出家にお願いすることになったわ。話はつけたから明日から通いなさい」


 前代未聞だった。


 隣、と言っても、子供の足で歩くと一時間はかかる家まで毎日行く。それだけでも愛されてないと感じるには十分だった。


 その上、後に知ったことだが五十鈴家と東出家はまったく関係が良くなかった。七大呪家と呼ばれる中でも、正統的な術を使う家では力を二分する存在であり、完全にライバル関係だった。


 歓迎されなかった。


 当主の娘としてある意味で五十鈴家の力を示すものと警戒されながらの修行、さらには才能の無さもあって周囲からは完全に浮くことになる。


 それが現在までの性格の原点を作ったような来さえしている。いずもに出会うまでは暗黒のような日々で、時々、家を抜け出して様子を見に来る兄だけが心の支えだった。


 だが、母に愛された兄は死んだ。


 見えない呪い。


 それこそ正生が母を犯すに至った原因だ。


「わたしは、お母さんを助けたい」


 あさまは言葉を振り絞る。


 取り除かなければならない。


 父が奥義を託したのは、そういうことだ。外に子供を作った愛情のない自分ではなく、血の繋がりが残る娘こそがその役目に相応しいと。


「この家についても、礼司とのことでも、お兄ちゃんのことでも、お母さんとわたしはたぶん全然違う考えだと思うけど、でも、この家に残った家族はわたしとお母さんなんだから」


「呪術を奪って?」


 母が言う。


「もう、必要ないでしょう。わかってるはず」


「弱くなった、と?」


「相手が正生でも、昔のお母さんならどうとでもできた。わたしでもわかるよ。鬼を降ろせなくなってることは、ね」


 あさまは宣告した。


「抵抗、しないで」


 戦えないのに、戦う力を持っていることは危険だ。敵を作ってきた人ならば尚更である。能力を失えば島からは出られる。レイプは残念だが、離婚した母には自由な世界で新しい幸せを探してもらうしかない。


(親に引導を渡すのは辛い、けど)


 正生を守るためには仕方のない解決策だ。


「一端のことを言うようになって」


 母がつぶやく。


「でも、宣言する前にやるべきだったわ。わたしならそうするし、あの人もそうしたでしょう。ヒーローのロマンにはつきあいきれないわ」


 床に広がった白い煙がぐるぐると渦をまきはじめていた。鏡の中から光が溢れ、母の姿を白く飛ばしていく。


「なんやの?」


 クッキーが引っ込む。


「わからない、けど」


(術の発動前なら止められる)


 あさまは開祖の名前を指先でなぞりながら、光の中へ突っ込んでいった。当主が触れば、波羅夷は成立する。大がかりな術よりも早い。


 ふにゅ。


 伸ばした手は、母の胸の感触に当たる。


 そして光は消えた。


「お、終わったんやな?」


 母が言った。


「ええ。これでもう術は」


(なんで、お母さん、関西弁に?)


 あさまは違和感に振り返る。


「四十年近く若返ると、素晴らしい気分だわ」


 クッキーが言った。


「た、魂の」


「流石は新しい当主、古い術もご存じみたい」


「なんや、え? ウチ、おっぱいデカなってる」


 母とクッキーの中身が入れ替わっていた。

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