四十分の一冊
志乃原翔子から返信があったのは、翌日の午前十時頃のことだった。その日、非番だった僕は早朝まで起きていた。寝たのはだいたい四時過ぎ。起きたのは十時頃。メールの着信音に目覚めさせられたのだ。
なんでそんな遅くまで起きていたかと言えば、先輩の小説が読んでいたからだ。例の『海の中』だ。久高先輩曰く、「数々の本を食い、殺した結果の創造物」。昨夜、そんな「生きている本」について考えを巡らせた結果、僕の手は自然とその本に伸びていた。
久々にページを繰ると、僕は懐かしさと純粋な面白さで、夜通し読まざるを得なくなった。
そういうわけで、僕は眠い目をこすりながら返信を読んだのだ。
*
件名: Re:仁文堂書店の宮澤です。
ご連絡ありがとうございます。
「生きている本」については、正直なところわたし自身うまく説明できません。まずその定義自体を探しているといっても過言ではありません。曖昧な答えですみません。
宮澤さんがおっしゃる本ですが、ぜひ読んでみたいです。どのようなタイトルでしょうか? 宮澤さんの働いている書店さんに行けば買えますか?
*
しまった。
と、僕は返信を見てから思った。
昨晩、僕は半ば思いつきと衝動で彼女にメールを送った。しかし、先輩の小説はあくまで同人誌だ。それもろくに売上があったものでもない。先輩はたしか、多くても刷ったのは四十部だと言っていた。たかだか四十冊。とてもじゃないが一般書店に流通できるような部数ではない。しかももう先輩はサークルとして出展することもやめてしまったし、ウェブ上で公開などもしていない。オンラインでの通販もかつては手を出していたが、いまはもうやめてしまった。あのころの小説家・久高美咲はどこかに行ってしまったのだ。いまになって先輩の小説を手に入れようとしても、本人に頼み込むしかないだろう。
――ここにあるものを除けば、だが。
僕はまたすぐに志乃原翔子にメールした。文面は簡潔だった。眠い頭はそのまま、適当なフリック入力で送信した。
〈その本は一般に流通していません。僕の私物でもよろしければお貸ししますが。〉
それから僕はまた布団をかぶり、昼過ぎまで寝ることを選択した。
結局二度寝は二時間程度。またメールの着信音で目が覚めた。マナーモードにしていなかった僕が悪い。
起きてしまったものは仕方ない。僕は携帯片手にベッドを出ると、キッチンに行って鍋に火をかけた。
とりあえずパスタの一束でも茹でようと考えた。
熱を帯び始めた湯の中に塩をひとつまみ。それからパスタケースから目分量でひとつかみ。沸騰した鍋の中へ乾麺の花を開かせた。
アルデンテになるまでのあいだに僕はメールを眺めた。
〈ありがとうございます。それでは一度お会いしたほうがよろしいでしょうか。ご住所を教えていただければ、こちらから伺います。〉
――このボロアパートに来るっていうのか?
僕はすぐに片手間で入力、返信した。
〈いえ、こちらから伺います。もしくはどこか場所を指定していただければ、そちらにお届けにあがります。〉
とか何とか打っている間にパスタが茹であがった。
茹でた麺を素早くザルのなかへ。一方フライパンを火にかけ、オリーブオイルを敷く。ニンニク少々、サラミが数切れと鷹の爪少々。しばらくすると、熱せられた油にニンニクの香りが移り始めた。そこへパスタを入れて、炒めながらよく混ぜ合わせる。
カリカリに焼けたサラミとニンニク。彩りを添える鷹の爪。仕上がったペペロンチーノを皿に盛りつけると、僕はまた机に戻った。
テレビは昼過ぎの映画をやっていた。クオリティの低いB級映画だ。水の中を巨大なヘビがのたうち回っている。見ていると、早速女が食い殺された。胸の大きなブロンドの美人だった。たいがいこういう女が過剰演出とともに死んでいく。
絵の具を引っ散らかしたような出血を見ながら、僕はパスタをフォークに巻き付かせた。一口食べると、それが塩辛いと感じた。あまり美味な出来ではなかった。
そうと分かれば、手は自然とフォークを手放していた。代わりに手に取ったのはスマートフォンだった。一件の受信、志乃原翔子から。
〈せっかくお貸ししていただけるのですから、そんなお手を煩わせるわけにはいきません。宮澤さんのご都合のいい時間、場所を教えてください。こちらから伺います。〉
これではお節介の応酬だ。
志乃原翔子という少女は、どうやら相当な頭でっかちと分かった。というより、妙なところで強情というか。まじめすぎるというか。僕も僕でそうかもしれないが、少しばかり実直すぎるように思えた。
どうせ彼女は張り合ってくるのだ。なら、こちらから甘えてやろう。
〈わかりました。それでは今週の木曜か金曜の正午、あの公園でどうでしょうか。〉
二十分後、まずいパスタを食べ終えたころ返信が来た。
〈わかりました。それでは木曜日の正午、公園でお待ちしています。〉
*
木曜。その日は、前日から降り続いた豪雨の影響で、異常な暑さを記録していた。実は水曜日には久高先輩から呼び出しもあったのだが、あまりの豪雨に山手線が運休。逢引も中止になったほどだ。それぐらいひどい天気だった。
しかしそんな激しい雨は、翌日の朝ごろ徐々に失せていった。そしてその代わりに冷えた大地には季節はずれの熱風が吹き付け始めたのである。
彼女――志乃原翔子と待ち合わせていたのは、そんな異常気象の木曜日だった。まだ正午前だというのに、都内は三十度近い夏日になっていた。豪雨のあとの熱波は、コンクリートジャングルをあっという間にサウナに変えてしまった。
バイト先近くの児童公園。相変わらず子供はいなかった。木陰のベンチに座るのは、上着を脱いだ営業マン。パソコンを開いて、ハンカチで汗を拭っている。
そんな公園に、一人彩りを添えるような女性が立っていた。志乃原翔子。彼女は、今日もハイライト・ブルーのスカーフを首に巻いていた。真っ白いブラウスに、淡いハイライト・ブルーが冴えている。大きな木の陰の下、彼女だけは炎天下のなか涼しげだった。
「こんにちは。暑いですね」
僕を見つけるや、彼女はそう言って笑った。自然な笑みだった。何の作為もない、非常に自然な微笑み。
「どうも。まさかこんな暑くなるとは。どこか涼しいとこに行きましょうか?」
「そうですね。どこか、喫茶店とか」
けっきょく公園から駅前まで戻って、タリーズに腰を落ち着けることになった。注文は二人ともアイスコーヒーだった。
店内は猛暑に昼時ということもあって混み合っていた。一階席は全滅。しかたなく僕らは二階席にあがり、ノマドワーカーと喫煙席の合間に腰を下ろすことになった。
「それで、その、本なんですが。いったいどのようなものなのでしょうか」
「聞くよりも、実際に見ていただいたほうがいいと思います。こういうものなのですが――」
僕はコーヒーを一口飲んでから、先輩の小説を取り出した。
アクリル絵の具で塗りたくられた厚みのある乱雑な青。そしてその上に振りかけられた黄色――先輩の言葉を借りるなら、おしっこ。『海の中』は異質な雰囲気を帯びていた。
机上に置くと、志乃原さんは興味深そうにそれを見た。
「あの、手にとって見てもいいですか?」
「もちろん。読んでもらってかまいませんよ」
「では、失礼します」
そうして彼女は、まるで骨董に触れる鑑定士のように先輩の本を手に取った。新書版の艶なし仕上げのカバー。触れなくても分かる、ざらついた装丁。クリームキンマリ、薄い本紙……。その細部は、何かしらの暗示にあふれている。先輩が意図したにせよ、しなかったにせよ。
彼女がページを繰ったとき、僕はこの本が完成したときのことを思い出した。先輩ができた本を一冊僕にくれたときのことを。僕が初めてこの本を手に取り、ページをめくった、あの瞬間のことを。
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