2-7

 さらに五分の沈黙の後、再び意を決して話し出す。


「お願いしたもの持ってきてくれた?」


 いきなりずうずうしいところから会話を切り出してしまった。


「まあ、持ってきたけど。授業出てないの?それとも寝てた?」

「出てない。」

「選択必修なのに?」

「道徳論の方は出てるし。」


 言い訳を重ねる。

 悪いのは私だが、学生として抗いがたい誘惑があることは理解してほしい。特に稜也は私の性格をよく知っているはずだ。


「相変わらず馬鹿だな。」


 その言い方に少しイラっとするが、今回に限っては稜也の言う通りなので何も言えない。


「今期は本当に取る数間違えたの。稜也と一緒に選んだ分と少しくらいしかとってないから。」

「週何コマ?」

「五コマ。」

「さすがにそれは酷いだろ。そんなの四回生とかになってやるもんじゃないの。」

「去年頑張ったし今年くらいはゆっくりしてもいいかなって。」


 あきれたようにため息をつかれる。


「それでもフル単じゃなかったじゃん。そんなに時間作って何してたの?」

「サークルしながらバイト漬けの生活を送ってた。」

「月何万稼いでる?」

「九万以上安定って感じ。五月は頑張って十二万いったし。」

「そんだけあるなら留年しても学費自分で払えるじゃん。」


 なんだこの私が留年する前提の会話。

 内容は解せないが、先ほどの気まずさはどこ行ったのか話は(目的外の方向に)弾む。これだけ自然に話せるなら何も心配する必要はなかった。


「留年したくないから助けてってお願いしてるんだけど何で諦めモードなの。」

「授業出てないのにこの内容レジュメだけでわかるの?響って哲学得意だっけ?」

「嫌い。」


 試験を乗り切るにあたっての一番の問題は私が哲学嫌いなこと。ソクラテスもプラトンもデカルトにもニーチェにも、誰の考え方にも興味がない。はっきり言って『何言ってんの?』で終わらせてしまうレベルだ。


 この授業の初回で教授が『学問は哲学と数学に分けられる。』みたいなことを言い出したあたりからわからない。自然哲学って何だよ、物理学とか化学とかで良いじゃないか。と思いながら寝たことは覚えてる。


「教えた方が良い感じ?」

「…お願いできるなら。」


 願ってもない申し出にプライドも何も捨てて乗っかる。稜也から言い出さなくても自分から頼もうとは思っていたが、こういうところはよく理解されてしまっているようだ。


「まずレジュメコピーしてきたら?」

「そうする。」


 提案に従い一度席を立つ。



「お待せ。」


 今までの授業、全十二回分二十八枚のレジュメをコピーするのに並んでいる時間も含めて十分ほどかかった。この余白の多くメモしやすいレジュメに稜也はしっかりとメモを取っていたためそれだけでも十分な気がしたが、コピー待ちの間に読んでも何を言っているのかさっぱりわからなかった。


「勉強始める前に聞きたかったんだけど。」


 帰ってきた私に稜也が真面目な表情で切り出す。


「なんで俺に頼んだの?」


 来たか。

 だが、この質問は想定内だ。


「友達が誰も哲学概論とってなかったから頼れる人が他にいなくて。」

「一人で授業受けてたのか?」

「だって稜也と受ける予定だったし。まあ、結局出席してないんだけど。」


 それは言わなくてよかったのではないか。


「…なんか、ごめん。」

「いや、私も変なこと言った。」


 再び気まずい空気になる。

 私が稜也を元カレとして認識しているように、稜也も元カノとして認識していることが分かった。それが何の役に立つのかはわからない。ただ、元カノを助けようと思ってくれて、休みの日に呼び出しても来てくれるというのは、まだある程度の行為があるという事ではないだろうか。


「えっと、とりあえず本題入っても良い?」

「うん。というかお願いします。あと二週間で苦手克服しないといけないので。」

「ちなみに中間テストはどうしたの?」

「出てない。」


 またもや深いため息をつかれる。そんなに呆れられても反応に困るだけだ。


「じゃあ、テストは割と取らないといけない感じか。」

「そういうこと。だから稜也がめっちゃ上手に教えてくれること期待してる。」


 他力本願。


「そう期待されても困るけど頑張ってみるわ。」


 こうして距離感を測りかねている私と稜也の甘くも酸っぱくもない。でも、どこかもどかしい勉強の時間が始まる…わけもなく、彼は淡々とポイントを押さえながら教えてくれた。今までもそうだったが勉強中はかなり厳しい。

 でも、とてもわかりやすかった。



 気が付けば午後六時を過ぎていた。

 間にちょくちょく休憩を挟みながら勉強をぶっ続けで行っていたら思っていたよりも時間がたっていたみたいだった。


「今日はもう終わりにしない?」


 さすがに疲れてきた私はそう提案する。


「まあ、こんな時間だし割と進んだから終わりにするか。」

「明日も暇だったりする?」

「午後からなら空いてるけど。」

「じゃあ、明日も教えて。」

「わかった。」


 気まずさはどこかへ行き、明日の約束まで自然にできるようになった。案ずるより産むが易し。そういうことなのだろう。

 心理的な距離は前までと何も変わっていない。物理的にはまだ少し、付き合っていた頃よりはさすがに離れているけれど、付き合う前くらいまでは全て戻ったようだ。


「稜也は夕食どうする?」

「あー、家で食べるって言ってきちゃった。」

「そうか。なら、またの機会に。」


 なんて誘いまで軽くできるくらいだ。

 やってみたらできるではないか。この調子でテストもどうにかなるのではないかと思えてくる。


「じゃあ、ここで。」


 駅前まで稜也を送り別れを告げる。

 空白の三ヶ月が嘘みたいだ。


 稜也が去って行った駅を見ながらそう考える頃には、明日、稜也に会うのが楽しみになっていた。

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