横濱

前花しずく

第1話

 汽車を降りればあっと言う間に人の群れに取り囲まれた。踏ん張らなければひょいひょいとどこかへ流されて行きそうである。無論、流されたら最後どこへとも知らぬ辺境へ流れ着いてしまっては堪らない。人の波を掻き分け掻き分け、おれは改札へ入った。切符を駅員に渡して、返してくれるのかと待っていれば、駅員は平らな顔でどうぞと言ってくる。そして、おれがまだ抜けていないうちに後ろの客の切符も受け取った。どうやら切符は返してはもらえないらしい。そうならそうと早く言え。ありったけに駅員を睨みながら、おれはやっと改札を通過した。

 改札の前には百貨店があり、パーマをかけた女やら、気取ったスーツ姿の男やらがやかましく出入りしている。とてもその中に入っていく気にはならない。そもそも、百貨店というものに用があってはるばる田舎からやってきたのではない。おれはこう見えていっぱしのサラリーマンだ。混み合った夜汽車のせいでスーツこそぐしゃぐしゃだが、このまま会議に出席する予定である。

 しかし、東京の駅前というのは何やらごちゃごちゃしていていけない。地図を取り出そうにもこう人がいたんじゃ広げることすらままならぬ。よしいっそのこと道を聞いてやろうじゃないかとおれは通りすがった同じようなよれよれのスーツの渋柿みたいな顔したおっさんに話し掛けた。

「もし、金田某業者の本社を探しているのですが」

「はあ」

「どちらの方向でしょうか」

「はあ、なんとも」

「なんともたあどういうことです」

「あっしも今日ここに来たもんで」

 おれに似ているだけでなく境遇まで同じだなんてまったく変なこともあるもんだ。おれはめんどくさくなって丁重に無視をして、今度は俺に似ていないやつを捜した。そこで、おれに似ても似つかぬパリッとしたスーツを来た一回りも年が違いそうな若者をとっつかまえて道を尋ねた。しかし、若者は金田ですかと言ったきり考え込んでしまった。どうやら知っているようなのだが、なぜかうんうん考えこんでいる。たまりかねてどこなんですかと催促すれば、若者は弱った顔をした。

「方向としてはあっちです」

「あっちかあっちか」

「しかしですね、あなた様は今駅から出てきたのでしょう?見たところ夜汽車にでも乗られたようだ」

「乗った乗った、夜汽車も夜汽車の三等車だ。だからなんだい」

「だから言いにくいのですがね、その、金田があるのは東京です」

「そんなこたあわかってら。東京のどこにあるのか聞いてるんだ」

「あなた様はここがどこだか分かっておいでですか」

 あんまりに若者が熱心に言ってくるもので、よく分からないながらも辺りを見回した。人ばかりでなんとも醜い街であるが、魚屋の亭主が横濱あ横濱あとしきりに叫ぶのは風流だ。

「そうです。ここは横濱です」

 まったくしまった。おれともあろう者がこんな愚かな真似をするとは。どうりで通りがちっぽけだと思った。車掌も駅員も、ここは横濱ですよなどとはひとっつも言わなかったではないか。切符は東京まで買ってあったものを横濱で降りちまうとは馬鹿馬鹿しいにも程がある。これでは横濱から東京へ出るのに金をもう一度払わねばならぬ。おれは切符さえありゃいいだろうと金をいくらも持ってはこなかった。一銭も無駄にできたものではない。

 さっきの駅員がしっかり切符を見て回収していればこんなことにはならなかったに違いない。いや、まったくそうだ。まだあの回収した切符が残っているのならそれを見せつけてやりゃ、そういうわけですか、へえどうぞとプラットフォームへ入れてくれるに相違ない。おれは心配そうにしている若者に帽子を外して会釈して、再び人の流れる改札へ飛び込んだ。おれはいちいち人の顔を憶える性分にはないが、さっき適当に切符を受け取った奴の顔は憶えている。その大福づ、の間抜け面でまだ出てくる客の切符を引ったくってやがる。

「やい大福」

「大福とはなんですか」

「なんですかもそうですかもあるか。切符を返せ」

「どうしてですか、切符は集める決まりです」

「そうじゃない、おれは東京まで切符を買って東京だと思って降りたんだ、それがここぁ横濱だっつーじゃねえかい」

「へえそうですか」

「だからまた中へ入って東京へ行くから切符を返せと言うんだ」

「でも一旦降りたじゃありませんか」

「降りようが降りまいが、どうせ東京へ行くんだから変わりない」

「でも切符は返せません、決まりです」

 お前の口は決まりしか言えねえか、と今にも殴らんばかりに大福に近付くと急にぐいと後ろからおれのうでを引っ張る野郎がいやがる。うでを振り払って誰だこのやろうと振り返れば、そこには黒服のおやじが棍棒を持って眉を吊り上げていた。聞けばお巡りだという。ありゃ都会じゃお巡りも立派だわなどと考えているうちに、お巡りのおやじがおれのうでをぐい、ぐいと引っ張って大福から引き離した。

 おれもこのままではお縄になると冷や水を浴びたようになって、すっかり丸くなって事の成り行きを話した。お巡りのおやじは顔こそ頑固な雷だが案外まともな人種と見えて、うんうんと唸ったのちに仕方ない乗っけてってやろう。今日だけは特別だぞと白と黒の車を持ってきて、その後ろに乗せられた。はたから見りゃお縄になったように見えているだろうなと思っていれば、存外早く会社に着いた。まったくもってけしからん時間を過ごしたと車のドアを閉め、おやじへの挨拶もそこそこに会議に出た。

 会議も終わったその帰りに、おれは横濱に立ち寄り、家内にしうまいを一箱と子供らにフライを買ってやった。

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横濱 前花しずく @shizuku_maehana

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