なんでもない日々
落花
なんでもない日々
落花
「ねぇ」
「僕の名前は『ねぇ』じゃありません」
「知ってる」
「そっか」
何でもない日曜日。
日記に何を書こうかとても迷っていた。
この話はネタが尽きた時に書くつもりだったんだ。
僕と彼女は日曜日、必ず出掛ける。晴れていても、雨が降っていても。僕が渋っても彼女はお構い無しだ。
その姿はまるで強行軍で、小柄な体に似合わず大きな足取りで敵地に攻め入る。で、僕たちはいつも同じ所へ行くわけだ。同じ敵地へ。「タワー」ってカフェさ。
内装がとってもオシャレなんだ。少し狭い店内は、五組もお客さんが来たら満席になってしまうような狭さ。だけど、僕も彼女もそれが心地よかった。
それに、いつも最高なジャズ・ミュージックが流れてるのもいい。この間はエラ・フィッツジェラルドで、その前はビル・エバンスだった。会話に支障が出る程の大きさってワケじゃなくて、ホント、丁度いい感じ。
あとはご飯が美味しいんだ。僕はいつも大根の煮物を頼んでいて、彼女はいつも唐揚げを頼んでる。小鉢で出てくるからヘルシーだし、見た目もいい。それと、スコーンか玄米ご飯かが選べる。僕も彼女も、いつも玄米だ。健康にいいからね。普段は食べないけれど、こういう時ばかりは食べる。僕も気を遣っているんだ。
食後のチャイティーには可愛いラテ・アートが描かれてる。僕も彼女もここぞとばかりに携帯を構えて、ぴかぴか写真を撮ってるんだ。自慢するためさ。ネットに上げるときはモチロン加工しまくってるけどね。
全部すっきりすっかり食べて飲んで、僕たちはおなかをさすりながらひと心地つく。食事中は夢中で気が付かなかったけれど、その時店内はジャズじゃなくて、スティービー・ワンダーが歌ってた。
文句じゃない。結局最高ってワケさ。そうだろ? 大好きな人と一緒にいる時間はいつだって最高さ。
「きゃ、大好きな人だって」
「本当の事だもの」
「もう……ねぇ」
「僕の名前は『ねぇ』じゃありません」
「意地悪ね」
「そうかな?」
――
なんでもない月曜日。
日記はまとめて週末に書くタイプ。
平日の夜なんて大学で疲れ果ててるからね。
月曜日は憂鬱だ、なんていう人がいるけれど、僕からしたらそんなのどうかしてる。僕は朝起きるのが結構早いのだけれど、月曜の朝は特別製だ。すっきり起きれると、一週間が万事うまくいくような気持になる。だから、僕は月曜日が好きだ。
朝ごはんなんかバッチリ気合いを入れて作る。僕も彼女もパン派だから、トーストを手早くオーブンに入れて、片手間にゆで卵を作る。それからベーコンをカリッと焼いて、前日に準備していたサラダを冷蔵庫から出すんだ。スッキリ冷えていて、バランスも最高。それに見た目もバッチリって具合さ。
支度が整い終わる頃に、彼女もゆっくりと目覚めてくる。顔を洗って歯を磨いて、今日の朝食を見てニッコリするんだよ。
僕は思わず「これならカフェだって開けるよ」って言う。いつもこうなんだ。すると、それに彼女が「寝言は寝て言え」って言う。これもいつものこと。僕たちはそれを「あくまで今日初めてこの会話をした」ようになんとなくそっけなく話して、それで、目を合わせて笑い出す。いつものこと。なんでもない毎日で、代わり映えしない毎朝だけれど、僕はこんな毎日が大好きで、彼女もこんな毎日を愛してくれている。
カフェを真似て小さなオーディオ・コンポを買ったものの、あんまり使ってはいなかった。僕はふとそれを思い出して、テーブルに置いたコンポのスイッチを入れる。ディスクはヴェートーヴェンだ。第九が流れ出して、その音は小さくとも、力強く僕たちを包んだ。気分はルンルンさ。それから、先に食べ終わった僕はニッコリ笑顔で席を立って、二人分の紅茶を淹れるんだ。茶葉を選んで、ホウロウの薬缶をコンロにかけた。今日の茶葉はディンブラだ。朝はストレートで淹れるのが僕達流で、モチロン今朝もストレートで淹れる。少し値の張ったガラスのジャンピング・ポットに茶葉を入れて、シュウシュウ音の鳴る薬缶から熱湯を注ぐ。一瞬で茶葉が躍りだして、高熱の潮流の中を縦横無尽に泳ぎ回った。僕はこの瞬間が最も心躍る時で、もう無茶苦茶笑顔になる。彼女はそんな僕の背中に声を掛けるんだ。「楽しそうね」それで、僕はいつだって同じように答える。「勿論だよ、もうすぐ出来るからね」
熱々で濃いめに淹れた紅茶が出来上がるころには、彼女も朝食を摂り終えてる。だから僕はホテルマンみたいに給仕のふりをして、「お済の皿をお下げします」なんて冗談を言った。彼女はクスクス笑って、それから紅茶を持って来て下さるかしら、って言ったんだ。
僕の月曜日は彼女に仕えるホテルマン、ってワケ。やっぱり、月曜日は最高だよ。素晴らしい朝食と、愛すべき素晴らしい彼女。これを書いてるとき、彼女があんまり恥ずかしいのか背中を殴ってきているんだ。ちょっと痛いけど、うん、素晴らしいよ。マジで。
「ちょっと褒めすぎ。あと、嘘つくな。朝ダメでしょ」
「うぐ、美化したのは認める、ます」
「よろしい。……ねぇ」
「もうちょっと」
「バカ」
「ごめんて」
――
なんでもない火曜日。
今日は学校はお休みだった。僕も、彼女もだ。
天気は残念ながら雨だけど、ま、仕方ない。
ざあざあと音を立てて、雨粒は窓と屋根を叩いてる。今日がお休みでよかったね、なんて言葉を交わした。僕たちはベッドの上で、背中合わせになってる。微かな温もりが背中を通じて血流に乗って、心を温めた。僕は本を読んでいて、彼女はテレビ・ドラマを見てる。僕は壁を向いて、窓越しに見える曇りがちな世界を時折見るんだ。晴れの日も好きだけれど、雨でも好き。落ち着いた雰囲気があるし、雨音はどのアーティストにも勝るミュージックだからね。
僕は「電気ヒツジ」の本を読んでいた。フィリップ・キンドレド・ディックだ。ページを繰るたび、イマジンが空想の世界に飛び込んでいく。僕は主人公だ。アンドロイドとの戦いに身を投じていく中で、人間とは何かを考えていった。でも、途中でぷつんと切れた。彼女が僕の背中に抱き着いてきたのだ。僕はもうその瞬間に全部吹き飛んで、彼女に向き直って思いっきり抱きしめた。それから、やっとの思いで言葉を紡いだんだ。「どうしたの」彼女は何も言わない。いつの間にか結構時間が経ってたみたいで、テレビ・ドラマはもう終わり、つまらないニュース番組が流れていた。
僕は大体分かった。分かったうえで何も言わずに、彼女をぎゅっと抱きしめていた。それから少しして、彼女は呟いた。「喉乾いた」僕はちょっと待ってて、と言ってから、また紅茶の支度をすることにした。
ベッドルームからキッチンへ、そしてリーフケースからウヴァの茶葉をチョイスする。そして砂糖と豆乳を加えて、濃くて甘いミルクティを手際よく作った。マグカップはこれまたオシャレな奴だ。彼女が買った。ややくすんだ白い陶器のマグで、僕たちはこれが大のお気に入りだった。温かみがあって、僕たちの部屋にもピッタリだったからね。だからこそ、僕は数あるマグカップからこれを選んだんだ。色味も味も、香りも、全部バッチリ。僕はそれを持って、またベッドルームに戻った。雨音はいつの間にか止んで、窓の外は闇がその帳を下している。彼女は部屋の間接照明を付けて、毛布に包まっていた。だから僕はそっと側に腰かけて、彼女にマグカップを差し出す。すると、毛布から腕がヌッと飛び出してきて、僕の手ごと包んだんだ。
「あったかい」彼女は言った。「そうね。ごめん、集中しちゃって」僕はそう返した。
僕の悪い癖で、なにか一つの物事に集中すると、つい周りが見えなくなってしまうんだ。僕は彼女が大好きだから、生きる限り出来る限りの時間を彼女と過ごしたいって思ってる。でも、彼女と同じくらいに本を読むことが好きだから、読み耽るとつい彼女を疎かにしてしまうんだ。で、僕はその度反省してる。
僕の彼女はピカピカだ。我関せず、な面もあるけど、意見を求められればしっかり自身の意見を言うし、好きな事と嫌いなことがとってもハッキリしてるワケ。僕とは大違いだ。僕は何かと優柔不断で、長いものに巻かれる感じ。のんきで、でもちょっとだけ行動力があるって言われる。でもやっぱりのんきだから、偶に彼女を傷付けてしまっているのではと心配してしまう。
まぁ彼女はハッキリしてるから、そんなことないって言うんだけど。
でも二人きりだとちょっと違うんだ。お互い、普段より甘えがちになる。笑顔を交わして、笑いあって、最高だねとか、可愛いってずっと言ってるんだ。僕はそれがとっても幸せなんだよ。そんな僕の隣にいてくれる君の事が、大好きなんだよ。
僕はそう「言って」、ちょっと飛び出した彼女の頭を撫でる。彼女の耳は血みたいに真っ赤になってて、まるで感情を表示するメーターみたいだった。
指を耳朶に這わせると、肩がぴくん、と震えた。それからちょっとの間、ベッドルームはやや温くなったミルクティを啜る音が支配していた。お互い片手で飲んでたんだ。手を離したくなくて。飲み終わった後、僕は何故か照れてしまって、つい聞いた。「もう少しこのまま、手を繋いでいて良いかな」って。彼女はまるで当り前だろうとでも言うような口調で答えた。
「うん、いいよ」
左手を介して、彼女と僕の体温が共感覚でリンクしていく。ところで左手には太い血管があって、なんとそれは心臓まで繋がっているらしい。僕はそれを思い出して、彼女に言った。「寝ている間も手を繋いでいたら、本当の一心同体になれるかも」彼女はその言葉に少し吹き出して、「寝言は寝て言え」って言うんだ。
でも、僕は冗談で言ったつもりなんてないんだよ。
「そうなの?」
「まぁね」
「男ってキザなのがデフォルトなの?」
「全部が全部そうじゃないよ。あと僕はキザでもない」
「んなわけないでしょ」
「ハイ……」
――
なんでもない水曜日。
授業は二限からだけれど、気分は億劫。
夜更かしのせいか、寝ぼけ眼が取れない。
僕はワイシャツのボタンを掛け違えたまま歯磨きしていたらしい。らしい、というのは、僕自身が気付いていなかったから。僕がぼけっとしたまま歯磨きをしてたら、彼女に指摘されて(しかも笑われながら)気が付いたんだ。僕はすぐに顔を真っ赤にして、慌てて留めなおしたよ。いや、恥ずかしかった。
そうそう、えっと、僕の寝癖はヒドイ。寝てる間にベッドが爆発したのかと、毎朝疑うくらいだ。ここ最近はまだマシだったけど、今朝はいよいよヒドイ。彼女はそんな僕の頭を鏡越しに指差して笑ってるんだ。それも笑いすぎて歯磨き粉を溢しながら。いい加減怒るぞってばかりに目を細めるけど、逆効果だったみたい。彼女は再び勢いよく笑い出して、吐き出してしまった。お辞儀をして、鏡の中から彼女の姿が消えて、また出てくる。「笑わせないでよ、もう」なんて彼女は言いながら、もう一度歯ブラシを咥える。で、僕はふざけてもう一度目を細める。そしたら、案の定笑い出して、今度は横にいた僕の服に噴き出した。凄いのなんのって、笑い声と悲鳴の入り混じった朝だったよ。イカしてるね。
朝食。今朝はトーストにスクランブル・エッグ。
それからシーザー・サラダと、食後の紅茶。今朝はダージリンを選んだ。トーストは何故か少し焦げてしまったけど、それ以外は概ね問題なし、今朝もバッチリ。で、僕は食事を終えて、いつも通りのんびり紅茶を飲みながら音楽に耳を傾けてた。曲はサム・スミスで、ステイ・ウィズ・ミー。僕は最近のアーティストの中でも彼がお気に入りだった。だから、おねだりしてディスクを買ってもらった。で、気分よく鼻歌なんか口ずさんでいると、彼女が急にテーブルから立ち上がった。僕はあんまり驚いて、どうしたのって聞いた。彼女は言った。「今日……水曜日って、ごみの日だ!」
そこから僕たちは早かった。家中のゴミ箱をひっくり返して、手早くゴミというゴミをかき集める。それこそひったくりみたいだった。中身は無価値だけどね。
それから、僕と彼女は猛然とダッシュしてゴミ捨て場まで向かった。清掃のおじさんが優しくてラッキーだったね。わざわざ車を止めてくれたんだもの。それに、「仲が良いな、え?」って言ったのも良かった。ま、当然だけどさ。
そうそう、ゴミ捨てには僕一人で行ってもいいのだけれど、彼女はいつも一緒に行くと言って聞かないんだ。もし自惚れでなければ、これはきっと、帰り道に手を繋いで帰るためだと思う。
但しこの日は別だった。なんでって、家の鍵を閉め忘れていたのに気が付いたから。お陰で帰り道もダッシュだった。
でも、うん、楽しかった。
――
なんでもない木曜日。
風邪をひいて一日ベッドの上にいた。
彼女の心配そうな顔が辛い。
もうそろそろってタイミングで風邪なんか引くものだから、どうしたものかと悩みに悩んだ。でも、そのことを打ち明ける訳にもいかないから、僕はおとなしく寝込むことにしたワケ。
彼女の作ったおかゆは最高に美味しかったってだけ書くことにする。
この日の日記は多分これだけ。
追伸 書き忘れてた。荷物が届いた。丁度彼女が出掛けていた時だった。こればかりは幸運と思ったね。ま、荷物は偽装してあるから問題ないだろうけど。
予定日はもうすぐだ。
――
なんでもない金曜日。
風邪二日目。うーん、どうしたものか。
彼女は今日も心配そうにしていた。
まぁ昨日よりはマシだろうし、って伝えると、彼女は「本当?」って言った。そりゃそうだろう、僕は昔からちょこちょこ嘘を吐く。例えばそれは金銭面の問題や体調不良を誤魔化すためのものだ。彼女には僕の事を気にせず自分の幸せを追い求めてほしいって思うからね。で、僕はそんな彼女の側で支えながら添い遂げる事が目標ってワケ。
昨日よりもお腹が減っていたので、僕は冷えピタを額にくっ付けたまま冷蔵庫のドアを開けた。彼女が少しばかり買い込んでくれたおかげで、中身は問題なし。それどころか食材が有り余るくらいだ。
足の速そうなもので、かつ調理しやすいものを選別する。スープが欲しかったので、冬瓜と鶏肉、それからネギを引っ張り出した。それから牛蒡と人参、蓮根に万能ネギと、具沢山で。
一応マスクを付けて、冷えないように半纏を羽織る。それから包丁を取り出したら、調理場は僕の城になる。
冬瓜は賽の目に、鶏肉は食べやすく一口大……蓮根と人参、それから牛蒡は、半分大きめに、半分小さめに切っていく。こうしていると風邪をひいているなんて全く感じない。僕は下手くそなりに料理が好きだったからだ。
調味料の配置も、フライパンの位置も、乾物の置き方も、全部が僕好みになっている。さっきも言ったけど、調理場は僕の城ってこと。唯一彼女が進出しているのは、味付けだ。
僕はワリと濃い味が好きで、彼女は健康的な薄味派。ただ、その点において僕は彼女に勝てないし勝とうとしない。大好きな人が食べるんだから、その人の好みに合わせるのは当然だよね。なんて。
おかげで味付けは随分シンプルになった。でも、今では僕も薄味が好みになっている。愛する人の影響力というのは本当に計り知れないものなんだ。まぁ、知ってたけどさ。惚れたころからずっとそう。僕は彼女を、本当に運命の人だと思っている。
恥ずかしくて中々言えないけどね。
「さて、冬瓜スープと炊き込みご飯の続きだ」
――
なんでもない土曜日。日付は七日。
風邪はバッチリ治って、体も元通り!
準備万端、万事オッケー、って感じだ。
いつもどおり、なんでもない毎日の、普通な毎朝。僕は彼女を起こさないようにそっと抜けだす。でも、勿体ない気もして頬にキスをしていく。これくらいはいい、よね?
柔らかかったなぁ。左手の人差し指を口にあてがいながら、僕は卵をかき混ぜる。ひとしきり済ませて、それからフライパンを火にかけた。で、冷蔵庫からはリーフ・サラダとクルトン。戸棚からはクロワッサンを取り出して、こっちはレンジで温めておく。
フライパンに火が回った辺りでバターを投入して、さっとかき回す。卵液をさーっと入れると、いい匂いが一面に立ちこめた。幸せだ。思わず頬が緩んでしまった。気分はサイコ―。小さく鼻歌を歌いながら、僕は手早くオムレットを作り上げる。うーんフワフワ。我ながら完璧な出来だね。思い出してもよだれが出てしまうくらいには完璧さ。
「いい匂いするねー」って彼女は言って、僕の腰にしがみついた。僕はちょっと驚いたけど、ふたつめのオムレットを作りながら言葉を返したんだ。「おはよう、ご飯出来るからさ、顔洗っておいでよ」彼女はその言葉を無視して僕の腰に頭を押し付けている。まるで甘えたがりの猫みたいで、とってもかわいかった。僕は仕方なく彼女の方に向き直って、頬を両手で挟んだ。
「ごはんです!」彼女はつぶれた頬で「あい」って言った。それも可愛い。全く持って困り者だ。お陰さまでオムレットはやや焦げてしまった。これは僕の分になるだろう。
「いただきます!」二人分の声がして、僕たちは思い思いに皿に手を伸ばす。僕はクルトン入りのサラダに、彼女は温めたクロワッサンに。予想通りって感じだ。水分を与えてから焼いたパンはとってもサクサクみたいで、噛み締めるたび生地の割れ破れる音が響いてた。
彼女はとっても美味しそうに食べていたし、僕にとってはその姿を見ることが幸せだった。だから、そんな僕を訝しんだのか、彼女は僕に問いかける。「なにかあったの?幸せそう」そんなの聞くもんじゃない、僕は君と居ればいつだって幸せなのにさ。僕はおどけてそう答えた。今日は朝からどうしたの、なんて彼女は頬を真っ赤にしているワケさ。うん、やっぱり大好きな人と一緒にいるのって幸せだよね。
結局僕は食事中ずっとニコニコ。それで、いつも通り彼女よりも早く食事を終えて、紅茶を淹れはじめる。今朝はイングリッシュ・ブレックファスト。ブレンドティのなかでもストレート・ミルクのどちらでもイケる、まさにオールラウンダーな一杯だ。あぁそうそう、レモンを浮かべても美味しい。今度やろう。
「お待たせしました、お嬢様」
「ふむ、苦しゅうない」
僕は恭しく紅茶を捧げる。彼女も殊更高尚にそれを受け取って、ぷっと吹き出す。もう、なにやってるの。ごめんって。そんな風に笑いあいながら、紅茶を啜る。今日も我ながらいい出来だ。彼女も僕もニコニコしてる。最高な毎日、変わらない毎日。
でも僕はいつもよりドキドキしていた。変わらない毎日に、僅かな変革を起こそうとしていたから。僕は緊張を悟られないようにカップで表情を隠しながら、そっと席を立った。彼女は僕を視線で追ったけど、あんまり気にも留めていないみたい。内心よっしゃと思いつつも、それを悟られないようにベッドルームへ舞い戻った。
クロゼットを開ける。小箱を取って、席へ戻る。
彼女は紅茶を飲み干して、本を開いている。タイトルは良く見えないけれど、彼女がそこに集中していることは目に見えている。今がチャンスだ。
さぁ、今僕のポケットには爆弾が仕込んである。とてつもない威力だ。それこそ今この生活を吹き飛ばせるくらいのヤツ。
スイッチを手に掛けて。僕はいよいよ声を掛けた。
「ねぇ」
「どうかしたの」
彼女は本にしおりを挟んでからそう聞いた。僕はもうバクバクだったワケ。なんてったってこれで全てが決まるから。僕はさぁここが踏ん張りどころだと前日からずっと考えていた台詞を思い出そうとする。
「えっと……好きです」
「知ってる」
僕はなんて馬鹿なんだろう! もはや昨夜の記憶は全て消え去り、暗記していたはずの台詞はたった一言に置き換わってしまった。あぁいや、そういう意味じゃなくて。僕はそう前置きしてから、改めて説明する。
「毎日、同じ、いつも通りの毎日を過ごしたい。昨日までも、今日も、明日も、これからもずっとね」
「僕たちの関係はこれから先変わる事は無いと思うんだ。たとえ僕がこれを君に送っても」
「ああいや、まどろっこしいのは抜きにしよう。君が――好きだ。これから先、『夫婦』になっても……」
「いつもいつまでも、いつも通りの、『なんでもない』日々を、僕と過ごしてくれますか?」
僕はもう顔に熱が集中してた。真っ赤になって、でも伝えないといけなくて。彼女の事を見れないくらい、恥ずかしかった。でもそれでも、僕は言い切った。
ふ、と彼女を見る。彼女は……彼女は泣いていた。それこそまるで滝のようだった。
僕はその姿に随分戸惑ってしまった。あんまり戸惑って空っぽのマグカップを口に運んでしまうくらいに。彼女は泣きながら笑っていた。当然だ。僕も笑ってしまったからね。
はー、もー、締まらないなぁ。彼女はそう言った。僕たちはテーブルに向かい合って笑い合っていた。それで、僕の心臓の鼓動はもうすっかり落ち着いて、いつも通りになっていた。
だから僕はポケットからそっと爆弾――もう起爆装置は解除してある――を取り出して、彼女の前に置く。
「愛してる。受け取って、返事を聞かせてほしい」
「……はい、これ」
彼女は受け取る前に、僕が小箱を差し出したように、読みかけだろう本を差し出した。僕は導かれるように本を手に取って、しおりの挟まっているページを開く。
僕は不思議に思っていた。そういえば彼女はあまり本を読まないはずだった。でも、どうしてかを考える前に、僕は本のページを開いた。ぺらりぺらり、ページを繰る。全部白紙だ。でもページを繰る手は止まらない。やがてしおりに辿り着いて、そして、答えはそこにあった。たった三文字だ。ワイ、イー、エス。
「イエス?」
「もちろん!」
本から顔をあげる。彼女はいつの間にか小箱を開けて、指輪を嵌めていた。もちろん左手の薬指さ。それも満面の笑みをオマケにしてね。
その瞬間、僕は、いや、僕たちは最高に幸せで、そして、いつも通りの毎日を過ごしていた。
――そしてきっと、今日も明日も明後日も、僕らはなんでもない日々を、いつも通りの毎日を過ごす。
「なんでもない」
――
追記
「おしまい! 書き終わったー」
「お疲れ様。紅茶淹れてあるよ」
「ありがとー。あと、お待たせしました」
「本当だよ。本当びっくりした。プロポーズの後に締め切りの話するんだもん。お陰でデートが二時間もお預け、そして編集さんからの電話に対応する事三回。いい、今度からちゃんと日記も作品も書いておいてね」
「はぁい……さ、記念日の続きをしよう、なんでもない日々に乾杯。――紅茶だけど。お味はいかがかな、お嬢様? なんて」
「完璧。今日も美味しいね。なんだっけ、イングリッシュなんとか?」
「イングリッシュ・ブレックファストね。いいでしょ?あ、そうそう今日のデートどこ行こうか。『タワー』は?」
「そうねー……」
本当におしまい。
なんでもない日々 落花 @selgame
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