往く春を待つ

文月六日

第1話

 もう3月も終わりとなる北国の、白く舞うは桜の花弁ではなく冷たく柔い粉雪だった。全力で自転車を漕いで風を切れば剥き出しの頬は赤く痛む。緑のチェックが品の良いマフラーに口元を埋めて白い息を誤魔化した。手にはグローブをしているけれど帰ったら頬も手も霜焼けになってしまっているかも知れない。けれどそんな瑣末な事なんてどうだって良いのだ。大事なのは、そんな事ではなく。

 舗装が整っていない砂利の混じったコンクリートをひたすら走る。もう春なのに雪で粧したたんぽぽが風に揺られて笑っていた。それなりに主要な道であるのに人影はない。きっと皆この寒さに戸を閉めたのだろうと思う。民家を見やってまた走る。この畦道を終えて少し寂れた商店を抜けた先、早く、早く行かなければと気ばかりが急いでいた。

 昔から変わらない木造の赤い屋根が見えて漕ぐ足に力が入る。電車の音はまだ聞こえなくて、どうか少しでもこの雪で遅れて来てくれれば良いと身勝手な願いを呟いた。自転車は無人改札の脇に投げ捨てホームへと走る。


 「先輩!」


 狭いプラットホームの錆びたトタン屋根の下。赤い小さなキャリーバッグ1つだけを持って彼女は立っていた。

 ホーム上には薄く雪が積もっていて歩くたびにサクサクと音が鳴る。足の先にいる彼女は困ったように白い息を吐いた。


 「どうして来ちゃったの。」


 と言うかバレてたの。

 黙って旅立とうとしていた事だろう、華奢な指で柔らかい髪を耳に掛けながら少し怒った声で言った。

 彼女が自分に隠して町を出ようとしていた理由に心当たりはあった。寧ろそれが原因で関係が疎遠になってしまっていて、きちんと向き合うのは数ヶ月ぶりである。

 気不味さは手の中にあった。それでも離れる前にけじめをつけておきたかったのだ。ぐっと足に力を入れて、転ばないようもう一歩踏み出す。


 「先輩、俺は、」

 「…今更何の用かな。」


 薄い笑み。氷のような視線。突き刺さる声色にたじろがないと言えば嘘だった。

 今更、とはそれが彼女の本心なのだろう。悲しくなって泣きそうになる。それすらも何様だと言われてしまいそうだけれど。






 先輩と付き合い始めたのは二年前の夏の事だ。入学して直ぐ行われた文化祭で初めて会ったその日からずっと気になっていた。一目惚れだった。

 想い続けて、ようやく叶って付き合うようになって、それでこれからも一緒に居られるとそう思っていたのだ。学年が違うから彼女が先に卒業はしてしまうけれど。地元の大学に通って、先輩が先に入ったサークルに一年遅れで入って、就職し始めたら同棲しても良い。勤め先はそれぞれ違うかも知れないけれど、それでも近くにいれば助け合える。そう思い込んでいた。

 先輩が地元の大学へ行かずに東京の美大へ進むと聞いたのは昨年の秋だ。写真部の部長を勤めていた彼女がその道に興味を持っていたのは知っていた。カメラにも随分拘っていて、安くないそのパーツを買い揃えるために自分と会うのも惜しんでバイトに根を入れていた事もある。それでもまさか、その“趣味”の為に長く暮らしたこの地を離れるとは思っていなかったのだ。

 有名な写真家さんがね、教授をしてるのよ。そう言った彼女は嬉しそうに笑っていて、ここから、自分から離れる事がそんなにも喜ばしいのかと見当違いの怒りを覚えてしまったのが間違いだった。その日誕生日を迎えた自分にと渡された袋の中のマフラーがクシャリと音を立てて泣く。

 ずっと共に居られるものだと思っていた。だからこそ、今尚明るく輝いている彼女の夢は、まるで裏切りのように聞こえた。好きだったのは自分だけだったのかと。想っていたのは自分だけだったのかと。そんなこと、あるはずないのに。今考えればあまりにも浅はかだった。

 けれどその時の自分は激昂のままに口が動いていて、地元を自分を捨てるのかと彼女に詰め寄っていた。先輩は当然のようにそのような意図ではないと首を振っていたが、聞く耳を持たなかった自分に最後は申し訳なさそうに目を伏せるばかりであった。






 「今更と言われて当然です。先輩を失望させたのは紛れも無い事実で、その時から会わせる顔が無かったことも…、事実です。」


 思い返すと自分を殴りたくなる。あの後すぐに自責の念に苛まれ何度か連絡をとったが返信は無く、けれど直接会う勇気もないまま遂に卒業という日を迎えてしまったのだ。

 このままではいけない、と思った。思い立てば動くのは早かった。そして終礼の挨拶と共に先輩の元へ向かえば彼女の友人から今日町を出ると聞き、居ても立っても居られずにここまで走って来たのだ。ヒリヒリと痛む鼻頭はきっと苺のように真っ赤になっているだろう。いっそ、笑ってくれれば良いのに。

 先輩は赤いチェックのマフラーを口元まであげていてその表情を読み取るのは難しかった。相変わらず目線は冷たくて、もしやこの気候は自分が彼女を怒らせている為なのではと浅慮な頭を動かす。その瞳は氷のようで、けれど寒さに揺れてとても綺麗だった。

 

 「…謝りたかったんです、あの時の事。自分は、自分には先輩のようなしっかりとした夢は無かった。だからって否定して良いわけ無いのに、俺はそんな当たり前の事が理解出来ていなかった。結果、酷く先輩を傷付ける言葉を投げてしまった。」


 救いようない馬鹿な自分だ。きっと先輩は応援して欲しかったのだ。だから受験が本格的になる前に、俺に話を打ち明けたのだろう。それなのに将来の明確な計画がないからと、他人の、ましてや好きな人の夢を否定するなんて。

 今なら分かる、と思う。あの後必死で彼女が言っていた写真家や、そのプロへの道について調べたのだ。そしてそこから得るものも沢山あって、あぁ先輩が魅了されていた世界とはこんなにも美しいのかと、これを含めて全て先輩だったのだと胸が痛くなった。こんな素晴らしい世界を頭ごなしに否定して自分は今まで一体何を見ていたのかと羞恥すら感じた。

 だから、もう捨てる恥などない。もう一歩だけ足を踏み出した。


 「本当にすみませんでした。謝っても許される事じゃないと思うけど。先輩と離れた後にあなたが目指している世界のことを勉強して、初めて、知った事が多かった。もっと学びたい、そう思いました。」

 「……。」

 「正直に言えば、最初は先輩を追いかけたい。そんな邪な気持ちでした。でも、今はそうじゃない。純粋に、もっと専門的に触れていきたい。そして最終的にはそれを勉学として伝える立場に立ちたい。教員という資格を持ちたい、そう思えるようになりました。」


 全て先輩のおかげです。そう伝えた後すぐに大きく頭を下げた。いつの間にか積もっていた雪が傾いた頭上から落ちて足元に山を作った。寒さに痺れてきた指先は悴んでいて、けれどずっと立っていた先輩の方がもっと寒い筈だった。

 どうして、という声には当たり前に批難の色が滲んでいて顔を上げるのは憚られた。しかしその後ボタボタと涙の落ちる音がして、驚きのあまり目線を合わせる。大きな瞳は潤んで更にその輝きを強調していた。首元の赤いマフラーは少しだけ湿っていて、そのままだと冷えて風邪を引いてしまうのではと見当違いな心配が過った。


 「どうして、あの時そう言ってくれなかったの。」


 その言葉には色んな思いが込められている事が伝わってきて、やっぱり自分は馬鹿なのだと思う。もしあの時に一言でも先輩を応援する言葉をかけられたのなら。もし日頃から先輩の趣味へ理解を深めていたのなら。もし、もっと早くに直接謝っていたのなら。


 俺たちは変わっていたのだろうか。


 パァーッというクラクションが空気を切って、少し遅れた列車が駅へと到着した。乗っている人はまばらで、この駅からの乗車は先輩一人だけだった。目の前でドアが開く。東京へ向かう為の列車はこれが最終便だった。

 先輩は目尻に溜まった涙を拭いて、小さな赤いキャリーバッグを手に持った。タイヤが回るその音がいやに響いて、これからの日々がより一層寂しくなる事を連想させる。どうか行かないでほしい、とは言えなかった。もう自分は彼女の夢を応援すると決めていて、そして自身も描いた道に進むと決めたのだから。

 先輩、と最後を覚悟して声をかける。


 「もし、俺が来年の今。先輩と同じ東京へ行く事が決まったら、会ってくれますか。」

 

 電車には既に乗り込んだ彼女がゆっくりと振り向く。相変わらず口元はマフラーで隠れていて、瞳はさっき流した涙で濡れていた。ゆっくりと瞬きをして、長い睫毛がふるりと揺れた。

 返事は貰えないままドアは閉まった。けれどそのガラス窓にそっと白い手を乗せて、きっと何かを伝えたかったのだという事は分かった。もう、それだけで充分だった。

 ありがとう、聞こえないだろうけれど笑顔で伝える。悪足掻きかも知れないが、どうか旅路へは綺麗な思い出として持って行って欲しかった。

 電車は自分を残してゆっくりと進んで行く。速さに乗れば、その背中が小さくなるのもあっという間だ。見えなくなるまで、見えなくなっても、まだ視線を外せずに散らつく雪の中彼女を追いかける。

 ピロリン、と初期設定ままの間抜けな着信音が鳴った。電車はもう遥か先で、見えるのは彼方まで続く長い線路だけだった。何度も何度も目に焼き付けて、そうして漸く目を逸らしてポケットを探る。光った待ち受け画面を見れば先輩からで、赤くなった指先を駆使して急いで中を開いた。

 『待ってる。』

 たった一行だけだった。

 けれどその一言で充分だった。

 もう一度、既に視界からは遠く消えてしまった最終列車へと声を掛ける。


 「絶対、絶対会いに行きますから!」


 首元に巻いた、チェックのマフラーが風に揺られて返事をした。

 今はまだ会えないけれど。今はまだあちらの暮らしに花は添えられないけれど。必ず追いかけると約束したから。次に出会う時はお互いの夢を支え合える人になれるように。悲しみではなく鼻を少しだけ啜って、ゆっくりと町へ戻る改札をくぐった。

 早く次の春が来るといい。未だ桜も咲かぬ春ではあるけれど。

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往く春を待つ 文月六日 @hadsukimuika

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