第5話 アストレア家 III (カイン)
アリスのその一言、それはカインにとって全く想像していなかったものだった。
いや、可能性として考慮していなかった訳ではない。
だが、アリスが本当に王子にこれだけの屈辱を与えられ、それでも戦争を回避するために自身の身を捧げようとするなど思える訳が無かった。
そんなこと、どれだけの強さがあれば行えるのか。
そのことを考え、カインは息を飲む。
物語の中で勇者を励ます聖女、いや、勇者そのものに匹敵する強さ、そんなものをアリスは有しているのかもしれない。
だが、カインの動きが止まったのは一瞬だけだった。
「巫山戯るな!」
英雄、自分がそう呼ばれるようになってそんな言葉に対する憧憬など最早ない。
確かにただ、武術が人並外れて強かっただけの紛い物の英雄である自分と違って本物の英雄と呼ばれる存在なのかもしれない。
だが、そんなことどうでも良いのだ。
「お前達が幸せになるのが、俺の望みだ!」
何故なら、それがカインが娘と息子、家族に持つ唯一の願いなのだから。
だから幾ら彼女がとんでもない資質を秘めていようが関係ない。
このままではアリスを待っているのは茨の道でしかない。
だとしたらそんなもを親である自分が見逃すわけにはいかない。
そうカインはアリスに圧倒されかけた自分を奮い立たせる。
「まさか、あのアリス嬢が……」
「だが本人が事実だと認めていたのだぞ!」
周囲からこの2年でアストレア家と親しくなり、それなりにアリスと面識があったことから先程まで王子の言葉を疑っていた名門貴族の声が聞こえる。
アリス自身が認めたことで、彼等も王子の言葉を信じ始めている。
だが今ならばまだカインの一言でこれらの名門貴族にアリスは何もしていないということを訴えることが出来る。
カインはそう判断して、
「ですので、私は今から公爵令嬢としての地位を捨て城の召使いとして生きて行く所存であります」
「っ!」
ーーーそして、アリスの言葉に圧倒され出来た数瞬の迷い、それが致命的な遅れになったことを悟った。
アリスの言葉、それはアストレア家を捨てるという意味で、それはつまりもうアストレア家がアリスのことに関われなくなることを示していた。
つまり、もう、アストレア家がアリスの冤罪を晴らすことはできない。
だが、家名を捨てるそのことが起こすのはそれだけでは無かった。
王族との婚約破棄、それはこの王国中からの敵意に晒されるということ。
そしてそんな中、アリスは唯一の味方である後ろ盾を捨てたのだ。
「アリス!」
カインは何とかそれだけを叫ぶ。
その声に振り返ったアリスの顔にはこれからのことに対する恐怖か、顔からは血の気が引いていた。
そして同時にその顔に浮かんでいた申し訳なさそうなそんな表情が、
ーーーもう、全てが手遅れになったことを示していた。
◇◆◇
あの婚約破棄からどれだけだったか、そのことさえも正確に分からなくなる位カインは必死に名門貴族達にアリスの冤罪を訴えかけた。
だが王家の妨害にあい、話し合うことが出来たのはごく僅かの貴族だけだった。
また、何とか話せてもアリス自身が認めたことから、または婚約破棄されたアリスとの関係を持つことを恐れたのかまともには取り合ってくれなかった。
そしてそんな状況で戦争など起こせるはずがなかった。
今戦争を起こせば、一名門貴族が王国に喧嘩を売る状態になる。
そして今のカインにそんな状況で戦争を起こせるはずがなかった。
「今までの俺ならば……」
ポツリとカインの口から力のない言葉が漏れる。
そう、今までのカインならば間違いなくアストレア家だけでも戦争を仕掛けただろう。
アストレア家のものは全員がアリスは冤罪であることを知っていて、そして例え死ぬ未来しか見えていなくても王家との戦争を望んでいるのだ。
前までのカインならば迷う理由などない。
だが今のカインには、カインと家族だけが助かる可能性が残っていても、他のアストレア家の人間が死に絶える戦いなど起こせるはずが無かった。
「くそっ!」
ーーー カインはアストレア家の人間を無駄死にが確定している戦場に送りこめるわけがない程には、アストレア家に対して愛情を感じるようになっていた。
そして今戦争を起こしても、待っているのは不毛で一方的な戦い。
幾ら貴族の中で1番の名門であれ、王国相手に勝てるわけがない。
そしてそうなるように、アリスは自身に罪を被ったのだ。
アストレア家の人間を1人であれ、死なせない為に……
「そんなことを、俺たちが望んでいると思ったのかよ……」
カインの口からそう、アリスに対する愚痴のようなものが漏れる。
しかし、その言葉には一切の怒りが籠っていなかった。
いや、籠められるわけが無かった。
今もアリスは不遇な現状でそれでも必死に生きている。
おそらく、カイン達に対して謝罪しながら。
それを知りながら、彼女に怒りをぶつけることが出来るはずが無かった。
カインが怒りを持つとすればそれはアリスを救えなかった自分に対するものだった。
「もし、あの時戦争以外の選択肢をアリスに見せていれば……」
カインは の口から漏れた言葉、それはもうどうしようもないものだった。
カインの頭に必死に生きてきた傭兵時代の頃が蘇る。
あれだけ何度も死ぬような思いをして、それでもまだ自分は何も学ぶことはないのか。
カインは貴族となった証に国王陛下から貰った名剣を壁から手に取り、そして乾いた笑みを浮かべる。
「は、あははは!」
だが、その笑みは直ぐに空虚な笑いに変わった。
「そうか、ちゃんと俺も分かっていたのか……」
カインは剣にかつて自分が刻み込んだ、言葉を見てそう笑う。
ー 行動を起こす者にこそ、勝利は訪れる。
「そうか、うじうじ悩むことしか出来ない俺が勝利を手にできるはずがないのか……」
そう呟いたカインの言葉にはどうすることもできずに考えるしかない、なのに未だ道が見えない自分自身に対する自嘲が込められていて、
みしり、とカインの握った名剣の柄が音立ててた………
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