1-15 精神退行

 「『絶対帰還』なんですよね!?」

 「負傷者の保護が先だ」

 ビル内全ての窓と扉にオートロックがかかった。ヘルマンの所有するGoogleの社員証というのは優れもので、緊急時(例えば、テロ組織が押し入ったとか)どこか適当な部屋の端末に社員証をかざせば、所有者を捕らえられたかわいそうな社員だと認識し、ご丁寧にオートロックを解除しドアを開けてくれるのだった。これは明らかに企業側の欠陥であり感情統制システムを信頼しすぎているが故の驕りだった。

 今回の計画を統括するヴィトゲンシュタイン夫妻はテロ組織全18人を車に乗り込ませ、目的地を環状線にある電気スタンドに設定した。2時間光学迷彩を維持していた車体は電池消耗が激しく発熱が規定値を越えようとしていた。高速道路じゅうに配置された赤外線センサーに引っかからないためにも街の中で電源を探す必要があった。

 車内に救護用の機器は一通り備えてあった。少なくとも切断面の消毒・止血、ちぎれた腕の瞬間冷凍ができる程度には。誰かが備え付けの消毒機を肉の露出した部分に当てると、アルコールの噴霧とともに埃っぽい血の匂いが広がる。

 「彼はあの”影”の連れにやられた。生体反応はまだ確認できるから安心しろ。位置情報の特定を急ぐがひどく撹乱されている」

 「俺が特定します」

 會田が名乗り出た。「俺がもう少し早く危険を知らせていれば」

 「君の責任ではない。統括する身である私の状況把握が甘かった。しかし今懺悔を続けているべきではない。ひとまず目的は達成した。今から本部へ戻る」

 「そんな!」

 慧理が抗議する。

 「先輩が捕まったんですよ」

 「青樹亥庵の居所がわかり次第救出に向かう。今は負傷者の救護が先だ」

 「先輩はあのビルの別館にいます!私にはわかるんです、もう一人の”影”と一緒に」

 「なぜそんなことが分かる?」

 「それは……」

 慧理はもどかしさに唇を噛むしかなかった。なぜなら自分でも理由がわからなかったからだ。本来ならあの得体の知れない乱入者は2人建物内に侵入していたのだが、戦闘当時慧理は1人のほうに神経を尖らせていて、もしかしたらそのせいで気づかなかったのかもしれない。とにかく今ははっきりと青樹を捕獲した奴の居場所がわかるのだが、証拠がない。

 窓の外をルシフェリンの光がクラゲのように青白く流れてゆく。東京には少しだけ、前時代の古風なネオンを据えつけた高層ビルが残っている。それらはときおり高速道路の横に赤や青にぎらつく頭を突き出す。流線と直線が人間工学に基づいて支配する街並みに、不恰好なビルが肩身も狭く企業名を主張する。PAに併設された大きな電気ステーションに到着すると、彼らは堂々と車から降り充電を始めた。スタンドにケーブルを繋ぐと『認証済み』マークがスクリーンに表示された。テロ組織のほうが電気スタンドよりも賢かったようだ。

 慧理はスナックでも買いに行くふりをしてこっそり車から降りた。コートを一撫ですると表面が波打ち、流行りの日本的なAラインスプリングコートに偽装が完了する。テロ組織が使用する軍備品はもともとドイツ連邦軍からくすねてきた改造品だが、より身を隠すことに特化したデザインがなされている。

 慧理はコートの内側に先程使用した45口径のオートマ銃をひっかけ、併設されたコンビニを1周したあと、高速道路の歩行者用レーンに向かって歩き出した。ここから青山支社までさほど離れてはいない。もと来た道を辿って走れば20分ほどで着くだろう。

 助けなきゃ……

 青山1丁目から三宅坂ジャンクションに続く都心環状線が奈落のように走っている。

 レーンに敷かれた動く歩道に足を踏み出した。

 突然、彼女の左手首を誰かが乱暴に掴んだ。彼女はあわててレーンから飛び退く。この手の感触は誰だか知っていた。

 「どこ行くんだよ」

 真宮が電気ステーションのアップライトを背に立っていた。暖かくて乾いた手だ。3時間前は安心させられた感触が今は疎ましい。

 「先輩を助けに行く」

 「駄目」

 「行きます」

 真宮は呆れたようにため息をつき、夜空を仰いだ。高速道路をひっきりなしに駆け抜ける電気自動車はみんな発熱していて、今朝気象庁が発表した35度の体感温度より蒸し暑く感じる。

 「ここ暑いだろ。帰るぞ」

 「先輩はこれでいいの」

 「命令だ」

 「関係ない」

 「あんたさっき、勝手な行動で命を落としかけたの、もう忘れたのかよ」

 「さっきは慣れてなかっただけ。次は違う。早く助けに行かなくちゃいけない!」

 「そんな都合の良い話があるか!」

 「一刻を争うんです!」

 「無茶だ!あっちの思う壺だ」

 「でも行かなくちゃ!先輩が死んじゃうかもしれない!私は銃を使える!私もう…!」

 パシッと鋭い熱さが頬を打った。

 経験したことのない衝撃だった。ぴりぴりと右頬が太陽に当たりすぎたみたいに痺れて、自然と涙が滲んでくる。しばらく顔を上げられなかった。

 叩かれたの?

 電気風が火照った頬をぬるくなでる。時間は二人を置き去りにして高速道路の熱風に変わる。ヘッドライトの軌跡が青白い直線を空に残して、消えて、また塗り替えられてゆく。

 「帰るぞ」

 真宮が手首を掴んだまま電気ステーションの方向へ歩き始めた。

 この力の強さには逆らえそうにない。慧理は彼とは無縁だと思いこんでいた感情を感じていた。それは恐怖だった。自分がどうしようもなく無力な存在に思え、真宮は彼女をいとも簡単に高速道路へ突き落とすことができるし、殴ることも歯を折ることもたやすいんだと思った。

 「2人がいなくなったら俺はどうすればいいんだよ……」

 真宮が何かつぶやいた気がしたが、対向車の駆動音に掻き消されて聞こえなかった。

 慧理と真宮を数百個の光源が照らしつける。どうにもならなかった。こうなったのも自分が弱いからだとしか思えなかった。

 「錠丹!慧理!それに充電しろ」

 缶詰を詰めるための箱が何個か放り出されていた……缶詰とは違った種類の鉄が中に入っているのは明白だったが。リーザに命令された真宮は、とっさに両手で箱の一つを持ち上げたが、

 (あ……)

 もう遅かった。振り向いたところで、彼女は空気の中に溶けてしまった。


 一度でもななかを引き止めていたら、結果は違っていたのではないか?自爆テロは本人の意思が最も重視されるから、彼女がやめたいと言ったら計画は変更されていたのではないか?ただ危害を加えるだけならロボットかドローンに突撃させるだけで事足りるし、日本を含め先進国の殆どのテロは遠隔操作で行われている。結局のところ、人間を使うのはインパクトを与えるためなのだ。

 私が過去のことを早く思い出していれば今よりいい未来が待っていたのだろうか。

 高速道路の出口が見える。全力で首都高を走った彼女はとっくに体力の限界を迎え、喉がすりきれてしまいそうだったが、歩くことはできなかった。選択は今この瞬間行われているのであり、間違った方を選べばまた大切なものを失うのだ。



 ……脳が割れそうに痛い。

 ひどい二日酔いのようだ。眠ってしまったのかもしれない。瞼が密着してひどく開けにくく、目の表面をぬるぬるしたものが覆っている。遠くから電子音が聞こえる。まだ思考が怠惰に、意識をなくそうとしている。今何時だろう?

 床がやけに白い。反射的に立ち上がろうとするが、膝が動かない。腕も同様にしっかりと固定されているようだ。歯医者の治療ユニットに似た座り心地だがどうやら快適なリクライニングは許されそうもない。手首が幅10cmほどの拘束具によってユニットに固定されており、ぼんやりした寝起きの意識の中で身動きが取れないことを悟る。後頭部の痛みが眼球にまで響く。閃輝暗点の数十分後に訪れる、頭の中を引っ掻くような痛みだ。

 「意識を取り戻しました」

 女の声。

 「頭は痛むかい?」

 男性の声がやけに大きく聞こえる。スピーカーから発されているらしい。

 この声、どこかで…

 「安心しなさい。危害は加えない」

 酔いが覚めた。ありがたいのはそれだけで、青樹は自身を取り巻く状況が全く望んでいない方向に進んでいることを確信した。厚い防弾ガラスの向こうには枯れ木のように痩せた男が立っている。大学の教壇でときおり、さりげない冗談を飛ばしていそうだ。

「てめえ……!」

 廉は授業開始直後に見せる温和な教師のような微笑みを向けた。

 「こちらの要求に答えてくれたらの話だが」

 

 後頭部の違和感は物理的なものだった。彼のつむじ数センチ後ろから首の付け根にかけて太い電極が派手に頭皮を貫き、怪獣の脊椎のように数本、その近辺に更に数本刺さっているのだった。電極とケーブルは注射のようなアウターシースによって保護され、いくつものコネクタを経て壁の大きな計測器に収束していた。身体のあちこちに白く丸いテープが貼られ、筋肉から流れる微量の電流をグラフにして記録する。心電図計測ケーブルが常に心拍数をモニタリングしている。僕が以前使ったのと同じ”嘘発見器”――Harsh Mistressではないか?もちろんアプリケーションは同じでも機器の精度は段違いだろう。

 「始めよう」

 スピーカーからくぐもった声が流れる。

 「ちょ、ちょっと待ってください」

 廉は何も言わず青樹を感情のこもらない目で一瞥した。このように命がかかっている状況ではなりふり構っていられない。今の状況は以前見た映画のワンシーンにそっくりだ。捕まるのは大体主人公格の重要人物で、スパイか何かの仕事をしていて、不屈の精神を持っている。彼らはそう簡単に口を割らないので、拷問直前にシーンが暗転するほどの壮絶な虐めを受ける。

 そんなのは絶対にごめんだ。

 なんとしてでも回避しなければ。

 「僕は本当に何も知らないんです。所属する組織の所在地すら知らされてない。だから僕の爪を剥いだところで何も有益な情報は出てきませんよ」

 「そんなことはわかっている」

 廉はメディアスクリーンを両手を広げ拡張した。そこには立川市三愛街病院の数百人ほどの入院患者リストが過去一ヶ月ぶん、顔写真が入り乱れモザイクのように表示されている。彼らは人が良さそうに笑みを浮かべている。年代はばらばらだが教育と国の政策・企業努力の結果人畜無害な顔つきを作ることに成功している。

 その中に一つだけ、目つきが冷たい女の子を見つけた。

 「虹彩の拡張が確認できました」

 「やはりこの子か」

 また崖内慧理と目が合った。彼女は無表情でこちらを見ている。癖っ毛を肩まで下ろし、黒目の比率が高い目をただカメラに向けている。18歳の彼女は今よりやや幼い。大人しそうな大学生だ。

 「誰ですか」

 嘘をつけないのはわかっていたが反射的に知らないふりをしてしまった。ここで彼女が出てくるとは思っていなかった。青樹は慧理に最初にあった日のことを思い出す——この子は誰だ?

 「ディスプレイに表示して0.74秒後、君の視線が3度彼女の眉間と胸の間を往復した」

 青樹は何も言えず押し黙る。

 「君たちどこまで行ってんの?」

 「ぶっ殺すぞ」

 「可哀想に」

 背後で電子音がしきりに何かを告げているが、何が行われているのか青樹には知らされない。どうせスクリーンが科学者たちの間を行き交い、ダイアグラムや僕の生体反応データがひっきりなしに更新されているのだろう。この部屋にいる人間の正確な人数は彼にはわからない。ガラスとメディアスクリーンと廉の表面に、ほのかに部屋の様子が反射されるだけだ。

 「君のような男はいつも後悔してばかりだろうな」

 「僕が後悔したことなど一度もない」

 「だといいがね」

 慧理がこの男を好いているということに、またもどかしい怒りが湧いてくる。彼じたいは大学教授など生徒から嫌われるのが仕事だと思っていたが、女子生徒にとっては、多分そうではないのだ。30年前、大学と専門学校が併合したことによって大学進学率は年平均93.5%にまで飛躍した。多くの大学は学問が占める割合を最小限にとどめ、就職に役立つ職業訓練の時間を大幅にとった。研究職、サービス業、マネジメント職しかり、つまらない歴史を学ぶことはあまり推奨されなかった。青樹の所属する東京蘭塾大は数少ない”旧来の”大学であり図書館もあれば知識を溜め込むことを目的とした授業もやっていた。国のお情けで残っているようなものだった。

 「彼女はまだ”女”ではないよ」

 しばし言葉の意味を熟考する。

 「……なんでそんなこと知ってる」

 「さあ、何故だろう?」

 「お前と崖内は関係を……」

 「もういい。声紋と言動パターンは登録できた。

 さて、青樹くん。カードはどこだ?」

 「は?」

 「一時登録物7-29B24を映せ」

 スクリーンに崖内慧理の私服や細身のネックレスと同時に古風な花柄模様の小さなカードが映し出された。

 才原ななかの遺したカードだ。

 「やはりカードに視線が向いたな。これはテロ当日の崖内慧理の所持品だ。吐瀉物でひどく汚れていたため病院側が一時的に預かった。その後君たちの手に渡ったはずだ。どこにある?情報の提供に協力するならば、今すぐ君を解放する」

 動悸が痛いほど身体じゅうに響いている。

 あれは触れてはいけないものだったのだ。

 数秒前まで、青樹は拷問を避けるためなら何でもすると心に決めていた。しかし事情が変わった。才原ななかによる件の告白は、僕が想像していた以上に恐ろしいものだったらしい。彼は"優越者"の存在を明かされたとき、単なる技術の進歩だとか、新しい発見だとか、そういった毎日のニュースフィードで提供される程度の情報だと考えていた。『ヒトに特異な疾患見つかる。自我の開放をどうのこうの……』だがその先は知らされないままビデオが途切れてしまったし、結局優越者とは何なのかあやふやになって終わってしまったのだった。ただ人間の中にそういう疾患があるということしか知らないのだ。

 それとも崖内慧理の過去が重要な機密事項だったのか?なんの変哲もない、ただの出身小学校と微笑ましいエピソードを聞かされただけではないか。

 それだけのことだ。この情報が、僕を拷問にかけるほどの重みを持つに値するのだろうか?

 「僕は彼女の私物など見たことがない」

 計測器の動作音がホワイトノイズを発している。科学者達は一言も言葉を交わさずにデータの送受信を続ける。青樹の生体反応データをミストレスが判断した結果、『"false"の確率は85%です』と女性の機械音声が無慈悲に告げた。

 「”才原ななか”君の知り合いだね?」

 「知らない」

 「才原ななかは生命操作研究所退職後、過激派テロ組織"Exit"に軍事機密を漏洩した疑いで防衛秘密の保護に関する訓令第26条に違反、指名手配されていた。被疑者死亡で不起訴となってしまったがね。我々としては彼女の遺物を一刻も早く回収する必要があるのだよ」

 「となると、お前らはGoogle等の企業ではなく国の連中ってわけか。だが僕は軍事機密など何も知らない」

 「カードの所持が問題なのだよ。保管場所はどこだ?」

 「僕はカードなど持っていない。それに、そんなに場所が知りたいんだったら僕の移動経路を徹底的に調べてみればいいじゃないか。都内のドローンが撮影した立体映像や駅の利用履歴、僕の言動、嗜好からいくらでも推測できるだろう」

 「鋭意捜査中だ」

 だが、それは限りなく困難を極めることを青樹は熟知していた。

 反体制派はデータ撹乱・隠蔽技術を第一に重視している。生死に関わる問題だからだ。彼らの抵抗は未だにドローンやGPSを騙し続けていた。

 それでもテロ組織が摘発されるのは、職員の幼少期の行動パターンを解析されて足がつくからだった。生まれがすでに反共同体派という人間は極めて少なく、多くの者は共同体の強制的な感情統制に反感を覚え、物心がついたころにテロ組織と出会う。それまでの期間に各種個人特定ができるデータはすでに出揃ってしまうのだった。テロ組織はデータの改竄に必死だ。逃げるテロ組織、摘発を急ぐ国のいたちごっこが白熱していた。

 青樹は出生後11年間海外にいたためそもそも幼少期のデータが日本に無い。情報の集積がほぼゼロに近く、彼の行動パターンを把握するのは非常に難しかった。

 国内で出生した真宮が捕まってたら危なかったかもしれない。あいつの出身は大阪の西成区だが、監視の目は行き届いているのだろうか?彼によると「無法地帯」とのことだったが……

 「君は情報提供する気がないということだね」

 「僕は何も知らない」

 背後で忙しそうに動き回っていた科学者たちがいつの間にか立ち止まっていた。左右には用途の分からない大きな機械がいくつも並んでいて、ときおりディスプレイが点滅したり、スイッチが勝手に上がったり下がったりする。ほとんど機械制御だろう。

 「そうか、よくわかった。あれを使うのは駄目なんだっけ?」

 「すみません、精神操作法で得たデータは公的な書類に記載できないのです」

 「お上は未だに精神医学を軽視しているというわけか。まあいい。始めろ」

 青樹の首元でぷしゅうと音がして機械臭い空気が吹き出た。背もたれが動き出し、前傾しだす。後頭部に刺さった電極が脳の表面を削るかのように小刻みに震える。絡み合ったコードが雨のように背もたれにぶつかる。地獄へのカウントダウンが始まったに違いなかった。

 「ま、待て、僕は本当に何も」

 「尋問は終了だ」

 電極の震えが大きくなる。次の瞬間には頭の中の痛みがふっと消え、インクが広がるように温かいものがふわりと脳内に充填された。とても心地よい。途端に青樹は何も考えたくなくなり、波に身をゆだねるように思考を手放した。

 「注入59%、拒否反応なし」

 「フェーズ2に移れ」

 初めて一人の科学者が青樹の目の前に現れた。眼鏡をかけた几帳面そうな黒髪の女性だった。シミ一つない防熱白衣から伸びた細い手が青樹の瞼を上下にひらく。しかし、彼はもう視神経がうまく機能する状態ではなかった。脳が焼けるように熱い。

 「問題なし」

 電流が走る。彼は思わず叫んでいた。首すじがびくびくと引きつる。3秒おきに、脳みそをカッターでぐちゃぐちゃに切り混ぜられるような痛みが襲う。人間が耐えられる痛みではない。『痛い』この言葉さえ青樹は思い出せなかった。今ここに銃があったなら、ためらいなくこめかみを撃ち抜いていただろう。拘束された両手が痙攣し、背中が激しく馬に乗っているように前後しようとするが、固定されているため虚しく抵抗するだけだった。手が血だらけになるまで爪先で手のひらを掻きむしっている。

 「私たちはね、精神汚染なんて野蛮なものは使わないんだよ」

 青樹の口から朝食べたものが溢れだす。慌てて別の科学者が出てきて、喉に詰まらせないようにノズルを引っ張ってきて吸引し始める。

 口の中に血の味が広がって、咳き込むと顔に血の飛沫が飛び散る。これが人間のやることか?いや、機械がやっているんだ。モラルの欠片もないアプリケーションが実行しているんだ。口から人間らしい尊厳まで吐き出してしまったような気がした。また喉がえづく。頭皮を切開してすべてナイフで取り出してしまいたい。瞳が脂っぽい煙に当たったときのようにぶよぶよに充血している。

 「”精神退行”君が口を割らないなら、直接脳から記憶を取り出すまでだ」

 また目の前がぼやけてゆく。耳鳴りが絶え間なく暴力的に大きくなる。世界に核が落ちたら、こんな感じなのかな?

 「これが終わったら、IT土方にでも転用してやろう」

 もはや彼には聞こえていなかった。生きている感覚がゆっくり消えていった。地上と地獄を結ぶ糸が一つ一つ切られてゆくように。

 最後の糸がぷっつりと切り落とされたとき、生体反応もまた終わりを告げた。

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