働かざるもの……  

foxhanger

第1話

「よろしくお願いします!」

 一般的な学校の教室よりもやや広いフロアに、二十人ほどのおそろいの作業服を着た男女が整列して、一斉に礼をした。片隅には、自在ぼうきやモップの柄が立てかけてある。その反対側には、いくつも蛇口が並んだ流しやモップのラーグやタオルを洗う洗濯機が置かれていた。

「今日は、自在ほうきの使い方から始めましょう。まず、持ち方はこうです」

 中年女性講師の説明に、いっせいにうなずく。

 列にはちらほら若者もいるが、多くは中高年だ。

 皆はここで、ビルの清掃人になるための職業訓練を受けているのだ。

 都立港南職業技術開発センターは、都心からもさほど遠くない埋立地に立地している。最寄りの駅から歩いて五分ほど。周囲にあるのは公園やタワーマンション、ショッピングセンター、高度成長期に作られた団地など。

 失業者や若年無業者ニートへ職業訓練を施し、再就職を促す施設として設立された経緯がある。

 この建物は、もともとは小学校として建てられたものだった。玄関にある礎石には「昭和五十五年三月竣工」とある。

 所謂「第二次ベビーブーム」で生まれた世代が成長して、小学校に通う子供が一番多かった時期だ。そして、この国が経験した最後のベビーブームである。

 進行する少子高齢化で児童の数は次第に減り、最盛期には一学年に四十五人の学級が六クラスあったが、五年前の閉校時には一クラスになっていたという。校庭や体育館が建っていた敷地は切り売りされ、公園やマンションになっていた。

 この校舎が新築された頃に通った世代が、今や高齢者になろうとしているのだ。

 今は、西暦二〇四〇年。

 かつては幼児が多く老人が少ないピラミッドの形をしていたこの国の人口分布図は、今やその逆、高齢者が多く年少者が少ない、頭でっかちのキノコのような形だ。

 六五歳以上の「高齢者」は人口の三分の一を越え、七五歳以上の、かつて「後期高齢者」と呼ばれた年代が、人口の四分の一を占めるようになった。

 戦後の第一次ベビーブームに生まれた、所謂「団塊の世代」は九十代になっていたが、未だに人口の一割近くを占めている。

 先日、ついに〇歳児の平均寿命が一〇〇歳を超えたことが発表された。

 社会には老人ばかりが多くなり、かつて「働き盛り」とされた人口は減る一方だ。しかし、今やそれは、問題にならなかった。

 講師はいちばん左の中年男に、声をかけた。

「じゃあ豊田さん、今説明されたこと、ちょっとやってみて」

「はい」

 豊田謙一は、この訓練センターに通う失業者である。

 ダスタークロスが装着されたモップを手に取り、見よう見まねで動かしてみる。

「ちょっと、ちがいますね」

 講師から、指摘の声が飛んだ。

「ダスタークロスは不織布に静電気を発生させて床の埃をくっつけます。ごしごしこすったり、掃き集めるものではありません」

「すいません、家でもやってなかったので」

「いいわけはいいです。隣のひとに代わって下さい」

「はい……」

 隣のひとにモップを渡した。

 床をきれいにしたあとは、水洗いだ。

「ポリッシャーの使い方は、こうです」

 ポリッシャーは床面を磨いたり洗ったりするための機械だ。モーターで作動し、床面と接触する回転部に、用途に応じてブラシやパッドを装着して使う。

 豊田の番が来た。

 豊田がグリップについているレバーを握ると、モーターが激しく回転した。

「あああっ!」

 モーターの勢いに引っ張られ、機械を思い切り壁にぶつけてしまった。

「すいません!」

「おいおい、ハーバード出ていて、ポリッシャーの使い方も知らないのか?」

「MBAにはポリッシャーの使い方は教わってないものな」

 生徒からヤジが飛んで、豊田はばつ悪く苦笑いするだけだった。


 豊田謙一がアメリカ東海岸にあるビジネススクールを修了し、MBA――経営学修士を授与されたとき、もうこれで今後の人生仕事が途絶えることはない、と思えた。

 資産家とまでは言えないが、ちょっとした余裕がある家に生まれて名門、帝王義塾に小学校から大学まで通い、外資系の証券会社に入ったときは、将来は約束されていたように思えた。しかし、その人生行路はいきなり修正を余儀なくされたのだ。

 入って三年目のことだった。海の向こうで、ゆるい条件で貸し出していた個人向けの住宅ローンが次々に焦げ付いた。豊田が勤務していた証券会社も、ずさんな融資をしていたつけが回って、破産したのだ。その破綻は世界的な金融危機を引き起こすことになる。

 このときは職を失ったが、路頭に迷ったわけではなかった。両親も健在だったし、貯金もあった。両親はいくつかの不動産を所有していて、不労所得もあった。

 いい機会だからと、留学を決行した。高額の学費や生活費は痛かったが、それを上回るものが返ってくることは間違いないと思えた。

 そして首尾よく帰国後「経営プランナー」という肩書きで、IT企業系列の金融会社に再就職に成功した。

 すべては順調だった。結婚もして、子供も出来た。東京湾岸に建ったタワーマンション、最上階の一室を買って、週末にはパーティーをした。

 子供を自分が出た幼稚園に入れたとき、またも社会の風向きが変わった。

 経営判断の分野にも、人工知能が進出してきたのだ。

 その前から、株取引はすべて人工知能が行っていた。人間ではついて行けない相場の変化に対応して、超高速で取引を行う。取引に人間の出る幕はないが、それでも会社経営に人間の関与する余地はある。とくに、経営の方向を判断することは人間の専権事項であった。

 しかし、人工知能のさらなる発達が、すべてを変えた。

 入社して十年目の夏、突然ニュースが飛び込んできた。

 会社は外資に買収されることになり、それに伴って無人化を徹底させることになった。

 買収先の企業グループは経営を全面的に人工知能に任せている。従業員は大幅に整理されてしまったのである。

 役員会の意思決定に基づく以外の経営判断はすべて、人工知能の判断によることになった。

 こうなると利益の還元先たる株主――法的な意味での「社員」――さえいれば、従業員は不要である。利益を生み出すシステムが有りさえすればいいのだ。そこに、「人間」は必要ない。

 もはや、会社には役員と、細々した仕事をこなすわずかな「従業員」が残るだけになってしまった。

 むろんその中で彼も、不要と判断された。

 豊田はその決定を、ネットに流れるニュースで知った。株価に影響を及ぼすようなニュースは、法的な意味での「社員」である株主が真っ先に知るべきもので、「従業員」はそのあと知ればいいことなのだ。それまでは極秘事項である。豊田はこの会社の株は持っていなかったのだ。

 その日のことはよく覚えている。

 朝、端末をチェックすると、社長室からのメールが入っていた。

「十一時に社長室に来るように」

(ついに来たか)

 うすうす感づいていたが、そのメールを見てから社長室を訪問するまでの記憶は、ない。

「かけたまえ」

 部屋の奥にある机の向こうには、このグループを創業した社長が、ソファーに腰を下ろしている。

 しかし、現実の彼は数十年も昔に亡くなっている。音声は合成だ。

「申し訳ないが、企業の事業構造を大幅に再構築することにした」

 再構築、英語のリストラクチュアリングの直訳である。事業の再構築を意味するこの言葉が、この国で「リストラ」と略されると、すなわち人員削減――クビという意味になった。

 もっとも、あからさまな行為はしない。段階的に社員を削減して、早く退社に手を挙げたものほど好条件を出す。

 それに、この会社に残ってもいいことはないのは、豊田自身わかりきっていた。

「わかってくれるやろね。これからの人生、きみならできると信じているよ」

「……はい」

 それだけだった。彼の目の前に出現した立体映像、その「サイン」の欄に光学ペンで署名して、退職手続きは終了した。


 人工知能がまだ開発の途上だったころ、人工知能やそれに制御されるロボットに奪われる仕事はもっぱら「単純労働」で、人間はもっと「知的」「創造的」で「対人的」な仕事に就けばいい、と言われてきた。

 しかし、そういった仕事こそ、人工知能に取って代わられる速度が速かったのだ。

 会社の意思決定が人工知能に任されるのが当たり前になり、政治や行政の分野にも進出をはじめている。

 ホワイトカラーの仕事は人工知能に取って代わられた。まもなく「銀行員」などという人種は、この世から一掃されるだろう。

 程なくして、前から関係がぎくしゃくしていた妻からは、離婚を言い渡された。莫大な慰謝料と養育費を請求され、マンションを売る羽目になった。

 そのため、殆ど無一文になってしまった。

 生活に必要な最低限の所得を国民全員に無条件で毎月支給する、ベーシックインカムの制度が始まってから、この種の大胆な財産分与が増えた。食いっぱぐれがないので、取られた側の生活の心配をすることがないからだ。

 しばらく前に、税制は大幅に改正された。所得税は一部の富裕層に限られ、その代わりに消費税率を大幅に上げることになったのだ。

 一見、「金持ち優遇」の施策に見えるが、ここには理由がある。

 所得税は前年の収入を元に課税額が決まる。その年の収入に、前年の収入を元に計算した税金がかかるのだ。この場合、年々収入が上がる状況のときは問題ないが、右肩下がりになったら、年とともに負担は重くなっていくのだ。

 じっさい、高齢化で年金生活者が大幅に増えている。所得税のシステムは煩雑になり、右肩下がりの税収に引き合わなくなった。

 年金支給額は増大の一途を辿った。さらに、生活保護の受給者も増えた。

 非正規雇用が続いたり、経済状態などで企業年金、国民年金に加入できなかった期間の長い高齢者や、産業構造の変化によって職にあぶれ、失職状態が長期化したものなど、保険料や年金掛け金を支払う能力のないひとびとが、国民の相当数に達した。

 この矛盾を解決するために、税制、社会保障制度が根本的に変革された。健康保険や年金、そして税金の源泉徴収を廃止し、すべてを間接税に一本化し、税率を大幅に上げる法案が成立した。

 消費には一律二五%の課税がなされ、所得税は高額所得者のみとなった。

 そして、最低限の所得保障として、ベーシックインカムが納税者番号を持つ国民全員に支払われるようになった。

 すべての国民に無条件で一定額を定期的に支給するベーシックインカムは「究極の社会保障」あるいは「究極のばらまき」と言われて、今世紀初頭から諸国で検討課題になったり、試験的に導入されたりしていたが、本格的な実現には様々な壁があった。

 それがこの国で実現したのは、ひとつに、非正規雇用の増加によって、国民年金や国民健康保険の未払い者が続出したことがある。非正規雇用者は源泉徴収されないことが多く、任意でも未加入、未払いのひとは多かった。低賃金で生活するのに手一杯で、そこまで余裕がないのだ。

 旧来の制度で救済されないひとは無視できない数になり、制度改革が行われた。例外措置や計算に伴う煩雑さを嫌い、シンプルな制度に一本化することにしたのだ。

 健康保険、年金などの社会保障費も消費税で賄い、源泉徴収や様々な控除措置は廃止された。

 厚生年金については、さしあたって掛け金の分は支払われるが、段階的にベーシックインカムに切り替わることになった。

 相続税や贈与税の増税もなされ、さらに新たに「人工知能税」が新設されたことも税収アップに大きい役割を果たした。

 人工知能によって人員削減された分を計算し、相当する人員に払う最低賃金の半額を納税することになった。「人頭税」の人工知能版である。

 人工知能税は、新たな税収の柱になった。

 源泉徴収の廃止により、この国における圧倒的多数である給与生活者は、天引きされない給料を額面通り受け取ることが出来るようになり、「手取り」の額が大幅にアップした。劇的に収入が上がったように見えた錯覚は、消費を少なからず活性化させた。

 今世紀初頭は経済理論として「トリクルダウン」が持て囃されていた。大木の梢に降った雨水が枝や葉を伝って根元にしたたり落ちるように、法人税を減税すれば企業が儲かり、その儲けが従業員に還元されたり設備投資などに回って経済を潤すだろうという「風が吹けば桶屋が儲かる」的論理である。しかし現実にはうまく機能せず、経済成長の停滞と巨大な格差社会をもたらした。

 ベーシックインカムはこの正反対の論理だ。無条件でとりあえず皆に配る。選別のためのコストは「無駄」として切り捨てるのだ。貧困層はもともと貯蓄に回る率が少ないし、定収が保証されるなら、将来の不安がなくなるため、消費が活性化される。木に水をあげるなら、その水を吸い上げている根元にかけるほうが効率的なのは道理である。

 消費の活性化に伴ってインフレーションが発生し、それは国の借金を目減りさせることにもなった。国債の価値は下落したが、信用不安は発生しなかった。

 皮肉にも、国家財政は劇的に好転したのだ。

 同じ頃、国際的な租税回避が問題になり、タックスヘイブンへの送金行為が規制されるようになった。捕捉率が上がったことで、税収も上がった。それに比例してベーシックインカムの支給額は次第に増額され、最低賃金を上回るようになったとき、雇用保険や障害者年金なども、ベーシックインカムに一本化されるようになった。「働かなくてもよい時代」が到来したのである。

 豊田は慰謝料の贈与税をべらぼうに取られ、亢進したインフレで預金も土地も資産価値が激減した。ほとんど裸一貫になった豊田は、それでも無為徒食を潔しとしなかった。

(働かざる者食うべからず。それはどんな時代でも変わらないはずだ)

 だが、ただでさえホワイトカラーの求人が皆無に近いこの時代、中年を過ぎた男に就職の口などない。ハローワークで職業訓練を受けることを勧められ、この訓練センターに通っている。


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