第3話

 翌日、移動して次の目的地に到着した。そこでの捕食対象の散らし作業も、無事に終わった。

 戦闘中、隠れずに回復魔法の使用を狙った私に、トライツさんは一瞥だけでなにも言わなかった。

 まだタイミングがつかめなくて、回復魔法は数回しか効果をなさなかった。それでも1回も使えなかった昨日より、進歩できた。トライツさんの薬中毒を少しでも遠ざけられたんだ。

 地面の空き瓶をトライツさんと拾いながら、小さな、だけど確実な実感を噛みしめる。

 これで満足はできない。もっと回復魔法を当てられるようにならないと。トライツさんが使う回復薬を、少しでも減らせるようにしないと。

 空き瓶を布袋にしまって、昨日が蘇る。

 戦闘後もトライツさんは、回復薬で治療してしまってた。今回も拾い終わったら、そうしてしまうかもしれない。

「あの……治療しますから、薬は使わないでください」

 素早く振り返って言っても、トライツさんは一瞥だけで返事はなかった。変化のない表情は、了承してくれたのかわからない。

「使い続けてたら、効きが悪くなってしまいますし……」

 応じてもらうために、言葉を続けた。伝わったかわからないけど、これ以上強く言えるだけの精神は私にはなかった。


 空き瓶を拾い終わって、トライツさんに『治療するから』と伝えて道具をとりに駆けた。『この隙に回復薬を使われてしまうのでは』と心配だったけど、さっきの言葉が効いたのか、木の陰に座って待っててくれてた。

 トライツさんの近くに腰を落として、治療道具を置く。

「魔法ではないのか?」

 治療道具を持ってきた私に、トライツさんの声が届いた。

「魔法は即効性がありますが、体に負担がかかるので」

 戦闘中なら役に立つ。でも使い続けたら効きも悪くなるし、体を傷めかねない。『自然治癒力にも悪影響があるのでは』と仮説を唱える研究者もいる。

 平時は魔法でも薬でもない道具で治療するのが、体にとって最もいい。見た感じ、今のトライツさんのケガは、道具でもまかなえるし。

「お体、失礼します」

 一声かけて、腕の袖をそっとまくって、傷がないか確認する。自己申告だと『この程度の傷、問題ない』と隠されたり、痛みのない無自覚の傷を見逃してしまう可能性があるから。

 見つけた傷はどんなに小さくても、傷を癒す軟膏を塗る。

 体に残る傷跡は、思ったより少ない。攻撃を食らわないようにする戦法なのかな。

 確認を終えて袖を戻して、もう片方の腕に移って同様に治療する。戦闘科の方の治療にはなれてるから、まごつきはしない。

「……なぁ」

 腕の治療を終えようとした瞬間、届いた声に顔をあげる。トライツさんはよそを向いて、遠くを見つめてた。

 長くて待ちくたびれさせてしまったのかな。

「ごめんなさい。時間はかかりますけど、体にはいいので」

 動きが制限される治療中。日常会話もない私相手だと、そこに流れる空気は退屈しかない。楽しい話ができない私を、改めて知らしめられた。もしできたとして、トライツさんが喜ぶ話題なんて想像もできないけど。

「じゃなくて……全身やるのか?」

 治療なのだから、全身やらないと意味はない。どうしてそんな当たり前のことを聞いたの? よぎった疑問は、てらされたトライツさんの顔でわかった気がした。

 私の勘違いでなければ、トライツさんは少し紅潮してるような……?

 治療だから、素肌をさわらないといけない。さわらせていただかないといけない。

 回復科の私からすれば当然で、一切の疑問も感情もなかったけど。

 もしかしてトライツさんからすれば、耐えがたいことだったの? 初対面だし、抵抗が強いのかな。

「そうさせていただくと、助かります」

 トライツさんは、なにも言わなかった。私を見ようとも、動こうともしなかった。景色を恨めしく思うようなトライツさんの視線に、俯いて顔をそらす。

 逃げないからには、応じてくれたと思っていい……んだよね?

 そっと、指先を伸ばす。

「できるだけすぐ済ませますので」

 治療なんて意識してなかったのに。こんな反応されると、私もどうしていいかわからなくなる。

 今まで感じたことのない緊張に包まれて。包む静寂のせいで、トライツさんの呼吸すら大きく聞こえて。

 ……治療。ただの治療だから。

 そう思っても、軟膏を塗る指先に感じる筋肉に、骨ばった感触に、伝わる体温に、改めて押し寄せる意識をとめられなかった。


 寝て、2人で朝ご飯を食べて、次の目的地に向かう。依頼中続く、ローテーション。

 あれからトライツさんとは、まともに言葉を交わせてない。元々寡黙な人だったし、必要な会話以外はしてこなかったけど。『治療をどう思われたのか』の気がかりは消えない。少し先を歩くその背中を、無言で見つめるしかできない。漆黒に包まれたトライツさんの体に、私はどう映ってるの?

「今日の地は――」

 ふいに足をとめて振り返ったトライツさんに、反射的に私も足をとめる。変わらない表情だったから、私も平穏でいられた。

「今までより数が多いと思う。警戒を一瞬も怠るな」

 パーソナルスペース以上の距離を保ったまま、続けられた言葉。

 心配の声だけでなく、そばにいることを認めてくれた。昨日の働きを認めてくれたのかもしれないと思えて、首肯して返した。

「ありがとうございます。精を尽くします」

 昨日より、今日が活躍できると信じて。少しでも役に立てるように励まないと。邪魔なだけの存在にならないようにしないと。

 顔を戻して歩みを再会したトライツさんの背中に、小さく決意した。


 トライツさんの忠告通り、今回の目的地の捕食対象は今までより多かった。

 でも思ったほどではない。この程度でも心配の声をかけられるなんて、私はとても頼りなく思われてるんだ。

 足はひっぱりたくない。でもなにも活躍できないのも嫌だ。

 私でも、なにかできる。誰かのためになりたい。

 その思いから、隙を見極めてトライツさんに回復魔法を使う。

 トライツさんの動きを読み切れなくて外してしまったり、回復薬を先に使われてしまったりもありつつ、何回かは成功できた。

 最初の頃より、できるようになってる。

 その実感を感じつつ、詠唱を始めようとした瞬間。

 背後に感じた気配に、詠唱を中断して振り返る。

 1体の捕食対象が、そこにいた。

 むき出しになった牙で、ひどく興奮した様子は伝わる。中型犬くらいの大きさなのに、あふれ出る敵意で瞬時に身の毛がよだつ。

 トライツさんが相手してる群れにばかり気を払って、自分の背後になんて気をつかわなかった。警戒する必要がないと思ってた。

 思いがけない遭遇。だけどこんな瞬間も想定して、私が選ばれたんだ。

 やらないと。トライツさんに迷惑をかけないためにも。私だけでどうにかしないと。

 腰のナイフを抜いて、構える。

 鍛えるだけで実戦経験はなかったけど、やるしかない。相手は1体。どうにかなる。

 信じないと。恐怖にすくんでしまいそうになるから。

 ナイフを持つ腕をまっすぐに、捕食対象に伸ばす。空気を切ったナイフも読まれてたかのように、バックステップされた。

 開いた距離に、ナイフを構えながら対象を睨む。

 この距離だと、ナイフが届かない。でも安易に近づくのは、相手の射程に入ることにもなって危険。

 動きを見極めて、慎重に。

 荒くなりそうな息を必死に整えて、自分は一切慌ててなんかないと言い聞かせる。

 大丈夫。大丈夫。

 捕食対象はフェイントのように足をひくりと動かしはするけど、1歩も移動しようとはしない。グルグルと鳴る喉は、私の恐怖をあおる。

 依頼で散々見てきたのに、回復魔法や逃げることばかり考えてた。どんな動きをするのか想定できない。

 張り詰めた空気の中、背後から聞こえた鳴き声に蘇る。

 1体に気をとられたらいけない。トライツさんが相手する群れにも気をつけないと。私のせいでトライツさんに迷惑かけられない。

 素早く視線だけ送って、トライツさんの戦況を探ろうとする。

 瞬間、顔の側面にかかった影。

 急いで戻した視線にかすめたのは、今にも私に飛びかからんとするあの捕食対象。

 開け放たれた口から伸びる、鋭い犬歯。前足から伸びる、鋭利な爪。冷酷に光る双眸。

 差し迫った恐怖に、急速に体が硬直して。身をすくめて、まぶたをきつく結ぶしかなかった。

 『無傷で依頼を終える』と言ったのに、できなかった。

 『数が多いから気をつけろ』と忠告してくれたのに。群れにばかり気を払って、背後の注意を怠ってしまった。

 やっぱり私は、無力なままだったんだと蘇って。

 これはきっと、慢心した私の罰。

 ……そう思ったのに、衝撃は一向にやってこなくって。

 次の瞬間聞こえた衝撃音に、恐々とまぶたを開ける。

 目の前を包んでたのは、見なれた背中だった。

 振りかぶられた剣からは、真新しい体液が飛び散って。急速に鼻孔に広がる匂いは、戦闘中絶えず漂うそれで。

 原型をとどめない捕食対象が、地面にごてりと落ちた。

 瞬間、なにが起きたか理解できた。

「さがってろ」

 一瞥もなく早口に言ったトライツさんは、残った群れに駆けた。

 トライツさんが私に近づいたのもあって、私と群れとの距離が狭まってる。言いつけ通り距離を置いて、トライツさんに視線を戻す。

 群れの処理がまだ終わってないのに、私に気づいて助けてくれたんだ。

 ……情けない。

 回復魔法で支援どころか、足をひっぱってしまった。

 それだけはしないように気をつけてたのに。

 本当に私は、なにもできないんだ。

 身を切られるような思いで、涙があふれそうになる。どうにかこらえて心を落ちつかせて、回復に戻った。


 目的を終えて息を整えてるトライツさんに駆け寄って、頭をさげる。髪の毛1本1本、服のヒダすら頭を垂らすように揺らめいた。

「申し訳ありませんでした」

 迷惑かけて、足をひっぱって。

 その思いが抜けきらなくて、回復魔法も結局ほとんどまとも使えなかった。

 こんなだと、本当に邪魔だ。最初に言われた通り隠れてたほうが、よっぽどよかったんだ。

 むしろ依頼を受諾しないほうがよかったのかもしれない。私よりうまく立ち回れる逸材がいたかもしれないのに。

 立ち去る音は聞こえないから、トライツさんはその場を動いてないと思う。

 でも私にどんな表情を向けてるのか、どう思ってるのか、そもそも私を見てくれてるのか、わからなかった。考えるのが怖かった。

 『次からは隠れてろ』と言われたら、私は素直に従うしかない。それだけの事態を起こしてしまったのだから。

「ケガは?」

 届いた声に、胸が熱くなった。

 こんな私でも、心配してくれるなんて。

 まぶたをきつく閉じて、こぼれそうになるのをこらえてから、顔をあげる。

「大丈夫です。助けていただき、ありがとうございました」

 トライツさんの傷は、昨日より多いように見える。

 敵の数が多かったからだけではない。私を助けるために、きっと無理に動いたんだ。

 地面に散らばる空き瓶の量も多い。それだけ私が回復魔法を使えなかった証。

「群れから離れてた個体がいたとは、想定外だった。危険な目にあわせたな」

 失敗した私に、優しい言葉をかけてくれる。責めもしない。『無能』と罵りもしない。

 違う。優しさに甘えてはいけない。これはすべて私の責任。

「いただいた忠告を生かせなかった私の責任です」

 『いつもより少し個体数が多いだけ』と思って、それだけで終わらせてしまった。私がもっと気を払ってれば、確実に防げた事故。

「隠れてればいい」

 変わらない口調の言葉。

 なにも返せない私をよそに、トライツさんは空き瓶を拾い始める。

 怒ってるようには聞こえなかった。だけど『巨獣から仲間を守れなかった』と思ってるトライツさんに、つらい過去を思い出させてしまったのかもしれない。

 トライツさんに迷惑かけて、心の傷を呼び起こしてしまったんだとしたら。

 私は癒すことができないどころか、傷つけるしかできないの?

 認めるしかない自分の実力を痛感しながら、空き瓶を拾う。

 私が回復魔法を使えてればここに落ちなかったであろう空き瓶の数々。その1つ1つが、私の無力を顕著に体現してる。

 集まり続ける無力を前に、私の心は確実に摩耗していった。


 空き瓶を回収し終えて、トライツさんの治療に移った。やっぱり昨日より多かった傷を前に、胸が痛んだ。

 私のせいで。

 傷を癒すのが、本来の回復科のつとめなのに。私のせいで逆に傷を負わせてしまった。

 心の震えを察知されないように、唇を強く噛みしめた。


 気が重くなるだけの治療が終わった。

 トライツさんからかかる言葉はなかった。私からかけられる言葉も。

「日暮れ前に、明日の目的地に少しでも近づきたい。体力は平気か?」

 回復薬の補給をしながら発せられた言葉に頷く。

 歩くだけなら、問題ない。なにより、これ以上トライツさんに迷惑かけたくない。

「疲れたら言え」

 短いけど、また気づかってくれた。

 にじみ出る優しさに、心の傷がかすかにぬくもりにそまった気がした。

 ……いけない。甘えたら、また迷惑をかけてしまう。

 歩き出したトライツさんの背中を追いながら、自分自身を説得する。

 言葉だけでなく、行動でも気づかってくれてるのか、トライツさんの歩みはいつもよりわずかに落とされてるように感じた。朝の移動とは勝手が違うから、というだけかもしれない。それでもその行為すら、私のためと誤解しそうになる。

 隠し切れない優しさの裏にあるのは、守りきれなかった存在がいるからとはわかってるのに。

 いつでもトライツさんの心に眠る、なによりも大切な存在。

 もわりとほのめく心が、トライツさんの背中を見つめ続けるのを許してくれなかった。横にそらした視線の遠くの地面に、なにかいるのがかすめる。

 魔獣?

 今まで戦ってきた魔獣より、少し小さく見える。依頼場所周囲の魔獣も調べてきたけど、あんな魔獣いたかな。

 じっと動かないその姿を前に、思わず足がとまった。休んでるだけ……とは思えなくて。

 驚かせないように足を潜めて近づいて、ようやくわかった。

「どうした」

 背後からトライツさんの声が聞こえる頃には、私は目の前のその子から目が離せなくなってた。

 大人と思われる狸。

 その後ろ足には、痛々しい傷がある。

「治療するので、先に進んでてください」

 持ってきた薬は、動物に使っても害はない。人間にあわせて作られてるから、満足な効果は発揮できないかもしれないけど。なにもしないよりいい。なにもできない私でも、目の前に傷つく姿があるのにみすみす放ってはおけない。目的地は覚えてるから、追いかけられる。

 トライツさんの遠ざかる足音を聞きながら、治療道具を出す。

 傷に手を伸ばしたら、ひどく怯えた様子で体を震わせられた。

「……大丈夫だよ」

 優しく声かけて、私は敵ではないと伝えながら治療を進めた。


 治療を終えて駆け足で合流しようとしたら、トライツさんの姿はすぐに見つかった。

 治療してた場所のすぐ近くで、座って武器の手入れをしてる。暗い世界で、トライツさんの顔と武器が浮かんで見える。

「お待たせしました」

 偶然終わったのか、終わらせてくれたのか。トライツさんは武器をしまって、私に変わらない視線を向けた。

「無事か?」

 動物にも気づかってくれるなんて。動物好きな人なのかな。

「治療して、どうにか歩けるようになりました」

 即効性はないから、本当は安静にしてほしい。でも動物相手に言葉は通じない。野生の強さもあるし、走ったりしなければ完治に向かうと思う。最後まで怯えた様子だったけど、大きく暴れもせずに治療を受けてくれてよかった。

「まさか動物の世話までできるとはな」

「簡単なことしかできません」

 病気とか目視できない傷とかだと、専門外だから一切の対処ができない。でも外傷なら、持ってきた薬が使えるのもあって、多少はできる。

「今日はここで休むから、座れ」

 移動を進めるのかと立ったままだった私は促された。少し距離を置いた場所のまま、腰を落とす。

「申し訳ありません、お時間をとってしまって」

 よく考えれば、離れるなんて危険だ。しかも私は魔獣に襲われたばかり。『先に進んで』なんて、できっこない。『気配なく近くにいた』と噂の巨獣もあるし。守れないことに傷があるトライツさんだし、余計に。だからトライツさんは、わざわざこんな近くで待機してくれてたんだ。なにかあっても守れるように。

 またかけてしまった迷惑に、心が沈む。

「俺だけでなく、動物まで治療するとはな」

 耳に届いたのは、やわらかい声。

「天職だな」

 トライツさんの表情は、かすかに綻んでるように見えた。

 ……どうして?

 私はトライツさんに迷惑かけたのに。まともに回復魔法も使えなかったのに。

 私はちっとも救えなかった。ちっとも癒せなかった。

 ずっとずっと、なにもできなかった。

 病床の人を前に、気の利いたことも言えないで。

 薬中毒の人には、治療の兆しすら見せてあげられなくて。

 ただ変わらない日々を送らせるしかできないのに。

「違い、ます」

 そんなの言われる理由、ない。

 私なんかが天職なんて、ないよ。

「私は……なにもできません」

 ただマニュアルにそった治療をするだけ。それ以上のことは、なにもできてない。そこに『私である意味』なんて、一切ない。

 私以外の人がつとめてる今のほうが、いい時間をすごさせてあげられてるかもしれない。

 私以外の回復科を知った人たちは、その人に担当を変えてもらうように申請するかもしれない。

 そうなっても、私は文句を言えない。言う資格なんかない。『そのほうがいい』って、他の誰でもない私がわかってるから。

「元気にしてあげたいのに、なにもできない……こんな私は、回復科にいる意味がないんです!」

 言ってもどうにもならないのに、感情を抑えられなかった。

 病床の薬中毒の姿が蘇って、こぼれる涙を制御できなかった。

 トライツさん迷惑を、かけたくない、のに。

 それでも、とめられなくて。

「……なにがあった?」

 その問いに、答える余裕はなかった。

 どうにか涙を抑えようと頬をぬぐっても、満たすうるおいは変わらなくて。

 なにもできなくて、弱くて。

 そんな自分は嫌なのに。

 こうして泣いて、またトライツさんに迷惑をかけてしまってる。

 ごめんなさい。ごめんなさい。

 出せそうにない声の代わりに、心で謝罪をくり返す。

 ふいに頭に体温を感じて、顔をあげる。

 トライツさんの手が、私の頭に伸びてた。

 じんわりと伝わる、あたたかいぬくもり。

「満足に動けてる。気に病む必要はない」

 控えめだけど、ゆっくりと頭を滑る手。

 ぎこちなく続けられるなでに、唇を噛んだ。迷惑はいけない。涙を、とめないと。

「今日のことは、俺にも責任ある」

 捕食対象に襲われた瞬間が蘇った。

 それで私がここまで落ちこんだと思って、言葉をかけてくれてるんだ。

 トライツさんに落ち度はないのに、気をつかわせてしまってる。あるいは本当にそう思わせてしまったのかもしれない。

「それについては、ごめんなさい。でも……治療でも、私は結果を残せないんです」

 誰かのためになりたかったのに。実際にそうなれたことはあった? この癒しの力を、誰かのために振るえた?

 肩書だけが回復科で、私は本当はなにをしてこれたの? 考えても、成果を見出せなかった。

「治療しただろ。俺も。さっきも動物に施してた」

 優しい言葉が、じんわりと広がる。

 甘えたくなる感情がかすめた。でも、それはいけない。

 基本的なことだったから、治療できただけ。戦闘中の回復は、数えるほどしか成功しなかった。

 私が無力なのは、私自身が最も知ってる。痛くなるほど、わかり続けてる。

 優しさと無力を前に、世界がにじむ。

「……思いがあるなら、話せ」

 続けられる穏やかな言葉。

 あげた頭の先に見えたのは、真面目さと優しさのまじったトライツさんだった。

 真摯な瞳に、胸が揺らぐ。

 話しても、どうにもならない。

 すべて私の責任で、私がどうにかしないといけない問題。トライツさんは関係ないし、知ってもらう必要すらない。きっと困らせるだけ。

 それはわかってるのに……なで続けられる手から伝わるぬくもりは、とてもあたたかくて。

 ……少しだけ甘えたい。そう、よぎってしまった。

「担当する患者さんに、重度の薬中毒の人がいるんです」

 トライツさんの手の動きがとまった。

「少しでも症状を軽くしたくて、色々調べて試してるんです。でも……結果は出ませんでした」

 蘇って、視界がにじむ。

 少しずつでも回復の兆しを見せて、希望を与えてあげたい。その思いはあるのに、小さな望みすら与えてあげられない。

「私はあの方に、なにもしてあげられてない。今までなにもしてあげられらなかった」

 このまま治療を続けたとして、私はあの方になにかを残せるの? つらい思い出だけを、その身に刻み続けるだけではないの?

「……考えすぎだ」

 その言葉にも、首を横に振るしかできなかった。

 これは紛れもない真実。私が誰よりも理解してるから。

「薬中毒の治療法は、まだ見つかってない」

 それはトライツさんも知ってたんだ。なのに回復薬を乱用して、無理するなんて。仲間を守れなかった事実が、それだけ重くのしかかってるんだ。自身の体の影響を鑑みないほどに、その方を強く思ってるんだ。

「治そうと色々調べてるんです」

 薬中毒者に、希望を与えられるように。それだけを考えて。

「開発科が、日々治療薬を模索してる」

 自警団には、依頼された品を作ったりする開発科がある。『求められた効果の薬も開発してる』とは聞いた。薬中毒の治療薬を開発してても不思議ではない。

「そいつの治療ができないのは、1人だけの責任ではない」

 軽度なものも含めると、薬中毒患者はそれなりにいる。そう考えれば、開発科が新薬の開発に勤しむのは、自然なこと。なのに私は開発科のことなんか考えもしないで、自分1人で治療を進めようとしてた。回復科との情報交換すらしてなかった。

 私は無力なくせに、誰とも協力しようとしなかった。相談すらしてなかった。相談できるような相手すらいなかった。

「1人で治療法を見つけられたら、開発科から猛烈歓迎されるぞ」

 おどけたような言葉。その口元は、かすかにゆるんでるように見える。

 今まで心を固めてた思いが、するりするりとこそぎ落とされてく感覚がした。

 薬中毒の治療は、開発科という強力なバックアップがあるんだ。私なんかより専門知識に長けた人たちが、日夜研究に励んでるんだ。

 光は、あるのかもしれない。

 あの方を救える日が、来るのかもしれない。

「そうしてろ」

 いつの間にか、私の涙はとまってた。見出せた小さな希望に、かすかに心が明るくなってた。

「泣いて苦しむより、さっきみたいに『大丈夫』って優しく声かけて癒すほうがいい」

 さっき……狸の治療、見られてたんだ。近くにいたから、終始を見守られてたのかな。

 癒したい、救ってあげたいと思ってたのに。今までの私は『なにもできない』の呪縛で、笑いかけすらできてなかったかもしれない。そんな私が癒すなんて、できっこない。希望なんて与えられるわけない。

 貴方の未来は、明るいですよ。

 態度からそれがにじみ出るほどにしないといけなかったんだ。それが私にできる、最も大切なことだったんだ。

 治療よりも大切なことを、今までずっと見失ってたんだ。

「ありがとう……ございます」

 笑おう。

 少しずつでも、話そう。

 少しでも明るくできるように。治療を『つらいだけの時間』にさせないように。

 変わらないと。

 本当に癒したいと思うのなら、とまったままではいけないんだ。

「……俺は治療の際、話しかけられるのは嫌いではない。人によるとは思うけど」

 それは……トライツさんには話しかけてもいいという意味? それとも練習台を買って出てくれてるの?

 どちらにせよ変わらない優しさに、胸が熱くなった。

「最後に釘を刺したみたいで悪いな」

 それを最後に、トライツさんの手は離れた。

 急速に夜風に冷やされる頭部。それでも心のぬくもりは保たれたままだった。内側から全身に熱が渡るみたいで、空気にすら冷たさを感じた。

「いえ、ありがとうございます」

 笑顔を作って、トライツさんの瞳をまっすぐと見てお礼を伝えた。

 泣いてたせいで、きっとひどい顔だと思う。それでもトライツさんの言葉を、すぐにでも実践したかったから。

 話しかけてもいいのか、交流はさけたいタイプなのか見極めるのも、きっと大切。すぐには無理かもしれないけど、少しずつ見抜けるようになっていこう。

 今の患者さんたちは、どうなのかな

 考えて、蘇った。

「本を読んでる方は、お邪魔しないほうがいいですよね」

 いつも読書をしてるあの方。手早く終わらせて去るほうがいい、のかな。

「そんな奴いるのか」

「診察の際も離さず、本の虫で」

 挨拶以外は、ほとんど一瞥もしてくれない。

「読書好きならともかく、暇すぎて仕方なく本に逃げてる可能性もある。後者なら攻めていいんじゃないか?」

 ……どう、なのかな。

 『暇すぎて』なら、私に反応してもよさそうなのに。気さくに笑顔を向けてくれるけど、暇そうな様子は一切なかった。

 最初の頃は読書してなかったのに、いつからか読むようになって。『私なんかではつまらない』と思って、読書を始めただけ?

 ……それを見極めるのが、これからの私のつとめだ。

「助言ありがとうございます。私なりに励ませていただきます」

 なにもできない自分。

 そう思ってた私の前に、道ができた。

 まだ細くて頼りないけど、前に進める。少しずつで、失敗もあるかもしれない。それでもなにもできずにとまってた頃より、着実に進めるから。

 この道を作ってくれたトライツさんのためにも、無意味にしない。

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