平成・三知子と達彦

時は下って平成。


「まぁたテレビカードが切れちゃったよお」


 あたしは病室のテレビの、ふっつりと電源の切れた画面をにらみつけた。秋の番組改編期。どうせ面白い番組番組やっていないのだけど、テレビ局のご近所マラソンは観たかった。


「しょうがない。明日ヘルパーさんに頼んで買ってもらわないと」


 私は三知子。斉藤久美子の娘だ。ただいま妊娠8カ月。 妊娠中毒症の為大学病院に入院している。

 安静レベルはベッド上安静。室内のお手洗いと洗面台以外は立って歩いてはいけない。病棟エレベーターホールにあるテレビカード券売機にも、売店にも行けない。お見舞いのお見送りもベッドの上でバイバイだ。おかげで会社には産休のだいぶ前から休職をさせてもらう事になった。


「なぁにがあたしは超安産だった、あんたはあたしに似ていない、よ」


 妊娠後期から腎機能がガクンと落ち、血圧が上がり、顔や四肢がむくむ症状が続いた。母に相談すると自分はあんたを生むときもお兄ちゃんを生んだ時も超安産だったから、あんたの妊娠中毒症なんてどこからきたのかさっぱりわからない。そう言われた。

 『私には非がない。私は悪くない』と保身を図っているのが見え見えのような気がしてむかついたから、入院中も状況説明や連絡はあまり取っていない。漫画や特撮のオタク夫はこのところ急に出張続きでなかなかお見舞いに来れない。子供大好きな夫はお腹の赤ちゃんとあたしを人一倍大事にしている。

 今夜も気を取り直して、中部地方の城下町に出張中の夫とスマホで話す。あたしの貴重な時間だ。


「容体は大丈夫よ。安定しているって」


「そうなんだ。よかった。無事臨月に近づいているからちょっと安心しているんだ。そこの大学病院だったら新生児医療も日本有数だから、万一母体の調子が悪くて未熟児として生まれても大丈夫、生きていけるんじゃないかって」


「うん。万一今生まれても高度医療を受ければ70%の確率で育つって。でもその設備は本当に緊急時に必要になる赤ちゃんのためにとっておいて、斉田さんは頑張って、赤ちゃんを正規出産予定日ぎりぎりまでお腹の中で育ててもらう。それがとても大事なんですよって」


「そうだよ。三知子には可哀想だけどそうやって君のおなかの中で時間を稼いでもらうのが一番。お土産買っていくから頑張って」


「でもお菓子とか地方の名物系とか食べられない……お母さんの遺伝の妊娠中毒症のおかげで」


 あたしはスマホの電話口でふくれた。いい加減飽きた。テレビも単調な入院&点滴生活も。妊娠初期の切迫流産からの入院を含めると、そろそろ半年になる。

 妊娠・入院生活が慣れた五カ月め過ぎに、子宮警官結索手術という子宮頸管を縫い縮めるという手術を受けた。

 普通はこれで日常の家事をこなせるくらいになるはずなのだが、赤ん坊が入っている子宮はじりじりと口が広がり、やっぱり出産予定日までと点滴とベッド上安静は続くのだ。


「スキンケア製品の秋の新作コフレがいいな。出来たらハナコの今週号に載っているエリザベス・アーデンのやつ」


「ああお風呂入りたい。ベッド上安静だからって全身を蒸しタオルで拭くだけなんて、そろそろ我慢の限界」


 そんな感じでいつもの愚痴が続き、ただでさえ疲れている夫には悪いなあと思いながら電話を切った。

 早く退院したい。早く産んでしまいたい。でも今の、おなかの中とあたしとの一体感も捨てがたい。うーん……


 ベッド起こしていた上半身をベッドに落とし、目をつぶろうと思ったら、個室の中に誰か入って来たのに気が付いた。

 真っ白い軍服姿の若い男だ。何だろう。ミリオタか? 迷い込んできた誰か他の妊婦さんのコスプレ旦那か?


「久美子、どうしたんだ? 病気か? 」


 白い服の男はあたしを『久美子』と呼んだ。それは母親の名前だ。母の名で久美子と呼ぶ勝手に部屋に入ってきた男性。犯罪者? でも不思議にあたしはちっとも怖くなかった。


「久美子じゃないとすると誰だ? 久美子の下にまだ妹ができたのか? 俺が江田島に行った時はあの子が一番末っ子だったんだが」


「お兄さん、苗字を言ってみて。もしかして斉藤? あたしは斉田なんだけど」


「じゃあ人違いなのか」


「病室のドアの所の名札、確認しなかったの? 」


「いや、俺は海の上を航行中交代で休憩をとっている間だった。気が付いたらこのドアを開けていたんだ」


「そしたらあたしがいた?」


「ああ。俺の妹の久美子だってすぐわかったよ」


 妹……ということは母のお兄さん? でもおじさん達は病死した上の長兄、長姉を除いて皆健在なはず。でも待てよ。たくさんいるから覚えきれない。一人一人が思い出せないよ。


「お兄さんの下の名前はなに? 聴いてもいい?」


「久美子じゃないするとあかの他人だろう。敵のスパイの可能性もある。現にお前の周りには英語表示が溢れているじゃないか」


 英語が怪しい……敵のスパイ……この人はまだ戦争中に生きているんだ。


「私は久美子の娘。三知子っていうの。斉田って家にお嫁に行ったから斉田三知子。おじさんは?」


「おや久美子の娘か。随分大きな娘ができたんだな。俺は斉藤達彦。海軍中尉だ」


 達彦…そういえば母の実家の古い仏壇の奥に、白い軍服を着た男前な兄さんの写真があった。母もおじおばも祖母も多く語りたがらなかったけれど、確か写真の裏に「達彦・帰省時に写す」と達筆な毛筆で書いてあった気が……


 達彦おじさん! どうしちゃったの。お盆だから出てきちゃったの?


「なんだ俺に姪っ子が出来て、こんなに大きくなっていたのか。いつの間にか下の兄妹の増えている家だったけど、ついに知らない姪っ子まで」


「そういう事じゃなくて、今はもうずっと年月が経っちゃってるんだよ、おじちゃんの活躍してた時代から」


 達彦おじは戦死したはずだ。南の海で大きな戦艦に載って作戦行動に参加して、爆撃を食らって船が沈み、死んだと祖母が言っていた。戻ってきた骨壺には基地の中で拾った石が入っていただけとも言っていた。


「おじちゃん、足はあるよね」


「失礼な。ちゃんとしっかりあるぞ」


 おじさんは怒ったふりをして白い歯を見せて笑い、どんどんと足を踏み鳴らした。

 ダメダメ、他の病室から苦情が来ちゃう。


「ありがと。でもおじちゃんはもう……」


 達彦おじちゃんはもうこの世にいないんだよ。他の大勢の仲間と一緒に死んだんだよ。そして戦争は終わって、日本は負けたんだよ。それも理解していない若い人たちはお子ちゃまが増えてるけど。

 あたしはどれから説明していいのか頭の中がぐるぐるした。珍しいお客さんに反応したのか、おなかの赤ん坊も手足をぐるぐる動かして大暴れをしている。その様子を達彦おじは嬉しそうに見ていた。


「子供はいいぞ。今は子供が一人でも多く必要なご時世だ。たくさん生んで元気に育てろ」


 そうだ。このおじちゃんの頭の中ではまだ戦争は続いているのだ。というかまだ戦争中の世界に居るのだ。彼に日本が負けたとか、アメリカに支配されたのち戦争を放棄したんだとか教え込むより大事なことがある。

 思い出した。お母さんは達彦兄ちゃんに会いたがっていた。一番可愛がってくれたお兄さん、世界で一番かっこいいお兄さん。もう一度会いたいと言っていた。


「達彦おじちゃん、色々説明したいことはあるけど、ちょっと待っててね。おじちゃんの言う久美子、私のお母さんに連絡とるから。お母さんに逢わせたいんだ」


 あたしは枕元のスマホをとった。母に連絡しなきゃ。おじちゃんがここに居てくれる間に。


「なんだそれは」


 達彦おじちゃんは珍しそうに覗き込んでくる。それはそうだ。おじちゃんの時代の電話がどういうものか知らないがこれとは全然違うだろう。


「ちっちゃい電話。久美子ちゃんに電話かけてるの」


「電話かあ。でも線も何も繋がっていないし、やけに小さいぞ」


 説明している暇はない。あたしは適当に、そうだね、全然違うでしょ、と受け答えをしながらスマホに集中した。呼び出し音が続く。お母さん出ないじゃん。呼び出し音は続く。もう、なんでこんな時に出ないの。いつもならワンコール瞬殺で出るのに。


「久美子を呼んでくれるのか?」


 おじちゃんは嬉しそうに笑った。笑顔が本当にかっこよくて爽やかで、こんな美中年が親戚に居たらフェイスブックで自慢しまくっただろうなあ。


「そのつもりなんだけど、久美子ちゃん出ないし。もう本当に! 」


 あたしは一旦あきらめて父に電話することにした。父はかけるとすぐに出た。


「もしもし久美子か?」


 なんという躾けられよう。誰からかかって来たか確認もせずに妻からだと思い込むとは。


「違うよお父さん。あたしだよ。三知子」


「なんだ三知子か。お母さんからのお迎え要請かと思ったよ」


 本当によく仕込まれている父だ。


「違うよ。お母さんに緊急の用事なんだけど何回かけても出ないんだよ」


「お母さんな、町内の公民館でぼけ知らず体操の会に行ってるわ。だから出られないんじゃないかな」


「ンもう、こんな時に」


 とはいえ父母にとっては通常の平日の日中だ。娘がなぜ焦っているのかなんて関係ない。


「お父さん、公民館に走ってって、大至急お母さんに、あたしに電話するように言って。もしくは大至急病院に来てって伝えて! 」


「なんだよ走って行けって。人使い粗い娘だな」


「人使い粗くていいから行って、お母さんに大至急よ!」


 おじちゃんが不思議そうな顔で電話をかける自分を見ていた。

 昭和19年? 20年? おじちゃんが船に乗ったというのだから多分その時代。その時代の人から見たら、父を怒鳴り母にイライラするあたしはどう映っているのだろう。その前に、小さな箱に向かって叫んでいるのはどう見えているのだろう。


「みちこちゃん、でいいのかな。僕はあまり時間がないのだけど」


 おじちゃんがちょっと残念そうにつぶやいた。そんな、すぐに成仏なんてしないでよ。まだ母に逢っていないでしょ。あたしはすっかり慌てた。


「そんなあ、もう少し待ってよ。すぐお母さん……久美子ちゃんと連絡つけるから」


 そうだ、自撮りだ。実はセルフィーを病室に持ってきてる。せめて達彦おじちゃんとの自撮りを残そう。


「おじちゃん、2人で写真を撮ろう。今準備するから」


「でも三知子ちゃん、写真機がないじゃないか」


「これよ。スマホ。このスマホをこうして取り付けて」


 あたしはセルフィーにスマホを取り付け、掲げた。


「笑って、おじちゃん。ほら撮るよー」


 奇妙な顔をしているおじちゃんを促し、あたしはにっこり笑ってみせた。

 ぱちり。

 爽やかに笑う、ぎこちなくピースをする軍服の達彦おじちゃんと、臨月の大きなおなかでベッドに起き直るピースのあたしという奇妙なツーショット。しかも70年の壁を越えたおじと姪だ。達彦おじちゃんは珍しそうに画面を見ていた。


「これは密偵の道具か何かになりそうだな。憲兵につかまらないよう気をつけろ」


「おじちゃん、今はそういう人はいないんだよ。警察はいるけど盗撮とかしない限り捕まらないんだよ」


「そうなのか。『今』がいつなのかわからないが」


 そろそろとちゃんと説明しないといけないのかな。この70年前に死んだ、でも自分が死ぬとは思っていない人に。


「あのねおじちゃん、実はね……」


 スマホの呼び出し音が鳴った。父からだ。


「あのな、お母さん電話に出られないんだよ。スマホを落っことしてバキバキに割っちゃってさ」


「何やってんのよお母さんったら。で、今どこに」


「お前が言うから俺が走って、公民館に来てるんだよ」


「分かった。お母さんに、そのお父さんのスマホに出るように言って ! 今すぐに!」


「無理だよ。今お母さん体操中だから呼び出せないよ」


「無理にでも呼んできて出して! 緊急事態なのよ! 」


「なんだ、お前もしかして陣痛始まったとか」


「違う! 今たっちゃんおじちゃんが来ているの! お母さんの大好きだったおじちゃんの幽霊が!ここにいるの。だから電話口にお母さん出して!」


「俺は死んでいないぞ。まあ遅かれ早かれ死ぬだろうが」


 幽霊呼ばわりされて達彦おじさんは苦笑した。


「ごめん、つい口が滑った」


 電話の向こうでは、分かったよ呼んでくるわ。怒るだろうけど俺は知らないからな、と父が呟き、体操を続けるおばちゃん達の集団に近づく音がしている。

 その間、病室の中を興味深げに歩き回る達彦おじに、あたしは質問を投げかけた。おじさんが『もう帰るよ』と言い出さないように。落ち着いてるふりをして。


「達彦おじちゃんはなんて言う船に乗っていたの?」


「それは重大な機密だ」


 機密なんて、じきに何の意味なくなるんだよ。あたしはそう言いかけてやめた。その仏頂面が母の久美子に似ていたのか、達彦おじは困ったように笑った。この人本当は軍人に向いていないんじゃないか。


「むさし、っていうんだよ。でもすぐに忘れてくれ。約束だ」


 戦艦武蔵っていうんだ。どっかで聞いたことがある。ミリオタの旦那なら一発でオーッと食いつくだろう。今は出張中で呼び出せないけど。


「俺はその甲板にいる。レイテ湾に向かって航行中で、当直士官の交代を待っている」


 レイテ湾。どこだろう。あとでスマホでググってみよう。


と、そのスマホから超絶不機嫌な声が流れてきた。ボケ防止体操の最中に呼び出された母だ。


「三知子、なんなの。陣痛が始まったの? せっかくみんなと体操していたのに」


「お母さん、あたしとの話はいいから達彦おじちゃんに代わるね」


 あたしはスマホをおじちゃんに渡した。

 おじちゃんは当惑し、困ってあたふたしているので、耳にあてて喋るの、と叫んだ。

 おじちゃんはあたしの見よう見まねでスマホを耳に当て、喋り出した。


「久美子か? 大きくなったな」


「誰?」


「達彦おじちゃんだよ、お母さん」


 母はからかわれていると勘違いしたらしく、声を荒げた。


「あんた病室に男引っ張り込んで何してるの? 旦那さんに悪いと思わないの?」


 母はあたしが間男と一緒に何か企んでいると思ったようだ。信頼無いなー。

 達彦おじちゃんも苦笑している。笑ったおじちゃんの顔かかっこよくてかわいい。母が未だに憧れ続けているわけだ。でも今はあんなに会いたがっていた達彦おじちゃんを電話の向こうから間男疑惑視している。

 仕方ないな、と達彦おじちゃんはとっておきの話題を出した


「久美子、小さい頃良子に髪の毛と一緒にちょん切られた耳たぶは、その後どうだ?ちゃんと治ったか? 」


 電話の向こうの母は一瞬で黙った。多分そのことは、夫や子供達にも知らせない、達彦おじとの秘密だったのだろう。何でそんなこと知ってるの? 三知子があんたにしゃべったの?


「だから達彦おじちゃんだって。幽霊になって、実体化してきてくれたんだよ」


「幽霊呼ばわりか……」


娘と男の会話に、母は次第に状況を飲み込んできたようだ。


「……もしかしたら本当に達彦兄ちゃん?」


「そうだよ、久美子。元気そうでよかった。声を聴いてお前の元気なことを確認したからそれだけで」


「今病院に走って行くから待ってて! 」


 急用ができたから帰ります、と母は慌てて体操を抜けている。スマホの向こうから状況が伝わってくる。


今そっちへ走って行くから待ってて、達彦兄ちゃん。


無理だ。船に偵察のアメリカ軍機が来た。俺は戻らなくちゃならない。


行かないで、達ちゃん兄ちゃん。もう少しだから。今走ってるから。病院が見えてきたから待ってて。


久美子、お前が幸せそうでよかった。ちゃんと結婚して子供もできて、孫も生まれるんじゃないか。お兄ちゃん安心した。


お兄ちゃん、今病院の裏口から入ったよ。エレベーターでそっちに昇って行くから。


じゃ、兄ちゃんはいくよ。


お兄ちゃん、エレベーターから降りたから。もう病室見えてるから待って。


またな久美子。いつになるかわからないけど。


「おじちゃん!」

「お兄ちゃん!」

 あたしが叫んだのと、お母さんが部屋に飛び込んできたのと同時だった。達彦おじに渡していたあたしのスマホは床に落ちて、バラバラに割れた。

 達彦おじさんは消えた。

母は一瞬だけ、白い服のおじが振り返って笑ってくれたのを見たような気がすると言った。

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