Role A

日由 了

プロローグ

第1話 プロローグ

「こちら八二二ハチニイニ、八二二」


 堪えた涙とは裏腹に、降りしきる雨が僕たちを打ちすえた。初冬の雨は骨まで差し込むように体温を奪った。数メートル先の視界も白く霞むほどの豪雨に負けじと、僕は声を絞り出す。


「応答してください、誰か、誰か」


 一歩踏み出すたびに、このまま力尽きてしまうのではないかと思う。次の一歩で、僕はこの原野から動けなくなるのではないかと。けれど、それではいけないと僕は腿を引き上げて、ひたすら進んだ。


「部隊は、壊滅しました。……応援を」


 手からずり落ちそうになって、背負いなおした。ぐったりした彼女を、落とすわけにはいかない。浅い呼吸が、まだかすかに聞こえている。雨音にかき消されそうだけれど、確かに。


「……いえ。救援を要請します。本部、応答してください」


 前が霞む。泣くな。泣くな。深く息を吸い込む。顔面に垂れた雨水ごと、吸い込む。鼻の奥がツンとした。


「誰か、いませんか。誰か、誰か」


 音のならない無線機に向かって、僕は叫ぶ。


「助けてください、助けて、助けて……」


 走る体力はもう、ない。追いつかれれば、死ぬ。

 死にたくない。僕はここで、死にたくはない。

 だけどそれ以上に、背中にいる彼女を死なせたくはなかった。背中でどんどん軽く、冷たくなっていくのが分かる。濡れそぼるよりも早く、背中に回した腕の中の重みが、なくなっていく。

 僕は歩調を速めた。僕の骨が軋み、裂傷が痛みを訴えたが、無視した。これ以上、僕のせいで誰かが死ぬのは、耐えられない。僕をかばった人が死ぬなんてことが、あっちゃいけない。


「……助けなんか、こないよ」


 耳元で細い声が聞こえた。


「見殺しにされたんだ……。誰も、助けちゃくれない」

「……知ってるよ」

「ねぇ、だから。あんたも私も助からないんだから。……もう、下ろしてくれない?」

 

 僕は彼女の声を無視して、歩き続けた。

 たった一人、歩き続けた。


市野イチノ。ねえ、私もあんたも、同罪なんだから。戻れるはずなんかないんだよ。戻ってもどうなるか」

「戻って、生き残るんだ。あんたは生き残らなくちゃ、駄目だ。死なせない」


 彼女の言葉を遮って、僕は何度も、死なせない、と繰り返した。

 それでしか、自分を奮い立たせることができなかった。


「クソ、あんたなんか大っ嫌いだ」


 低くうなるような悪態が聞こえた。

 それでいい。

 感謝なんて、されない方がいい。


「……あぁ、僕もだ」


 雨は激しさを増していく。

 後ろを振り返ることなく、僕は、舗装のはがれた原野を歩いた。崩れた高架の足元を、水没した地下鉄の駅の側を。彼女を本部まで生きて連れ帰ることだけを考えていた。


 背後の脅威を、置き去りにした者を、意識の底に置いて。僕は歩き続けた。

 しかし、唐突にぬかるみに足が張り付く。厚いソールは泥にはまり込んで、びくともしない。

 歩かなければ。

 歩かなければ。

 息遣いが、唸り声が、彼女の声を上回る音量で、狭いビル影に響いた。

 死にたくない。

 死なせたくない。

 足を引き抜こうと躍起になる。体力を奪われる。

 バランスを崩して転倒した。彼女を取り落してしまう。べしゃりと泥と血の混ざった水がはねた。

 仰向けに転がり、慌てて彼女を傍に引き寄せる。ぐったりとしており引き寄せるのに苦心する。

 彼女は僕を恨めしそうに僕を見上げていた。謝罪すると、そうじゃない、と。もっと怒りを込めた目で睨まれた。

 僕は彼女を助けなければならない。

 それだけだった。それだけしかなかったとも言えるが。

 転倒した際にキットで応急処置した傷口が開いたが、構うことはなかった。僕の傷など。

 死なせない。絶対に死なせない。

 頭にあるのは。それだけでいい。

 抱え上げ、倒壊したビルの壁伝いに身体を起こそうとした僕の耳を、獣の咆哮がつんざく。

 振り仰いだところに、映り込んだ口腔。

 生臭い風圧。

 徒空アダソラを押し、離そうとするよりも早く。

 視界が赤く濁った。

 


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