第21話:病理と衝突と残されたもの

 空調の音だけが響く静かな病室で、フィリップは錆びたパイプ椅子に膝を抱えて座っていた。いつもは煩わしい従者の声は聞こえない。目を瞑ればフラッシュバックする怯えを追い払うように、彼は何度も頭を揺すった。

 ベッドの上で天井を見つめている砂海が、不意に寝返りを打った。汚れた包帯が擦れ、真っ白なシーツを汚していく。


「なぁ、ラミア。店、そろそろ開けたらどうだ?」

「ダメね。人手が足りないわ……」

 ベッドの傍らで林檎を剥いていたラミアは、砂海の方を振り返らずに言葉を継ぐ。

「アンタは居ても居なくてもいいけど、トオルとシュウが出払ってるんだもん……」

「そうかよ。俺みたいな穀潰しは居ない方が楽だよなー……」

 砂海は爛れた腕を上げ、包帯に苦心しながら頭を掻こうとした。

「もう一週間も経つんだぞ? 毎日見舞いに来られると……色々あんだよ俺も!!」

「でも……」

「とりあえず休憩でもしてこいよ。下の喫茶店、まだ開いてただろ? ついでに敵状視察とかどうだ?」

「すごく余計なお世話だわ……!」


 ラミアは大きく背伸びをすると、柔らかなオフショルダーのニットを着た背中を翻し、病室を出ていった。


「おい、フィリップ……」


 続いて出ていこうとするフィリップを、砂海は小声で呼び止めた。フィリップは立ち止まり、ぼうっとベッドの方向を見つめる。

「案外、俺より深刻かもな。お前」

 砂海はベッドを起こしながら、その脇のローテーブルに置かれた林檎を掴み、小ぶりな球体を崩すようにかじった。溢れた蜜がシーツを濡らし、彼は袖でそれを拭う。

「今まで勝ち気になって遊び半分で狩りをしてたヤツが、自分が殺されそうになって病む? これだからお坊ちゃんは嫌なんだよ……」


 フィリップは何か言い返そうとしたが、言葉に詰まる。自身の逆鱗に触れる言葉が選ばれてはいるが、指摘自体は隠しようのない事実だ。


「あのな、そんなんじゃ俺が怪我し損じゃねぇか……! 悔しいんだろ? ムカつくんだろ? 殴りかかってこいよ、感情をぶつけてこいよ!! 日和ってんじゃねぇよ、怯えてんじゃねぇよ!!」


 砂海は煽るようにフィリップを叱咤すると、痛みに顔を歪ませる。


 フィリップは唇を噛み、砂海をただ睨みつけた。視界が歪み、歯をがちがちと震わせる。

「あぁあああ……!!」

 悔しい。フィリップは感情のはけ口を見失い、静かに項垂れた。


「勝てなかったから何だって言うんだよ? プライドを壊されたから何だって言うんだよ!? いいか、俺らは本気でやってるんだよ。身を焼かれようが、心を折られようが、しがみついてでも立たねぇとお互いの相棒に失礼だろ!?」


 一瞬の静寂が周囲を包んだ。古びて軋んだ音を立てるパイプ椅子を除けば、彼らの間に音を立てるものは無い。

「お前の願い、叶えられると思うか?」

 砂海はベッドの淵に腰掛けながら、フィリップの方を見ずにそう訊ねる。

「孤独は選択肢じゃない。選択しなかった者の末路だぞ?」


 フィリップは静かに声を漏らした。自分は確かに孤独を願い、過去を捨ててこの街にやって来た。だが、今ではどうか。従者のようにまとわりつく寄生生物に本音を語るようになり、身の上をぶつけた刑事を信頼しきっている。挙句の果てが、この馴れ合いのようなコミュニティだ。

 くだらない。自分をゴミのように扱ったあいつらを思い出せ。自分を都合のいい跡継ぎとしか思っていないザイロを思い出せ。世の中は悪意で満ちている。誰にも邪魔されることのない孤独が、自分がいま必要としている物だ。

 フィリップは歯を食いしばり、もう一度しっかりと砂海を睨みつけた。ベッドに座る砂海は悲しみを含んだ瞳を彼に向け、乾いた笑いを洩らす。

「乗る船くらいはちゃんと選べよ。あの薄情者にジジイみたいな懐の深さはねぇぞ?」

 砂海は手近に置かれた松葉杖を引き寄せ、サンダルに足を入れた。

「昔はアツい男だったんだがなぁ……」


 熱帯夜だ。砂海は無機質なベランダに出て、スウェットパンツに忍ばせた煙草に火をつけた。オレンジの仄かな炎が広い背中越しにちらつき、フィリップは遠くで輝く摩天楼の灯りを見失いかけた。

 満天の月が昇る空に、細く伸びる煙が挑むように延びる。やがて勢いを失い、混ざって溶けていくそれを眺めながら、砂海は肺に溜まった不安を吐き出すように深呼吸をした。


「なぁ、ボウズ。出ていった相方を迎えに行くんだが、ついて来るか?」

「えっ、その身体で……!?」

「バーカ。もう乗り遅れるのは嫌なんだよ。こんな擦り傷、今日中に仕事片付けて一週間くらい寝てたら治るしな……!」

 松葉杖にもたれながら、砂海は言った。包帯に覆われていない皮膚にはケロイド状の火傷跡が痛々しく残り、万全とは言えない状態だ。

 フィリップは押し黙り、喉の奥を突き破ろうとする怯えを口に出そうかどうか逡巡した。動かなければいけない事など解っている。ただ、一度感じた恐怖が抜けない棘のように彼の身体をじわじわと蝕むのだ。


 背後のビル群で爆発音がした。砂海は壁に掛けたライダースジャケットを羽織る。


「ラミア、聞いてるんだろ? シュウの救出行くぞ……!」


 わずかに開いたドアに砂海が声をかけると、廊下から押し殺したような笑い声が漏れた。


「コーヒー買ってきてよかったわ、深夜のドライブでしょ?」


 ラミアは欠伸を噛み殺し、電灯が消え始めた病棟を駆けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る