邪悪を討て

ジェリコ砦はさながら火にかけられた鍋であった。剣戟の響き、叫喚、怒号、悲鳴、戦闘の喧騒に沸き、剣をもってぶつかり合う男たちの闘争の熱気の煮えたぎり、たちのぼる血臭の湯気の如くであった。

 傭兵たちとクリオ砦の将兵たちは、ジェリコ砦の兵を退却させたが、あれは戦いの序盤であった。グルザム一味が押し出してきて、戦況はまた一段、難しいものとなった。

 グルザム一味は、ヴァルム以外は全員が顔に邪紋を表したヴァルカンだった。ブレイヴの能力を備えた悪辣機敏な連中で、軍隊的な統制はないが、実戦で練ったしたたかな連携を見せる。またこれらに混じって、ヴァルムどもが更なる難敵としてあった。ヴァルムはブレイヴ体にはなれないが、元から人間の域を超えた身体能力を備えていて、下位のゴブリンどもは多少のろまだが、リザードマンあたりは、機動力でブレイヴファイターと遜色がない。なによりその打たれ強さ、回復力の高さが厄介で、かすり傷なら、戦っているあいだにふさがってしまうほどだ。

 グルザム一味はヴァルムどもを攻めの核として、その周辺にヴァルカンどもの展開して押してくる。これに対抗するのは・・・

 痛烈な斬撃がゴブリンを断った。頭頂部からへそ下まで切り下げる、さしものヴァルムにも即死を与える一刀であった。ゴブリンを切り捨てた志摩は、ストリームを噴かして戦場を翔け、獲物を見つけた鷹の如くリザードマンを急襲して、獅波新陰流の手練の太刀を浴びせる。

 クリオ砦の将兵、邪教徒といえども同じ人間であるヴァルカンには怯まずに当たるが、ヴァルムに対しては経験が乏しいせいか、ザコのゴブリンに対しても及び腰になりがちである。確かに、少々切られたり突かれたりしてもお構いなしに踏み込んでくる捨て身の戦いぶりは、初めてだと恐ろしく感じるものである。しかしこちらもブレイヴ体となり、防具に身を鎧い武器を備え、充分なる対抗力はあるのである。

 チームの面々は率先してヴァルムに当たってゆく。ゴブリンはともかくリザードマンは、まだ経験が浅くレベルも低いファルコやレオンにはキツイが、そう簡単に討ち取られるものではなく、捨て身で当たって前線を支える。しかし、補充はいくらでも利くというベイロードの言葉もまんざら嘘ではないようで、グルザム一味の数は予想以上だった。

 押されそうになるが、燕人一個、ストリームを駆って前線に飛び、ミスリル一文字の白銀熾烈にして血しぶき舞い、グルザム一味の戦列を崩す。志摩の疾風凄愴の戦いぶりが敵の勢いを挫き、クリオ勢の気勢もあがったその矢先、突如として兵士が血肉の塊と化して弾けとんだ。身の丈四メートルはありそうな巨人が、砦の建物の後ろから姿を現し、三メートルもある鉄棒を振り回す。トロールだった。鉄柱と呼んでもいいような鉄棒に当たると、人間の身体は卵の如く潰れ、今それは、血にどす黒く濡れているのであった。

 すぐさま討ち取りに行こうとした志摩だったが、乱刃に巻かれて即応出来ない。トロールが鉄棒を振ると、生臭さも強烈な血臭のたちのぼる。血反吐が撒かれ、肉がちぎれ、脳漿が飛び散る。グルザム一味はトロールの破壊力で一気にこちらの陣形を崩しにかかり、クリオ勢は大きく後退した。

 チッ、志摩は眼前の敵を斬り捨てるも舌打ちした。その時、砦の屋上を高く跳んだ人影が、巨人に頭上から襲い掛かり、肩のあたりに血しぶき上げさせた一突きはあいさつ代わり、着地と同時に隙無く身構え、トロールと対峙するのは屈強のスキンヘッド。

「バルドス兄貴」

 ファズがその名を叫ぶ。

「おう、待たせたな。デカ物退治は任せておけ」

 バルドスはいつもの陽気な声で応え、

「奥方は無事だ、既にレイウォル殿たちが、砦の外に連れ出しているはずだ」

 ライゼン隊長に向けて大声で知らせた。

「ありがたい、心より礼を申す」

「なんの」

 気安げに応じるバルドス。そこえトロールが鉄棒を打ち下ろす。あわやバルドスの五体も卵の如く砕けるかにみえて、巨漢はそつなく鉄棒を躱し、空振りした鉄棒がズズーンと大地を打つ。

「でかいわりにはせっかちな野郎だぜ」

 バルドスは山のようなトロールを睨み上げた。

「まずそうな男だが、食いではありそうだ」

 トロールは人の頭ぐらい呑み込めそうな口を開き、小石ぐらいの歯が、唾液に濡れて光っていた。

「あいにくだが、てめぇに食わせてやる爪の垢だってない。だが、絶妙と評判の我が槍の妙技は、そのぶよぶよの腹の皮が裂けるほどに馳走してやるぜ」

「潰れろ」

 振りあがった鉄棒が横薙ぎに来て、バルドスは跳び退いて躱す。

 トロールは象一頭分の骨肉をこねあげて作った不細工な人形のようで、比べれば六尺豊かな筋骨逞しいバルドスも、子供とレスラーぐらいの差があった。そのトロールが風を唸らせ振り回す鉄棒は、一撃岩をも砕く威力があり、人間の体などゼリー同然、手応えもなくグシャリである。しかし、当たらなければかゆくもない。既に鉄棒の動きを見切ったバルドスは、黒い鉄の旋風をスレスレに躱す。

 トロールは憤怒の形相となり、あたりかまわず鉄棒を振り回す。近くにいたヴァルカンたちが慌てて離れ、大上段から叩きつける渾身の一撃がついにバルドスを捉えたかに見えて、ビィィィィィン、重い鉄鳴りの響くことしばし、バルドスは槍で鉄棒を受け止めていた。なんというサイマッスル。

「トロールの一撃を受け止めやがった」

 グルザム一味からも驚嘆の声があがった。何より感情が鈍く、めったなことでは驚かぬトロールが、愚鈍な顔の目を丸くしていた。

「この前の奴もそうだったが、トロールにしちゃ非力じゃないのか。食っちゃ寝ばかりしてるだろう」

 バルドスは頭上に横たえた槍一本で、怪力の巨人が大地も割れよと打ち下ろした鉄棒を受け止めたまま、その愚鈍な顔に軽口を叩き、

「それじゃ、次はこっちの番だぜ」

 言い放ちざま、鉄棒を払い、エアを効かせた跳躍はさながら間歇泉の噴き出るがごとく、空中にその身を躍らせるバルドスの、渾身の槍がトロールの腹に炸裂する。単に突き刺すだけではない、トロールの鉄棒を受け止めるほどの、剛力のサイマッスルの波動もろともその腹にぶち込むのだ。トロールは砲弾を受けたように吹っ飛び、刺し傷はその腹を大きく穿って背骨にまで達していた。

 クリオ勢から歓声が上がり、反対にグルザム一味は、頼みのトロールを倒されて後退する。

「いつも、困ったときになんとかしてくれるのが、バルドスだな」

 志摩が傍らに来る。

「いつも、一番難いところを引き受けてくれるリーダーがあればこそ、俺たちも存分に働けるってもんです」

「うちのチームのツートップがそろったからには、もう怖いものナシだぜ」

 ファズが叫んで気勢をあげた。

 門の方で大きな音がして、砦の門が破られた。何事かと身構えたが、牛に曳かせた破城槌で門を破り、押し入ってきたのはウィランド男爵に率いられた一団だった。

「クリオ砦の方々、北ナタール郡の強者どもとともに、加勢に参りましたぞ」

 騎乗のウィランド男爵は旗幟を表明すると、ライゼン隊長のもとに馬を走らせ、すぐさま下馬した。

「遅れて相すまぬ。頭数をそろえるのと、道具立てに時間がかかった」

「いやいや、ご加勢感謝します」

 ライゼン隊長は礼を言った。

 ウィランド男爵が率いてきたのは、在野の武家である郷士たちで、年代物のアーマーに身を鎧い、武器も使い古した物だったが、野にあっても鍛錬を忘れぬ、皆それなりに戦える者たちであった。

「グルザム一味には恨みがあったが、私がベイロードらに加担していたこともあり、皆、手を出すのを我慢していたのだ。しかしその枷も外れ、一同、今日こそは悪党どもを葬り去る一念にて参りました」

「心強いことだ」

 ライゼン隊長は、ウィランド男爵と加勢の面々を頼もしく見た。ウィランド男爵に率いられた郷士たちは百人ほどであるか。これで戦力に不安はない。

「ウチのリベロはどうしてる」

 志摩の問いに、

「ジカルの野郎と遊んでいる」

 バルドスは答えた。

「・・・・」

「手伝うといったら、一人で仕留めるから、アンタはリーダーたちに合流しろなどとぬかしやがった」

 サブリナほどの戦士が一人でやると言い切ったからには、任せるしかない」

「じゃじゃ馬が、いよいよ手に負えなくなるぞ」

「なに、そうなったら俺たちがトップ下に入って、アイツにワントップ張らせりゃいいのさ」

「・・・・」

 返り血に汚れた頬もむずがゆげな志摩であったが、すぐに表情を改めて前を見据えた。

「突入しよう。ベイロードを捕らえ、グルザムなる者の居所を吐かせねばならぬ」

 クリオ勢は加勢を得て大いに士気が上がり、優勢に膨らむ一団の、口火を切ってサムライとバトルランサーの両雄飛び出し、敵陣に鋭く斬り込めば、遅れてなるかと全軍一斉に突進して、死闘の喧騒は、やがてジェリコ砦の本丸内部へとなだれ込むのであった。


 飛影は残像も霞み、奔る剣は音速に近い。

 ジェリコ砦の石壁の中の廊下を、部屋を、階段を、二つの影がさながら吹き込む暴風のごとく、駿足に駆け回り、剣光を戦わせる。

 一方は長身赤髪のヴァルム。リザードマンからの上位変成のザウルスで、その容貌はより人間に近いが、人間ののそれと比べて大き過ぎる両眼や耳元まで広がる口など、人外の異種の特徴は明らか、その凶名の隠れ無き、グルザム一味の凶竜ジカルである。

 そして今一方は褐色痩身、黒いシャツにミスリル編みの防刃ベストを重ね、さらに革のタンクトップ。下はジーンズにサンダル。武器は双剣。言わずと知れたチーム志摩の紅一点、ツインソードのサブリナである。

 ジカルはさすがにリザードマンと違う。ヴァルムの人の域を超えた体力をもって躍動する動きが、また一段と研ぎ澄まされたものとなり、天翔一刀流を源流とするトラキア流撃剣術にも冴えがあった。また、パワーは格段である。受けてもパワーで負けて押されると、次の剣の出が遅くなり、連打を浴びせられると受け一方となってしまう。

 ジカルの剣を、それもショートソードで受け止めて、サブリナが受け負けしないのはサイマッスルだけでない、シノビの体術を駆使して打ち込みの衝撃を緩和しているからである。剣を叩きつけた瞬間、じわりと吸収する感覚に、ジカルは、その大きな爬虫類の目を瞠目した。並の使い手に出来る芸当ではない。

 砦内を縦横に駆け回り、剣光華々しく生死を相争う二つの暴風が、どちらからともなく間合いを開き、十数メートルの距離を置いて向かい合う。

「思っていた以上に使う。さぞかしお前の脳ミソは美味かろう。食欲がそそられる」

 ニッと笑ったジカルの口から、先割れの舌が覗く。

「食えるものなら食ってみなよ」

 サブリナは、双剣を構えては一分の隙もなく、ジカルを挑発する。

「こっちはトカゲ上がりのクソ野郎など、煮ても焼いても食えたもんじゃないけど、息の根止めれば、レベルアップの肥やしぐらいにゃなるってもんさ」

「ハハハッ、てめぇの耳の穴に、舌をぶち込む瞬間は格別だろうぜ」

「フン、おく手野郎じゃあるまいし、うだうだ言ってないで、欲しけりゃさっさと取りに来な」

「そうするぜ」

 ジカルが跳んだ。十数メートルを一秒足らずで詰める駿足に、サブリナもエアを蹴ったが、その動き出しは十分の一秒弱遅れていた。少し右に流れて、ジカルの突進をいなすサブリナの頭上に、強烈な真っ向唐竹が落ちる。ズバッ、快断の響きを引いてすれ違い、また速やかに反転して向かい合う。腹から血を流しているのはジカルだった。サブリナは、わざと動き出しを遅くして相手の勢いを呼び込み、頭上からの痛烈な打ち込みをギリギリ躱しざま、懐を狙って一薙ぎ放ったのだ。しかし、動き出しがもう十分の一秒遅れていたら、サブリナが片腕失くしていたかもしれないし、逆に十分の一秒早過ぎたら、こちらの出方を読まれてしまい、リーチの長いジカルに、遠い間合いから打ち込む利を与えてしまう。ひとつの挙動の須臾のタイミングが、その後の展開に響き、ひいては生死を分ける。これはそんな戦いだった。

 ジカルの腹から盛大に流れていた血は、わりとすぐに止まった。出血は止まっても内臓はダメージを負っているはずだが、ジカルクラスの化け物が、それで死ぬことはない。だが、動きに多少の支障は出るかもしれない。

 両者はそのまま戦闘を継続して、ジカルの動きは変わらない。ダメージはあるはずだが、サブリナが有利を感じるほど響いていないのはさすがである。ジカルは籠手切りを仕掛けてきて、サブリナは左手のショートマグナムで払ったが、これは手首にジンときた。五月雨のような、立て続けの上段の打ち込みから、瞬時に剣を返しての横薙ぎ、脛切り、跳躍を利かせた頭上からの一撃。技に機動力を掛けて、目まぐるしいまでの剣を放ってくる。そして側面、背後へと回り込んでくる動きも気が抜けない。普通体、つまり常人の状態同士での戦闘ではあまり無いことだが、時に十メートルを半秒で詰めるぐらいのスピードに乗るブレイヴファイトでは、正面にいた敵が、弧を描く動きで側面から背後を取りに来ることがある。高速戦闘のブレイヴファイトならではの戦術で、うっかりしているとワンステップでバックを取られたりする。もちろんこれはお互いさまで、サブリナもジカルの背後を取りにゆくが、スルッと回り込むような動きは、元がトカゲみたいなリザードマンやその上位種のザウルスのほうに、わずかに利が有り、それでサブリナは、自分からは背後を取りにゆかず、後ろを取りに来るジカルの動きに合わせ、逆にそのバックを取りに出る。ジカルの巻き込みには大概の者がついてゆけないが、サブリナは駿足とシノビの体術の、卓越した身のこなしでジカルの背後に肉薄する。

 ブレイヴファイトはそのスピードに加え、高い機動力により動きの幅も広く変化も多彩、目配りすることも多く、瞬時の油断も許されぬ戦いなのである。

 縦横に駆け回って、火花はじける死闘を続ける二つの影。激しく剣を浴びせるジカルに対して、ショートソードのサブリナは間合いに付け込めず防戦一方となる。しかしそれでジカルが優勢かといえばそうでもなく、うっかり攻めの調子の裏を取られれば、双剣の手数炸裂を食らうこととなる。攻防に神経を使う白兵戦である。

 ジカルもサブリナも、もはや決着をみるしかない決死圏の、ギリギリ手前にあって、この際を越えるべき必勝の確信をつかめずにいた。しかし、勝利の確信がつかめずとも、刃を戦わせていれば高まる闘気に、いずれ決死の圏内に身を投じるしかない。と言って闘気を弱めれば、わずかでも弱気を見せれば即座に倒される、もはや決着に向かって進むしかない相克の刻であった。

 ふとジカルが見れば、サブリナの目がキラキラしていた。そこには怒りや憎しみ、敵意さえもなく、命を賭けねば得られぬ快感に、子供のように瞳を輝かせているのだ。

——こやつも修羅か——

 ジカルも笑った。もはや人間もヴァルムもない。必死の際で遊ぶ二匹の修羅があるだけだ。

「見せてもらうぜ」

 ジカルがバネを効かせた踏み込みとともに、その剣気を爆発させる。放つはトラキア流必殺剣北辰破軍。

 サブリナは即座に応じて双剣を立て、右手の刺突重視の鎧通しはぐっと前に出し、左手の截断専一のショートマグナムは少し後ろに振りかぶる。太鼓の奏者にも似た構えは、これぞ双剣術比翼撃心。比翼とはすなわち双剣。撃心とはひたすら撃つの心にて、身命鴻毛の軽きに置きて、双剣比翼と化して、決死圏を飛翔し去るの意なり。

 二つの影がぶつかり合い、剣光爆裂。須臾の間に賭けた命運は・・・・

 ぐふっ、剛力のヴァルムは、血を吐きよろめいた。彼の北辰破軍の剣は、双剣を比翼にして翔ぶ褐色痩身に、わずかに届かなかった。鉄壁をも断つ威力を秘めた豪剣の寸毫及ばず、サブリナのショートマグナムは、ジカルの頭部を頭頂部から顎下まで、縦一文字存分に断ち割った。

 見事、決死圏を飛び切って立つサブリナは、勝ち誇るでもなければ同情もない、いまだに一分の弛みもない冷徹なまなざしでジカルを見つめる。

 この一帯の武者どもが、その名を聞けば震え上がるほどに凶名轟くヴァルムも、頭部を断たれては致命的なはずだが、その血まみれの顔は笑っていた。

「楽しかったぜ」

「・・・・」

「てめぇとの丁々発止は・・ぐふっ」

 ジカルは血を吐いた。いかにヴァルムといえども、頭部は命の根幹である。

「久方ぶりのおもしろさだった。最後にしてやられたが、しかしこれしきのことでは、このジカル様はくたばりはせぬ。この命、見事取り切れるかな」

 ジカルは棒のように突っ立っている。人間ならば即死か、息があったとしても指一つ動かせぬところだ。しかしヴァルムは、そこを人間と同様に考えるのは危険だ。殊にジカルクラスとなれば、なにかこちらの予想だにしない奥の手があるかもしれないのだ。

「もちろん、手をつけたものは、最後まで片付ける主義よ」

 サブリナは躊躇なく突進して、ジカルは最後の力を放った。口から何かを吐き出して、空中でうねうねと身をくねる白っぽい回虫のようなソレは、瞬時に巨大化して一メートル以上もある蛭となってサブリナに襲い掛かった。

 いざというときのために、体内に飼っている共生生物。これを出すと身体の芯が抜けたようになって、しばらく身動きできなくなる。戦闘中には使えた代物でなく、窮地における最後の切札である。巨大蛭でサブリナを巻き取り、急速吸収すれば、もしかしたらこの場をしのげるかもしれない。最後まで、生への執念を捨てないのがヴァルムである。

 空中にのたうつ巨大蛭は、気の弱い女性なら失神してしまうほどの気色の悪さだ。だがサブリナは、若いが場数を踏んだ傭兵。顔をしかめもせずに右手の鎧通しを突き刺した。それは一見すると、彼女らしからぬ軽率な行為だった。この手の生き物は、一二か所刺したり切ったりしたぐらいで、すぐに死にはしない。むしろ急激な反応を呼び起こして、危険を引き寄せることになりかねないのだ。

 サブリナに刺された巨大蛭も、刺された瞬間、ぬたっとした全身が素早く反応して、サブリナに襲い掛かろうとしたのだ。だが直後、巨大蛭は風船が割れるように破裂して、その汚い肉片を四方に飛び散らせた。

 サブリナの鎧通しは単なる剣でなく、バーストの術式を組み込んだ、精密咒鍛造の業物である。突き刺すとともにブレイヴを流し込むと、鎧通しの中でブレイヴは術変換されて衝撃波を起こし、体内から破裂させる。人間相手には必要のない、過剰なまでの破壊力。サブリナの対ヴァルム用の切札である。

 ジカルは顔に蛭の肉片を浴びたが、この時すでに視力を失っていたので、なにが起きたのかわからなかった。しかし程なく、その身をもって体験することとなる。 サブリナは、、鎧通しをジカル

の胸に突き刺しざまブレイヴを叩きこんだ。ジカルの身体は四五メートルも吹っ飛び、心臓のあったあたりには大きな穴ができていた。

「もっと上まで行くつもりだったが、・・・フフッ・・・このていたらくでは、致し方なし」

 凶名を馳せたヴァルムも、苦笑とともに命を終えた。


夕陽に染まるケルト神殿は、なんともいえぬ静寂のたたずまいであったであった。人気のない神殿の、建物の影の伸びる石敷きの道を、エウレカ神に仕える者の僧服である茶色のローブをまとった人物の、一人歩いてゆく様は、絵画のように趣きのある情景だった。

「司祭様」

 ローラン司祭は呼び止める声に振り返ると、建物の陰から顔見知りの少女が出てきて、続いて現れた大刀を帯びた少年の姿を認めると、眉間にしわを寄せた。

「エレナ、来ていたのかね」

「・・・・」

 優し気な声の司祭に、エレナの表情は固く、警戒するかであった。

「どうしたね」

「とぼけるなよ、ヴァルカンの修道士とは呆れたぜ。てめぇもその仲間だろう」

 マユラがケンカ口調で問い質す。

「これ、罰当たりなことを言うでない」

「事実だぜ。罰ならヴァルカン野郎に当たって、自分が作った睡眠薬入りの紅茶を飲んで、ひっくり返っているけどな」

「馬鹿な、ここに邪教徒の入り込めるはずもないが」

「家族を返してください」

 訴えるようなエレナに続いて、

「グレッグさんもな」

 マユラがぞんざいに求める。

「返すも何も、君のご両親と弟さんとは、少し前まで食事をともにしていたのだよ」

「えっ」

「さる御方より多額の御寄進があってね。ご両親には日頃いろいろおせわになっているから、そのお礼にと、ささやかながら一席設けて招待したのだよ。残念ながら君は留守だったが、ご家族には心づくしの料理を食べてもらったよ。君が心配するといけないから、そろそろ失礼するとか言っておられたな。行き違いになったらいけむない。案内しよう」

 親切そうなローラン司祭にエレナは戸惑った。

「あの人もいっしょだよ。もっとも、彼には酒を勧めていないので、ずいぶんと物足りなさそうだったがね」

「・・・・」

「君たちの言う、ヴァルカンの修道士については私も調べる。そんなものが本当に当神殿に潜んでいたとなると、由々しきことだからね」

 ローラン司祭のたいどは、善良な老宗教者そのものに見えて、マユラも、この人は本当に何も知らないのかもしれないと、疑念がぐらついた。

「どうしたね、さあ、ついてきなさい」

 ローラン司祭にうながされて、マユラは歩き出そうとしたのだが、

「待って」

 エレナが止めた。

 彼女はじっと司祭を見つめた。

「私の顔に、なにかついているのかね」

 司祭はおどけてみせたが、エレナはまばたきもなく、脳裏には司祭の声を反芻する。

 エレナは生まれつき、人の声に対する鋭い感性を具えていた。物陰に隠れた友達が、誰の声かわからないように裏声を使ったり、タオルで口を覆って話す声を聞いて、それが誰の声か当てるという遊びをしたことがあった。巧みに声質を変えて、他の子たちがまるで当たらないという場合も、彼女はちゃんと声の主を当てることができた。生まれつきの才能だが、これまで、そんな大したものだと思ったことはなかった。だが、その生来の才能はいま、彼女に恐るべき真実を告げたのである。

「エレナ・・・」

 いぶかしみ、声を掛けるマユラに、

「この人が、私たちを襲った怪物よ」

「ええっ!」

 驚くマユラ。

「怪物とは何のことだね」

 ローラン司祭は、わけがわからないといった顔をした。

「とぼけないで。私はどんなに裏声を使ったり、声色を変えたりしても、それが誰の声なのか、ちゃんと聞き取れるの。あの怪物のおどろおどろしげな声の中に、聞き覚えのある響きがあって、それが誰の声なのかずっと考えていたけど、いまわかったわ、アナタの声よ。そして私があるときから、それまで大好きだったこの神殿に足が向かなくなって、自分でも不思議に思っていたけど、今、その理由を自覚したわ。司祭様の声が変わったからよ。でもその時は、それが何を意味するか深く考えなかった。だって、あのお優しかったローラン司祭様が、怪物にすり替わられているだなんて思いもしないから」

 エレナの目には涙がにじんでいた。彼女は、優しかったローラン司祭が、人知れずどのような最期を遂げたのか悟ったのだ。

「フフフフフッ」

 ローラン司祭、いや、司祭らなりすましていたところのグルザムが、その好々爺としていた化けの皮をかなぐりすてて、本性もあらわに、悪意韻々たる嘲笑を放った。

「てめぇ」

 マユラは形相も猛々しく、腰の刀に手をやる。

「楽しみは後に残しておく主義で、食うのを後回しにしていたが、先に片付けておくべきだったかな。だがまあ、この場で始末すればよいだけのこと、手違いというほどでもない。ただし、小僧はさっさと八つ裂きにするとしても、エレナ、おまえはじっくり味わって食らってやる」

 もう司祭の顔ではない。いや、人間の顔ですらない。蛇の眷族のような奇怪な爬虫類顔に、エレナは戦慄した。

「ほざきやがれ、このあいだは逃したが、今日こそその化け物首、刎ねてやるから覚悟しやがれ」

 マユラの剣幕を、グルザムは鼻で笑う。

「小僧、いい気になるな。このまえは油断して不覚をとったが、おのれごときのかなうグルザム様ではないわ」

「グルザムだと、きさまが悪の親玉か。それじゃあお師匠たちを出し抜いて、大将首はオレが頂きだぜ」

「その身を裂いてやらねば、分からぬようだな」

 グルザムのまとうローブが不気味にうごめき、布地を割って頭を出した蛇が、スルスルと胴体を伸ばして、魔法のロープのように宙に身をくねらせる。しかも前に戦った時には一匹だった蛇が、三匹も現れ、触手のように空中にくねくねと泳ぎながら、赤い舌をシュルシュル震わせているのだ。

「外で狩りをする時は、誰かに見られた時の用心に魔道の霧をまとうが、ここではその心配もない。そして、あの時眠っていた二匹もお目覚めだ。おまえの内臓を食ってやらねば気が済まぬとよ」

「カエルやネズミじゃあるまいし、蛇が二三匹増えたぐらいでビビるかって。こっちにだってこんなものがあるのだ」

 マユラは腰の刀を抜き放って、どうだとひけらかす。しかしグルザムから返ってきたのは、嘲笑であった。

「なんだそれは、ひどい錆刀ではないか。そんなものでは藁だって切れまい。この前の木刀のほうが、まだマシというものだ」

 たしかにマユラの刀は、赤錆だらけの、いわゆる赤鰯状態。錆のない部分も鉛色にくすんで、全体刃物という感じがしない。刀の形をした鉄くずと言って差し支えない代物だった。しかしマユラはは、この刀には英雄の霊力が宿っていると信じている。なにせあの大岩を破壊したのだ。まじまじ見ると惨憺たる様に不安にもなるが。いいやと疑念を振り払って、錆刀に身命を託す。

「笑っていられるのも、今のうちだぜ」

 ブレイヴを体になった。足下にストリームが形成され、二十センチ弱浮く。

「我が蛇の鱗は鋼よりも硬い。業物の剣でも刃が立たぬものを、その錆刀では、草の葉で針金を切ろうとするようなものであろう」

 グルザムは絶対勝者の確信を持っていた。二度も、少年相手に不覚をとるわけないし、その要素も見あたらない。

 マユラはブレイヴ体になったものの、ストリームは凪いだままにして、しばし空を踏みしめグルザムと向かい合う。空中に身をくねらせる蛇だが、鞭のしなるように速い動きをみせるのを、一度戦って知っている。しかも木刀を噛み砕いた、あの顎の力も脅威だ。あんなことを言ったが、一度に三匹相手するのは相当にキツイ。英雄の刀が期待通りの働きをしてくれないと、ヤバイことになりそうだった。

「絡めとって、口から蛇を入れて、内臓を食い散らしてやろう。想像を絶する苦痛だぞ」

「クソ食らえ」

 マユラは怒鳴り返し、直後、炎の矢がグルザムを射た。カムランの火炎系魔道による遠距離攻撃だ。飛来して来た炎はグルザムに命中したが、あっけなく消えてローブを焦がすほどもしていない。対魔防御力が高いのだ。そこえ、ストリームを噴かしたマユラが斬り掛かる。

「馬鹿が」

 グルザムは笑った。カムランの魔道攻撃と合わせての奇襲となるはずだったが、そちらがあっけなくはじかれて、マユラ一人の斬りかかりでは、グルザムの意表を突くことは出来ない。すぐさま蛇どもが襲い掛かり、絡めとってしまうはずだったが、次の瞬間、グルザムの予想もせぬ事が起こった。切り掛かるマユラに、蛇どもが、まるで伸ばしたゴムが縮むように、グルザムのローブの下へと、素早くその蛇体を引っ込めたのである。

「なにっ!」

 驚きながらも反応は速かった。すぐさま大きく後ろに跳んで、マユラの剣先を逃れる。その心に蛇どもの怯えが伝わってきた。

——馬鹿な——

 強者の剣もはじく鋼鱗をまとう蛇どもが、あんな小僧の振るう、ボロボロの剣を恐れるなど、考えられぬことであった。

——あれは、なんなのだ——

 グルザムは警戒の目で、マユラの手の錆刀を注視した。

——ここで仕留めるか——

 グルザムのジョブスタイルは魔道師であり、蛇が使えなくても、攻撃魔道でマユラを倒す自信はあった。だが、

 グルザムの体が更に大きく跳んだ。頭脳領域でブレイヴのエナジーを術記号に変換して術構築する魔道師は、エアやストリームを形成出来ず、移動能力は普通の人間と変わらない。しかし浮遊系の修得していたり、浮遊系の術効果のあるアイテムを装備していれば、エアやストリーム並の移動能力を、そう長い時間ではないのだが、発揮することができるのだ。

——小僧は手下どもに狩らせるか、それともアイツに始末させるか。いずれにしても、私が手を下すことはない——

 どんなに弱そうな相手でも、正体不明のうちは手を出さない。その用心深さが、化け物のようなこの男を、いままで生き延びさせてきたのだ。

 逃げるグルザムを、ストリームを噴かせて追おうとするマユラを、

「待てマユラ、追うな」

カムランが、走りながら大声で止めた。

「止めないでください。。アイツを仕留めるのです」

「エレナさんを、こんなところにほったらかしにしてか」

 その言葉にマユラも思いとどまり、やがてストリームを流して戻ってきた。

「我々はいま、一つのチームなのだ。それぞれが仲間のことを顧みなければ、チームは全滅するぞ」

 カムランは息せき切って走って来て、荒い息のままに言った。

「すみません。つい、頭に血が上ってしまって」

「化け物にも怯まぬ君の勇敢さは認めるが、一人前になるには、冷静になることも学ばねばならぬ。秋晴れの湖のような明晰さだ」

 カムランの言葉に、頭脳明晰タイプとは言い難いマユラだったが、しおらし気な態度であった。

「こっちに来ます」

 エレナが張り詰めた声で指さす方に、夕暮れの神殿を走ってくる四つの影があった。修道士の格好をしているが手には剣を持ち、恐らくヴァルカンであろう。

「任せろ」

 迎え撃とうとするマユラを、

「待ちたまえ」

 またしてもカムランが止めた。

「まともな実戦経験もないのに、いきなり四人も相手にするのは無茶だ」

「ても」

「わしとて魔道師の端くれでな、まあ、見ていなさい」

 カムラン魔道師は、奇妙な結び目のある組紐を首に掛けていて、その結び目の一つを握り、声は聞こえないが、何かを唱えるような念じるような表情となって、結び目が自然に解けた。カムランは開いた手のひらを前に出して、短くトリガーの呪文を唱える。手のひらから黄色の光が高く立ち上ったかと思うと、それは前方に放射状に広がり、空中で細かい網目を成し、逃れる隙間もなくヴァルカンどもの上に降った。四人のヴァルカンは光の網を被ると、体を震わせて地面に倒れた。

「すごいや」

「電撃系の範囲魔道だ。大した威力はないが、しばらくは麻痺して動けぬであろう」

「カムランさんて、すごい魔道師だったんですね、オイラ見直しました」

「アイテムの力だよ」

 カムランは、首にかけた組紐を持って示した。

「これは、術効果を封印した掛け紐だ。術を発動するには、術構築という手間が要るが、それを省いてクイック発動できる。威力は大したものではないが、術構築を省けるということは、速く発動できるだけでなく、構築中の波動を感知されないから不意打ちが利くのだ。司祭に化けていた化け物に使った火炎系の魔道もこのアイテムによるものだ。自分で術構築していたら恐らく察知されていただろう。もっとも、奴にはダメージを与えられなかったがな」

「でも、便利なものですね」

「ああ、だが、結び目もあと一つしかない」

「もっと用意しておいたら」

「値の張るものでな、そうもゆかぬのだ」

「それじゃあ、散財させちゃいましたね」

「こういうときのために、備えているものだ。ともかく、こんなところでグズグズしてはおれぬぞ」

「隠れる場所なら、私に任せてください」

 エレナが申し出る。

「司祭様、もちろんあの化け物ではなく本物のローラン司祭様が、私にだけ教えてくれた秘密の場所があります。きっとそこは連中に知られていないはずです」

 どうしたものかと、マユラはカムランと顔を見合わせる。出来ればエレナは一刻も早く、既に邪教徒どもの巣窟と化している、この神域の外に出したいのだが・・・

「私もチームの一員でしょ、一緒に戦うわ」

 エレナに、おとなしく逃げる気はなさそうだ。

「おっ、新手が来た」

 マユラは夕暮れ迫る中、こちらに向かってくる人影を認めた。

「ここはエレナさんに任せよう」

 カムランが言って、三人はエレナを先頭に走り出した。

 彼女はが案内したのは、神殿の中でも特に古そうなレンガ造りの建物だった。しかも入り口ではなく、ドアもなにもない古レンガの壁の前である。

「ここからどうやって入るの。窓一つないぜ」

「秘密の扉があるのよ。二人は誰かに見られていないか、周りを見ていて。

 マユラとカムランは周囲を見回した。暗くなりかけた神殿では、マユラたちを捜しているらしい人の動きがあったが、それらはまだこの近くには来てなくて、夕やみに目を凝らしても、こちらを見とがめている者はないようだ。

 エレナは壁を手探りして、目的のレンガを指先の感覚で探し当てると、何かを囁いた。それはマユラの聞いたことのない言葉で、不思議な呪文のように思えたのだが、カムランには古ルーン語の、神を讃える詩編の一節だと分かった。

 壁の中でなにかの作動するような音がして、なんの変哲もなさそうだったレンガの壁が左右に分かれて、秘密の入り口が現れた。

「こいつは驚いた、エレナ、キミも魔道師だったの」

 心底恐れ入ったる様子のマユラに、

「違うわよ、鍵の言葉を教えてもらっていただけよ」

 魔道師だなんて滅相もないと、エレナは手を振って否定する。

「こんなところに、魔道建築の、隠し扉があるとはな」

 カムランは感じ入った様子で、壁に開いた入口を眺める。

「悪者に見られたらまずいわ。急いで入りましょう」

 三人が入ると秘密の入り口は閉じて、もとの古レンガの壁となり、少し後にヴァルカンどもがたいまつを手にやってきたが、そこにそんな仕掛けがあるなど、気づけるはずもないのであった。

 秘密の入り口が閉じると真っ暗になったが、すぐに青白い光が灯った。

「なにっ!」

 驚くマユラに、

「ルミナスペンダント、魔道の仕掛け照明だ」

 カムランが教えた。

「そう、でもこれは、長くもたないから」

 短い通路の先に部屋があって、エレナは勝手の分かった様子で、吊り下げられていたランプに、備え付けのマッチで明かりを点した。

「百年ぐらい前に、事情があって帝都から逃れてこられた高貴な方を、かくまうために造られたと、ローラン司祭様が教えてくださったわ」

 もう長いこと使われてなかいようで、家具はほこりをかぶっていたが、机や椅子など、高貴な人の使用に供するために用意されたものらしく、マホガニーの高級な物であった。

「建物の中に入ってこられたら、気づかれやしないの」

「大丈夫よ。ここは隠し部屋になっていて、ここにこんな一間があるとは気づきにくい間取りになっているの」

 話しているうちにも、建物にどやどやと人の入ってきた物音がして、三人が静かにしていると、あちこち捜しまわっている様子だったが、それもやがて潮が引くように遠ざかり、あとは物音ひとつない静けさが戻ってきた。

「どうやら、ここに隠れていれば、当分安全のようだな」

 ほこりを払ってソファーに腰かけたカムランが、しばしくつろぐかの様子であった。

「エレナの家族がつかまっているんですよ。グレッグさんも。のんびりしてられませんよ」

「今は、連中も血まなこになって、われらを捜している。出ていくのは危険だ。そのうち連中も捜し尽くして、動きも落ちてくる。逆にこちらが動き回れる隙が大きくなるということだ」

「でも」

「ここにはこの三人しかいない。なかんずく、直接戦闘能力を備えているのはキミだけだ。志摩さんもバルドスもサブリナも、他の仲間たちも一人としていない。このわずかな戦力で事を成し遂げるには、なにより慎重であらねばならぬ。焦れば敵の思うつぼだ」

「私もカムランさんの意見に賛成だわ。私たちが捕まればもう望みはないもの。今は、絶対に慎重であるべきよ」

 本当はエレナこそ、家族を助けに飛び出したいはずだ。彼女の心情を思うとやるせないながらも、マユラも腹を据えてそばにあった木箱にここドカッと腰を下ろした。

「なんか、腹が減ってきたな」

「ごめんなさい、食べ物は置いてないの」

「気にしなくていいよ。一日二日、なにも食べなくたってヘッチャラだから」

 カムランは、古い革のショルダーバッグをいつもたすきに掛けていたのだが、今日もそれはあって、バッグを開けて、薄っぺらい何かを取り出した。それを手で裂いて三人で分ける。

「ジャーキーですか」

 エレナはランプの明かりの下、見慣れぬ干物に目を丸くする。

「マユラはわかるよな」

「スルメじゃん。でもなんでオイラが知ってるって?」

「おぬしは黄色人種の中でも、ヤマト系の者だと思ったからさ。スルメはヤマト系の好物だ」

「ヤマトとかよくわかんないけどさ、でも、確かにオヤジは、スルメで一杯やるのが好きだったな」

 マユラはスルメに噛り付いた。

「うめぇ」

 固く歯ごたえのあるスルメイカを、ガムみたいに噛んで食べる。

「イカの干物だよ。携帯用の非常食になるが、なにより酒の肴にもってこいだ」

 カムランは、未だ戸惑い顔のエレナに教えてやりながら、スルメを齧る。酒のないのが物足りなげな顔であった。

 エレナは、初めて見るスルメに、匂いを嗅いでみた。

「この香りはなにかしら」

「海の匂いじゃよ」

 スルメを噛りながら、カムランが答えた。

「海は見たことあるかね」

「いいえ」

「僕もないぜ。写真でならあるけど」

「内陸の人には、なかなか海を見る機会はないかもしれぬな」

 このあたりの人間が海を見るには、片道五六日程度の旅が必要となる。

「平たく青い水平線のどこまでも続いている、大陸を呑み込むほどに大きな湖」

 エレナはスルメを鼻先に、その微かな潮の匂いに、想像の翼を羽ばたかせる。

「大陸よりは小さいだろう」

 マユラが異を唱える。

「でも、教科書には、大陸より大きいと書いてあったわ」

「エレナさんの言う通りだよ。とにかく二人とも、いつか海を見るといい。いや、見るべきだな」

 カムランの言葉に、二人も一瞬この場の状況も忘れ、青く広大な海原を思い描く。エレナもスルメを食べた。ブツブツのあるゲソの部分だったが、ほんのりとした塩味の、噛むほどににじみ出てくるような食感が好きになりそうであった。

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