番外編 映画とデートとキャプテン・コージ 前編

 悍ましい形相を持った禍々しい怪人。人類を襲う異形の無法者が、街を襲い人々を蹂躙する。

 そこへ颯爽と駆けつけ、弱気を助け強きを挫くヒーローが現れる。彼らは怪人と同じ力を持ちながら、それを人々のために役立てる道を選んでいた。

 そんな英雄の力と勇気に怪人は倒され、街は平和を取り戻し人々は歓声を上げる。ヒーローは自分を賛美する民衆に手を振り、いずこかへと去って行く。


 ――それは、この世界ではさして珍しいことではない。以前ほどではないとはいえ、ニュータント犯罪が方々に蔓延る昨今、それに対抗し得るヒーローへの支持が高まるのは自明の理である。

 ヴィランの犯罪が凶悪であればあるほど、市民の感情は昂る。そしてそれゆえに、容赦なく彼らを打倒するヒーローへの賛辞が集まるのだ。


 例え、その戦いの余波で……怪人の侵略以上の人的被害が出ていたとしても。世はそれを、やむを得ない犠牲と片付け、封殺し、ヒーローの活躍ばかりを報じる。


「パパ、パパぁ!」

「大丈夫、大丈夫よ! 助かるから、お父さん助かるからね!」


 この日も、そうだった。瓦礫と火災が渦巻く戦場の渦中で、傷付いた父の体を抱く少年を、若いナースが懸命に励ましていた。


 すぐ近くでは、藍色のマッスルスーツを纏う正義のヒーロー「キャプテン・コージ」が戦っている。彼と対峙しているヴィランも強敵であり、一進一退の攻防が続いていた。

 いつ再び・・巻き込まれてもおかしくはない。だが、それでも豊かな胸を揺らす黒髪のナースは……少年の肩を抱いたまま、そこから動かなかった。

 傷付いた患者を置いて逃げるなど、絶対に許されない。そんなナースとしての信念が、彼女をここに押し留めているのだ。


「先生、橋野先生! ここです、この子のお父さんが!」

「……これは酷いな。藍若さん、この子を連れ出したら藤野さんと合流して、担架を持ってきてくれ。それまで、オレが応急処置をする」

「わかりました、お願いします!」


 やがて、黒髪を靡かせる白衣の美男子が、神妙な面持ちで駆け付けてくる。冷静な声色でナースに指示を出しつつ、彼は慣れた手つきで男性の体に処置を施していった。

 その様子を不安げに見守りながら、少年はナースに手を引かれて立ち去っていく。


「パパ……パパ、死んじゃうの……?」

「大丈夫だよ。絶対に、パパは大丈夫。橋野先生がついていらっしゃるんだから……ねっ?」


 今も近くでは、戦闘が続いている。それでも橋野と呼ばれた若い医師は、怯むことなく男性の処置を続行していた。

 その光景に、後ろ髪を引かれる思いを抱えながら。少年はナースに手を握られ、戦場から去り行くのだった。


「……絶対に、死なせやしない。希望の橋を、ここに架ける!」


 そんな彼らを、一瞥もせず。医師はただ真っ直ぐに、目の前で死に瀕している患者に向き合っていた。

 ――戦いの最中。自分を遠目に見つめる、紫紺のヒーローの眼には気づかないまま。


(……希望の、橋……)


 戦場の真ん中で治療に臨む、愚かな医師を見つめつつ。胸中に抱える、ある思いに頭を悩ませながら。

 正義のヒーローたるキャプテン・コージは、必殺の神極光ビームマグナムでヴィランの胸を撃ち抜いていく。その光景に、観衆は今日も黄色い歓声を上げるのだった。


 ――ヒーローのそばで繰り広げられている、エキストラの死闘には目もくれず。


(……)


 だが、ただ1人。観衆に含まれない、キャプテン・コージただ1人は、違っていた。センター分けに切り揃えた艶やかな茶髪を靡かせ、彼は蒼い瞳で土埃に塗れた医師を射抜く。

 その脳裏には――幼き日の思い出が、過っていた。


『パパ、パパぁあ!』

『ダメです先生……彼は、もう……』

『ヒーローが……希望が……なんてことだ……』


 キャプテン・コージ――間阿瀬浩司まあせこうじの父も、生前はヒーローだった。彼にとってそんな父は誇りであり、希望だった。


 だが、自分の目の前で父がニュータントに敗れ、死んだ日から。その全てが、失われた。

 自身もそのせいでいじめに遭い……力を憎み、また、固執するようになった。


 気づけば、自分は「ヒーロー」と呼ばれるに相応しい力と、地位を手にしていながら。正義を愛するヒーローだった父には程遠い、戦闘マシーンに成り下がっていた。

 ただニュータントを観衆の前で抹殺し、己の力を誇示することにばかり拘るようになった。特殊部隊「スターコンドル」と、その仲間ディセイバー達に惨敗したあの日からも、それは変わらない。

 自分は父のような、愛に溢れたヒーローになりたかったはずなのに。


 そして今日。自分の運命を変えた、あの日と同じ惨劇が……自分自身の手によって、再現されようとしていた。

 神極光の余波で建物が破壊され、その瓦礫の一部が、あの少年の父に直撃した。咄嗟に息子を庇った彼は意識を失い、今も生死の境を彷徨っている。

 そんな父に泣き縋る少年の姿は……在りし日の自分を見ているようだった。


 ――よくあることだ。悲劇とは、繰り返されるものなのだ。いちいち気にしていたら、キリがない。


 そう自分に言い聞かせ、気を取り直し、ヒーローとしてのパフォーマンスに集中するのは、容易いことのはずだった。


 父を救おうとした、あの医師の。「希望」という言葉を、耳にするまでは。


 ――なぜだ。


 そんな悲痛な叫びが、浩司の胸を貫いた。


 ――あの日。私の父は、助からなかった。誰も助けてくれなかった。


 悲劇の再現を阻み、あの父親の運命を変えようとしている、若き医師。その真っ直ぐな瞳が、浩司の胸を抉ったのだ。


 ――なぜ今なんだ。なぜ私の「希望」は救ってくれなかった。


 観衆に笑顔で手を振り、正義のヒーローとしての振る舞いを心掛けながら。浩司は、心の内で燻る自分の激情と懸命に戦っていた。

 あの少年に、自分と同じ苦しみを与えまいとする、あの若い医師へ募る苛立ち。その衝き上がるような嫉妬が、浩司の心を、より激しく乱していたのだ。


 ――だが、それは憎しみだけではない。彼は分かっていた。


 自分は危うく、無力な民を殺めるという……ヒーローとしては絶対に許されず、言い訳のしようもない罪を犯すところだった。

 全ての「希望」を失った自分に残された、ただ一つのアイデンティティさえ、失うところだった。自分自身でさえ、自分がヒーローであると認められなくなるところだった。


 いくら詭弁を並べ立てても誤魔化しきれない本心が、浩司の心を責め立て――そして、それゆえに。

 そんな運命を変えた、あの医師への想いが芽生えたのだ。


 だが、自分は神の代行人にして、神罰の執行人。神に代わって剣を振るう「キャプテン・コージ」。

 その自分が、一介の、何処の馬の骨とも知れない医師風情に、礼を言うなど……まして頭を下げるなど、絶対に許されない。


 そんな屈折した感情が渦巻いた果てに……彼は。無言のまま、ただひたすらに。

 医師の瞳を、見つめ続けることに決めたのであった。


 ◇


 城北大学付属病院は、基本的にいつも忙しい。ニュータント犯罪による被害者が多い……というのもあるのだが。

 あらゆる外傷を完璧に処置する天才外科医・橋野架という存在が、その多忙さに拍車をかけているのだ。


 超人的能力者であるニュータントの攻撃を生身の人間が浴びれば、当然、甚大な外傷が出来る。それを治療し患者を救うばかりか、傷跡も残さぬほどに処置できる医師など、世界的に見ても一握りしかいない。

 そんな腕を持つ医師が都内にいると聞けば、ニュータントに襲われた市民は藁にもすがる思いで詰め掛けてくる。結果、院内は架を頼る患者で溢れてしまい、彼1人に掛かる負担が凄まじいものになってしまったのだ。


 それほどの医師は大抵、高額の治療費を要求し一部の富裕層にしか取り合わない。だが架は、一般的な医師と変わらない条件で手術を引き受ける「天才の中の変わり者」であった。


 彼が藍若勇介に引き抜かれる形で、アメリカから日本へと異動する際。アメリカ側は天才的な医師を1人手放すことになるというのに、さして難色を示すことがなかった。

 ――ろくに金も取らず、安易に難しい手術を引き受ける架の存在は、「天才医師」の値打ちが下がると危惧した医学会の上層部にとっては、邪魔だったのである。


 結果として架はスムーズに日本へ渡ることが出来たのだが……そこで待っていたのは、年中無休に等しい激務の日々だったのだ。

 それでも常人離れした彼の体力を以てすれば、容易くこなせてしまうのだが……院長である藍若勇介が、そんな彼の力に甘え続けることを許さなかった。


 ――大火力による海上でのテロ行為を繰り返していた、凶悪なヴィラン「戦艦男」が、デーモンブリードによって倒された後。

 東京の裏社会で恐れられていた凄腕の海賊が、たった1人のヒーローに敗れたことにより、都内に潜んでいたヴィラン達は萎縮し――ニュータント犯罪はこの当時、僅かながら鎮静化の兆しを見せていた。

 その猛者を倒した張本人であるデーモンブリード本人が、東京まで足を運んでいたこともあり、都内も少しずつ安寧を取り戻しつつある。


 それを契機に、勇介は少しでも架が休めるよう、彼の勤務体制を見直すよう取りはからったのである。


 それから暫くした後。架はようやく、久々の休日を得ることが出来た。たった1日の休みだが、それでも一般人のように「日曜日に休める」というのは、架にとっては奇跡に等しい。


 ――が。彼が久々の休日を迎えられると知ったナースの1人……藤野凪沙は。架が何の予定もなく、1日を寝て過ごそうとしていたことを知るや否や――迅速に彼に詰め寄り、映画を観に行く約束を取り付けたのだった。

 その目的は、親友の恋路を応援するため……という建て前に隠されている。そう、全ては親友をイジるネタを手にするため。


 彼女は親友の藍若楓を呼び出すと……3人・・で映画を観に行くことに決めたのだった。


 ◇


(大丈夫かな……変じゃないかな……)


 ――日曜日の東京ほど、人々が激しく行き交う場所はないだろう。映画館前で、想い人と親友を待つ藍若楓は、都会の人混みを眺めながら……自分の容姿を気にかけていた。


 花柄のワンピースにベージュのカーディガン、という淑やかな服装に身を包む彼女は、その美貌もあって多くの人から注目を集めていた。

 艶やかな黒髪のショートヘアが、春風に撫でられ優雅に揺れる。そこから漂う甘い香りが、映画館に足を運ぶ男達を釘付けにしていた。


 だが何といっても重要なのは、ワンピースを下から押し上げるGカップの巨峰である。見ない男はいない。彼女連れの男ですら、食い入るような視線を注ぎ恋人に頬をつねられている。

 その気恥ずかしさから、彼女はそそくさと映画館前の端に逃げてしまう。……のだが、それでも彼女に振り返る男は後を絶たなかった。


「お待たせ、遅くなってごめん」

「せっ……先生!」

「へぇ、藍若さんの私服ってはじめて見るよ。よく似合ってる」

「あっ、ああ、ありがとうございますっ」


 やがて、いつの世にもいる軟派な若者達が、下卑た笑みを浮かべ彼女に近づこうとした――その時。

 待ち侘びた想い人の登場に、楓は頬を赤らめ至福に満ちた笑みを浮かべた。若者達は忌々しげに、彼女の笑顔を独占する青年を睨み付けた――のだが。


 180cmに迫る長身に、甘いマスク。艶やかな黒髪や、均整の取れた筋肉質な体つき。そんな要素を兼ね備えた美男子を前に、張り合う気すら失せたらしく……すごすごと退散して行った。

 他の通行人達は、絵に描いたような美男美女のカップルを目の当たりにして、さらに注目を注いでいる。今度は女性の客が、架に目を奪われ始めていた。

 架自身は赤と黒のスカジャン、という至ってラフな格好なのだが……その飾り気のなさが親しみやすさに繋がっているのか、周りの女性達はどう声を掛けようかとはしゃいでいる様子だ。


「せ、先生。そろそろいい時間ですし、入りましょうか?」

「ん? でもまだ藤野さんが来てないな」

「あっ……そうですね。もぉ、凪沙ったらどうしたのよっ……」


 その状況に、女の勘が警鐘を鳴らしていた。楓は普段からは想像もつかない強引さで架の手を取り、一足早く映画館に向かおうとする。だが、架自身はあくまで全員が揃うまで待つつもりのようだった。

 自身に対する女性達の視線に気づかない架に、楓は不安げな眼差しを送る。……すると、彼女の携帯が突然鳴り始めた。メールの着信を報せる音だ。


「あ、凪沙からだ……ふぁっ!?」

「どうした?」

「え、あ、えっと……きょ、今日は用事が出来て来れなくなったらしくって……」

「そうか……残念だったな。じゃあせっかく来たんだし、2人で行こうか」

「は、はい」


 そのメールの内容に素っ頓狂な声を上げた楓は、咄嗟に携帯を背に隠しながら事情を説明する。架はそんな彼女の様子を不思議がりながらも、特に詮索することもなく受け入れていた。

 苦笑交じりに歩み出す彼の後ろに続くように、楓は映画館に足を運ぶ。その手に握られた携帯には――


『ごめーん☆ 今日行けなくなっちったー☆ せっかくの橋野先生のお休みなんだしぃ、ここは「2人っきり」でイくとこまでイッちゃいな☆ んじゃねー☆』


 ――という、ふざけ果てたメールの文が映されていた。


 ◇


 凪沙が事前に用意していたチケットは、今話題の恋愛映画だった。テレビで何度も宣伝されていることもあり、楓も興味津々であった。


 ――が、これが架の好みであるかはわからない。そこが楓としては不安だったのだが、映画そのものが久しぶりである架にとっては、新鮮で興味深いものだったらしい。

 始まるや否や、隣の楓よりも見入っているようだった。――勇気を振り絞った彼女に手を握られても、全く気づかないほどに。


「最後のシーンは感動だったな……。余命僅かで、もう先にあるものは死しかないというのに、それでも今ある幸せのためにひた走る……か。いやぁ、いいもの見たよ」

「はいっ……私、もう何度も泣いちゃって……」

「休みをくれた院長にも、感謝しなきゃな」

「あははっ……じゃあ、私から伝えておきますね」


 感動の共有、という意味では、この映画館デートは大成功だったと言えるだろう。

 手を握っても気づいてすら貰えなかったことはさておき、自分も彼も楽しめる結果を得られたことに、楓は満足げな笑みを浮かべていた。


 このままカフェに行き、映画の感想で語り合う。そんな定番そのものな流れに乗り、2人は映画館の側にある「EAGLEイーグル CAFEカフェ」に足を運んだ。

 鷲をあしらったエンブレムが特徴のシアトル系カフェ。ノスタルジックな景観から人気が高く、今も映画を観た後の客で賑わっている。映画の余韻に浸りたい人にとっては、理想的な空間だろう。


 ――そこの列に並んだところで。2人は、思わぬ人物と遭遇した。


「え……もしかして、浅倉さん?」

「ん? ――おや、君達は」


 黒いノースリーブの服に、紺のタイトスカート。そんな大人びた服装に身を包む、黒髪ロングヘアの美女。白くすらりとした脚やハイヒールが、その美しさをさらに際立たせていた。

 極め付けは、楓すら凌ぐHカップの圧倒的巨峰。気の強そうな目付きもあってか、楓以上の注目を集めている彼女は――警視庁捜査一課に籍を置く刑事、浅倉茉莉奈であった。以前のニュータント事件をきっかけに、架や楓と知り合っていたのである。


「奇遇ですね。浅倉さんも映画に?」

「ん……ま、まぁそんなところだ」

「あれ、新見さんはご一緒じゃないんですか?」

「今日は完全なオフだからな。あいつもたまには休ませてやらんと。それより君達は……」


 茉莉奈は架と楓を交互に見遣ると、やがてニヤニヤと不敵な笑みを浮かべる。その表情から意図を察した楓は、顔を赤らめ目を伏せてしまった。


「……んふふ、そうかそうか。邪魔してすまなかったな」

「そ、その……あのぅ……」

「橋野先生。ここは男として、しっかりエスコートしてやれ。じゃあな」

「……? は、はぁ」


 ただ1人彼女達の意図を汲めず、小首を傾げている架に物申すと、茉莉奈はカプチーノを注がれたコップを手に立ち去っていく。その優美な線を描く背中を、架は不思議そうな表情で見送るのだった。


(……くっ! いいな、いいな!)


 ――その一方。架達に背を向け、去りゆく茉莉奈の表情は……凛々しい後ろ姿とは裏腹に、嫉妬と羨望にプルプルと震えている。


 幼い頃。ニュータント犯罪に立ち向かい殉職した父と同じ、警官の道を志して十数年。24歳を迎えた今も、茉莉奈は独り身であり続けていた。

 それどころか、ろくな恋愛経験すらないまま成人してしまい、年齢=彼氏いない歴を更新し続けている。彼女の履歴書はいつも、恋愛の欄だけが空白なのだ。


 「自分より弱い男には興味がない」。周囲にそう公言している通り、彼女は強い男性が好みであり――警視庁きってのエリートである彼女に言い寄る男性は、全員腕っ節で撃沈させてきた。

 その嗜好そのものは嘘ではない。だが、彼女にとってその条件は――理想の男性像の「最低条件」でしかないのである。


 彼女は、24歳という「いいトシ」でありながら――強く優しく、自分を守ってくれる「白馬の王子様」を夢見ているのだ。

 幼い頃から男所帯に囲まれて育ち、一見男勝りに成人した彼女だが……その脳内は、乙女そのものだったのである。

 見てくれこそ、大人びた女性ではあるのだが――家に帰れば、愛らしいぬいぐるみに囲まれたファンシーな自室が待っているのだ。


 生い立ちゆえに「女らしさ」を知らないまま育ったことで、却ってその趣向への憧れが強まった結果なのだが……彼女自身としては、決して漏れてはならないトップシークレットなのである。


(……やはり、期待するだけ無駄か。いやそもそも、もう一度会えるようなことが起きてはならないんだ。しっかりしろ、浅倉茉莉奈)


 そんな彼女にとって――「吸血夜会」との戦いの中で出逢った「謎の赤いヒーローキュアセイダー2号」の存在は、強く胸に響いたのである。


 市民の為に、女だてらに警察用パワードスーツを纏って立ち向かうも、何も出来ず敗れてしまった、あの戦い。何のために女を捨ててまで、と不甲斐ない自分を責めていた、あの時。

 ――赤い車エイドロンを駆り、彼は颯爽と現れた。


 あの瞬間に感じた、甘い胸の高鳴り。ときめき。それは、恋に疎く免疫もなかった女には、劇薬に等しい。


 立ちどころに彼女は「謎の赤いヒーロー」の虜になってしまい――アネモネ・ニュータントの事件が終息した今も、独自にその行方を追い続けていた。

 身近にいるがゆえに、そんな彼女の胸中に勘付いている新見刑事は、今も自宅のベッドでハンカチを噛んでいるのだが――彼女は知る由もない。


 彼に会いたい。だが、もう一度会える時が来るということは、またニュータントによる犯罪が起こるということを意味する。警官として、犯罪が起きることを願うなど言語道断。


 そんなジレンマに頭を悩ませる彼女は、横目でチラリと架達を見遣る。何かに縛られることもなく、自然に笑い合う彼らの姿を、茉莉奈は涙目になりながら見つめていた。


 いつか「例の彼キュアセイダー2号」と会える日のために、「デートの練習」として恋愛映画を「独り」で見に来ていた彼女は、架達を見つめながら拗ねた様子で、カプチーノに唇を当てている。


 ――取らぬ狸の皮算用、とはよく言ったものである。


 そう。彼女はまだ、気づいていないのだ。それほどまでに恋い焦がれた男が、その視線の先に映されている事実に。


 ◇


「あ、もうなくなっちゃった」

「オレが買って来るよ。さっきのと同じエスプレッソでいい?」

「えっ!? い、いえ、そんなの申し訳ないです……!」

「大丈夫大丈夫。それにさっき、浅倉さんに言われたばっかだしさ」

「……〜っ」


 ――その頃。架は空になった楓のコップを手に取り、席を外していた。茉莉奈の言葉を受け、紳士的であろうとする彼の台詞に、楓は顔を真っ赤にして俯いてしまう。


 そんな彼女を微笑ましく一瞥してから、架は空のコップを手にカウンターへ向かう。……その時。


「……む?」

「え……」


 彼は、さらに思いがけない人物との再会を果たしていた。黒スーツに袖を通した、端正な黒髪の青年が、架と目を合わせ足を止める。

 そして、彼と対面した架もまた、目を剥いて立ち尽くしていた。


「橋野先生……」

「か、神威さん……」


 ヴィラン対策室所属、神威了。彼との再会を果たした架は、なんともいえない表情を浮かべるのだった。

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