第93話 心の鬼

「うん、じゃないでしょう!」


 ピシャ、と母親があさまの頬を叩いた。


「うっ」


「そうやって、いつも逃げようとする!」


 両手で娘の顔を掴んで目を見据えているようだった。手術台に横たわるオレの角度からは、あさまの顔が見えない。


「ほら! 私の顔を見て! 言いたいことがあるなら、家に帰ってあの人や皆の前で堂々と言いなさい! 今まで黙ってきたのは、それでもヒーローを目指してたからよ? わかっているでしょう? 一位をポッと出の男に奪われて、その男と結婚ですって? 五十鈴家の女が、どこまで落ちぶれるつもり?」


「落ちぶれなくたって……」


 あさまはか細く反論しようとした。


「一族からヒーローを出したことがない? それがあさまの勝手を許す理由になるの? 結婚相手がダメになったと見るや、慰めてくれる同性に逃げて、それが落ちぶれてない姿なの!?」


 娘相手でもそこまで言うかというキツさだ。


 あさまは熟しても美しいままなんだなとかどこかで嬉しかった気持ちが吹き飛ぶぐらいに性格は激しく酸っぱくなっている。お義母さんとは呼びたくないな。


 甘みと丸みが足りない。


「もう、そのくらいでいいんじゃないですか? ちょっと心の安らぎを求めただけで落ちぶれるとか極端ですよ。人間、心の余裕ってものが」


「肉体の余裕を奪われて気持ちよくなる緊縛プレイヤーがなに言ってるの! これから落ちぶれる余地もない底辺は黙ってなさい! 娘を巻き込まないで!」


「!」


 テロリストの息子から性犯罪浮気王子殺害夫まで落ちぶれたオレの落ちぶれっぷりはいつのまにか下限に達していたらしい。確かにこれより落ちぶれるのは想像できない。


 だが。


「黙りませんけど!」


 身動きが取れないので黙ったら負けだ。


「それを言うならワタシは被緊縛プレイヤーで、そして肉体の余裕をを奪って気持ちよくなってる緊縛プレイヤーが娘さんということになりますけどいいんですか? ワタシの身体を縛って巻き込んでるのあさまさんですから!」


「まっ」


 あさまが口を開きかける。


「間々崎咲子です」


 前にオレは女として名乗っておいた。


 卑怯かも知れない。とりあえず義母という事実から逃げつつケンカを売るという悪の手口である。だが、嫌われたい訳でもないのだ。事情がわからないので、現状、あさまの味方をする他がないというだけである。


「呪うわよ? 小娘が」


 母親がドスの利いた声で言う。


 冷たい気配に寒気がした。


 流石にあさまの母親、なにかある。


「ひゅーっ!」


 内心の動揺を押し殺すように茶化した。


「そうやってあさまさんを呪って縛ってるなら、一番の緊縛プレイヤーはあなたなんじゃないですか? どうです? 娘さんとご一緒にワタシと楽しみませんか? 心の余裕を持って母娘の語らいの機会、をっ」


「……」


「やめ、て」


 無言であさまを押しのけ、母親が手術台に向かって歩いてくる。パンツスーツ姿から、巫女装束へ、外套を展開、胸元に手を突っ込む。戦闘スタイルは娘と一緒か。胸でっかいな。


 煽りすぎたか?


「子持ちで巫女とかマニアック過ぎ、ィ」


「同性愛を矯正してあげましょう」


「え?」


「ままさきさん個人の趣味嗜好としては構いませんが、未婚の娘には悪影響ですから。悪く思わないでください。仰るとおり、私は人の心の緊縛プレイヤーなので」


 そう言いながら胸元から取り出したのは磨き上げられた鏡のような石だった。モスグリーンの鏡面に美少女の顔がうっすらと映る。


「さりげなく未婚ってことにしましたね?」


 嫌な予感を打ち消すように言った。


「書類は提出されていません」


「それは、そがっ」


「おいで、あなたの心の鬼」


 母親はオレの口に手を突っ込んだ。


「同性を愛する、心の鬼」


「!?」


 喉の奥に、突っ込まれた手の先から奇妙な気配が胃に向かって入り込んでくる。気持ち悪い感覚だったが拘束されているのでなにもできない。


「捕らえた!」


 ずる。


 口から手が引き抜かれた後、オレの一部が切り離された感覚があった。その気配はするりと鏡の中に押し込まれて、感じ取れなくなる。


 そして脱力感。


「では、よき人生を」


 母親は言う。


「ちょ、ま、うぇ!?」


 止めようとして、オレは吐き気に襲われた。


 なんだこれ、スッゲェ気分悪い。全身からの臭い。身体中にまとわりついてる。なんなんだ。訳がわからない。いつからこんな臭い。


「大丈夫?」


 あさまが駆け寄ってきて、拘束を解く。


「づぅ?」


 オレは思わず口を押さえる。


 この臭い。完全にあさまの臭いだ。さっきまで全身に塗りたくられる勢いで触れ合ったその臭いが、とんでもない悪臭に感じられる。


 吐き気の原因。


「可哀想なことをしないの、あさま」


「まさか」


 あさまはオレの表情と母親を交互に見て、首を振りながら後ずさる。なにが起こってるのか、オレにもわかりかけていた。


「そうよ。その子の同性愛傾向はゼロ。残った異性愛傾向があるから、実質的にはマイナスでしょうね。あさまが愛すれば愛するほど、その子は逆の感情を呼び起こすことになる」


「……」


 そんなバカな。元々オレは男なのに。


 どんだけ完璧な女装なんだ?


「呪いを解いて! こんなの酷すぎる!」


 あさまが母親に詰め寄った。


 だが即座に頬をはり倒される。


「解きたければ、家に帰って自分で学びなさい! 中途半端な力で外の世界を目指して、中途半端に大人になろうとする! だから大切なものも守れない! ヒーローになるというならば、自分で解決することを考えなさい!」


「……」


 言い返せないのか、あさまは唇を噛む。


「私は先に戻ります。お別れを済ませなさい」


 母親はそう言うと研究室を後にした。


「……」


「……」


 オレとあさまは距離をとって見つめ合う。


 だが、その視線さえ気分が悪い。


「ごめっ」


 口を押さえ、オレは首を振るしかなかった。


 呪い。ヤバい。


 だが、とりあえず、女として女を同性愛できないだけなら、男に戻れば問題はないのだ。その意味では今だけのことである。深刻になるほどでもない。能力として見れば、通常は同意なしにできるようなものでもなかった。


「わたしのせいで」


「……」


 つぶやく言葉にオレは首を振る。


 どちらかと言えば、オレが煽りすぎたのが良くなかった。動けないのにケンカをふっかけるのは考えが足らなかった。この状況も自業自得の面が大きい。この吐き気の反動の強さは、オレの女好きに所以しているんだろうから。


「呪い、解くから。必ず」


 そう言って、あさまも研究室を出ていく。


「!」


 おいおい、ちょっと待て。


 オレは追いかけようとして、近づくと漂う臭いに遮られる。床にうずくまったオレをあさまは悲しそうに見ていた。その視線だけで、鳥肌が立っている。なんだこれ。嫌悪感?


「近くにはいられないから」


 察された。


「だっ!」


 言葉を叫ぼうにも、喉の奥からリンゴ感。


 止められなかった。


 あさまの気配がかなり離れても、オレの身体に付着した臭いがどうにもならず、トイレでひとしきり吐いた後、シャワールームを探し回る。


「き、気持ち、悪」


 吐いても、吐き気はなくならない。


 トイレットペーパーで身体は拭いたんだが、気にもならなかった女の臭いがどうしようもなく気になる。建物内の残り香レベルで意識してしまう。近寄りたくない。


 どこか、どこか女の臭いのない場所。


 オレは暗い構内をよろよろと進む。


 さっきは男に戻ればいいと思ったけど、これから千鶴を探さなきゃならないのにマズい。説得する相手で気持ち悪くなるとか印象が最悪すぎる。これは男に戻してもらうべきか。


 体育館のような施設にたどり着いていた。


「シャワー」


 ここなら確実にある。


 扉は開いていた、利用中らしく、電気はどこ点っていて、鍵もかかっていない。かかっていたとしても壊しただろう。女の臭いのしないロッカーを抜けて、湯気の立つ部屋に入る。


「うおっ!?」


「なんだ? なんで女が?」


「え、えらい美人なんだな」


「夢か。夢なのか」


 オレの思考力はかなり下がっていた。


 男たちがシャワーを浴びる姿を見ても、危機感すら覚えなかったのだ。なによりもまず、臭いを落とすこと、それだけを考えてシャワーブースのひとつに入って熱いお湯で身体を流す。


「あー」


 男の臭いしかしなくて落ち着く。


「……」


 周囲の気配に熱気が宿った。

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