第124話 なんでけっこんしたの?

 頁を閉じると名簿は消えた。


(当主、ね)


 あさまは自分の手を見つめる。


 実感など持ちようもない。波羅夷にせよ呪殺にせよ、軽々しく使える術ではないから当然なのだが、あまりにも変化がなかった。


「奥義書はそれ自体が一種の呪いで、所持者にかけられた呪いを吸収して解読する。呪いで死なないというのはそういう意味だから、油断はするな。当主になればこそ、修行は怠れないぞ?」


「……」


 父の言葉にあさまは眉を顰める。


 そんなに修行熱心だった記憶はない。


「そんな顔するかぁ? オレの場合は結婚生活が修行だったんだよ。家の連中は浮気を修行とか言ってたみたいだが、むしろ逆だからなぁ?」


「別にいいけど」


 夫婦喧嘩が熾烈だったのは知っている。


「最期の言葉かもしれないから覚えとく。離婚を切り出してお母さんに殺されて終わりかもしれないから、ね。頑張って」


「アイツに似てきたなぁ」


 父は首を振った。


「正直言って、オレはあさまを貰う男に同情するよ。母と娘が呪術でケンカする間に立つなんて、自分だったら遠慮したいねぇ。全先正生、女になってる間に呪いをかけられたみたいじゃないか」


「知ってたの?」


 あさまは驚く。


「乙姫誘拐犯の騒ぎを見に行った。ニュースの写真を見た時点で怪しいとは思ったが、フェアリの造形かどうかを確かめたかった。で、そこでみひろの呪いも確認したからなぁ」


「知り合いなの? 巫女田フェアリ」


 あさまも正生から名前を聞いただけである。


「もともとフェアリの作品のファンだったんだが、当主になって機関の中にその名前を見つけてなぁ。ここぞとばかりに立場を利用して友人になった。そんな訳で今回の件の話も直接聞かせてもらった訳だ。娘の夫だから、という父親の立場を利用させてもらったよ」


「黙ってて、絶対」


 あさまは父の妙な人脈に呆れる。


「あぁ、黙っとくとも。いやはや、なかなかできることじゃない。オレもあの交・歓は受けたことがあるが、男とセックスする覚悟はできなかったからなぁ」


「男と?」


 聞き捨てならない言葉が混じっていた。


「あれ? 知らない、のか?」


 娘の反応に父は口を押さえる。


「詳しく聞かせて」


 あさまは詰め寄ろうとする。


「お、おっと。離婚しなくちゃいけないんだった。あさま、それじゃ、夫婦仲良く幸せになってくれ。また連絡するっ」


 だが、浮気慣れした男の切り替えは早かった。即座に逃げ出している。追いかけたかったが、滝行の途中で裸足であり、石がゴロゴロした河原を追えるものでもない。


(正生が、男とセックスした?)


 自分が修行に入ったあの後だろうか。


 クッキーから首相誘拐事件その後の顛末についてのあらましは聞いている。ただ、細部についてはほとんど報道を通じての理解だ。他の妻がいる状況下で自分のやれることは解呪を学ぶことだとあの時点で離脱したが、失敗しただろうか。


(男相手に浮気、ってことはないだろうけど)


 あさまはモヤモヤとした気分になる。


 間々崎咲子の処女はマタに奪われ、男相手の経験で正生に先を越されるという意味のわからない状況をどう考えればいいのかわからない。


 勢い修行に熱が入った。


(今日はもう一セットいけるかな)


 呪いを洗い流すだけでなく、雑念も払えるのでモヤモヤした気分の時こそ滝行は捗る。目標の六セットを終えても集中力は途切れていない。


 夜明けからはじめてまだ昼過ぎだ。


「あさま、クッキーさんが来てくれましたよ」


「クッキー?」


 滝から出ると、母と天才少女が待っていた。


「お邪魔しとるよ」


「うん」


(なんか、表情が硬い?)


 ひきつったクッキーの笑み。


「集中できているようだけど、今日はこのくらいで切り上げなさい。体力が保たないわ。お客さんが来たのだからお茶にしましょう」


 そして血走った母の目。


「う、うん」


 あさまにも察しがついた。


(離婚で相当揉めたんだ)


 そして客が来たことで父の命は助かったのだろうとも思えた。少なくとも、次に話し合いがもたれるまでは生き延びられるだろう。


「用意をさせますから」


 そう言って屋敷の方へ戻っていく母の背中が周囲の林に消えたところで、クッキーがへたり込んだ。天才がここまで動揺するのは珍しい。


「なにか言われた?」


「結婚はよく考えてした方がええ、やって」


「よく考えてした方がいいんだけど、ね」


 当てつけが露骨だ。


「正生は?」


「一緒に来たんやけど、入れてもらわれへんかったわ。実は兄さんが羽黒リリに指輪をはめられてもうて、今日はその相談やったんやけど」


「……」


 クッキーの報告にあさまは渋い顔になる。


「アカンの?」


「流派が違うから、簡単にはどうにも」


 あさまは答える。


 五十鈴流が源流にはあるだろうが、羽黒はかつての当主争いに敗れ、当時の当主に波羅夷を受けてから日本を離れ、海外の呪術を取り込んで戻ってきた家で、過去の因縁から関係が悪く、術の交流はまったくと言っていいほどない。


(羽黒リリは昔から、わたしを嫌ってたし)


 呪家の会合などで顔だけは幼い頃から知っていたが、親の教育なのか、徹底的に敵視されて中等科でクラスが一度一緒になるまで話もしたことがなかった。そして話をしたときは兄の復讐に躍起で、まともに取り合わず、女鬼でボコボコにしている。個人的にも関係は最悪であった。


(正生が狙われるのは時間の問題だった)


 まさに見えない呪い。


「とりあえず正生を家に入れないと」


 父の言葉を噛みしめながら、あさまは言う。


「そやな」


 クッキーが頷く。


「母は違う流派の呪術も研究してるはずだから、機嫌を取って見てもらえれば、簡単なものだったら解呪してくれるかもしれないけど」


 言いながら、無謀に感じる。


(正生が気に入られるか、だから)


「着替えてくるからちょっと待ってて」


「風邪ひかんよう、ちゃんとしてええよ?」


「慣れてるから、大丈夫」


 滝壺の近くに用意された更衣室に入る。


(正生はダメ、だろうな)


 滝衣を脱ぎながら、あさまはうなだれる。


 母の男の趣味は完全に顔だ。


「なんでけっこんしたの?」


 幼い頃の自分がした素朴な質問。


「顔が良かったからよ」


 それに対する母の答えは酷かった。


「あさま、いい? 男は顔なの。顔が良いことを前提に性格や将来性を見なさい。そして顔が良ければ我慢できるマイナス点は切り捨てていい。顔とそれを作り出す遺伝子だけは変えられない。あとは結婚してから矯正すればいい。呪術ならそれができる。わかる? よく覚えておいて」


 子供に言うことではない。


 あまりにもショックで記憶に残っている。


(父を矯正することなく、離婚を申し込まれた母に説得力なんてもうないけど、だからこそ自分の考えには固執するかもしれないし)


 母に正生を認めさせるのは容易ではない。


「お待たせ」


「外套? とはちゃうんか?」


「ただの巫女装束。そっちこそ、なんで白衣?」


「学園から直で来たからな」


 着替えて合流して、屋敷まで並んで歩く。


「にしても広いわ。姉さんの家は」


「家の人間が多いから」


「そないなことないわ、門からここまで二十分ぐらいはあるやろ? 一帯の林と、滝と」


「滝と屋敷の移動が億劫なだけ」


「鬼は使わんの?」


「修行期間は他の術を使わない。効率が落ちるから。あ、リリの指輪の話の前に、聞いておきたいことがあるんだけど、正生が男とって」


「姉さん、耳が早いな? 修行中やし、終わったことやから別の機会がええと思ったんやけど」


 クッキーか聞いた事情はあさまの予想とはまったく違うものだった。少なくとも、正生が浮気をしたとかそういう類のものではない。


「姉さんが見たいなら動画もあるんやけど、ウチはホンマ最初の数分見ただけで後悔したから、オススメはせんよ」


「最初の数分ってどんな感じ?」


 怖いもの見たさはあるのであさまは尋ねる。


「男らに囲まれてポーズを要求される、感じやな。兄さんが心の底から嫌がってるっちゅうのが伝わってきて、つらい」


「やめとく」


 そう言うクッキーの表情を見ているだけでつらくなってきて、あさまは背筋を震わせる。世の中には知らない方が良いこともある。


(男たちを呪殺したくなっても困るし)


 浮気ではなくても、嫉妬心は起こり得る。


 ゆったりと歩いたので三十分ぐらいで屋敷に戻る。家人に母がどこにいるか尋ねると、正生が再訪問してきて、応接室に通してしまったので会っていると言う。


「ひとつ心配はなくなったな?」


「そう、ね」


 あさまはそう答えながら、不安を感じる。


 母と正生にまともな会話が成立する余地はほとんどない。顔を基準に考えれば、娘の相手として母が認める可能性はまずないからだ。


 応接室が近づく。


「やめなさいっ! なんのつもりなの!」


 案の定、中からは母の刺々しい声。


「姉さん」


「わたしが先に、落ち着かせるから」


 クッキーを待たせて、あさまはドアを開ける。


「お母さん!」


「なっ、むぅうっ!?」


 母の目が助けを求めていた。


「……」


 あさまは事態を飲み込めず、硬直する。


 そこには母に覆い被さり、その唇を奪いながら、母の巫女装束を剥ぎ取り、思い切り胸を揉みしだく正生の姿があったからだ。白い獣になった訳ではないが、明らかに興奮していて、ズボンのベルトは外されていた。   

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