第8話 邪悪なる影
開け放たれた窓から、ときおりさわやかな風が吹き込む。ここはクリオ砦の会議室であった。しかしテーブルを囲む人々の雰囲気は、憮然として重苦しさもあり、とても爽やかとはいいかねる。
クリオ砦では、レイウォルからエルゼンの町での出来事の報告を受け、すぐさま会議が開かれた。主座にライゼン隊長が着き、左右に傭兵たちと砦の幹部たちが向かい合って居流れる。傭兵の側の端にマユラがいるのは、既にウィランド男爵よりおおよその事情を聞いているので、いまさら秘密にしても仕方がないということだ。
「あのジカルを退けるとは、やはり私の目に狂いはなかった。志摩殿、あなたは当代一流の使い手だ」
ライゼン隊長は、まず志摩の武勇を讃えた。
「当代一流は大げさだ」
志摩ははにかむでもなくタバコに火を付け、一筋淡い緑の煙をくゆらす。
「仕留め損ねたのは残念だが、ジカルも驚くほどの化け物じゃない。次に遭った時には、きっちり首を落とす」
「そいつとは、俺がやりたかったぜ」
となりでバルドスが、悔しげにほぞを噛む。
「まことに志摩殿の武勇は頼もしい限りですが、しかし、まさかベイロード殿がグルザム一味に与していたとは信じられません。我らにとってジェリコ砦が敵の側にあることは、大きな脅威です」
砦を預かる身にありながら、賊徒に与して、国禁であるダークネス交易に加担していたという事実に、クリオ砦の幹部の面々は少なからぬ衝撃を受けたようだ。傭兵たちは、こんな事態も経験済みという顔で、多少の戸惑いはあるものの、切った張ったの傭兵稼業で培ってきた面魂には、不安の翳りの一片もない。
「ベイロードとは反りの合わぬところもあったが、砦を預かる者同士として、それなりに交流してきたのであり、この裏切りは私としても残念だ」
「ベイロード殿だけではありません。ウィランド男爵をはじめとして、エルゼンの町の有力者が全員、敵方だったのです。ことに郷士たちに大きな影響力を持つウィランド男爵が敵であったとなると、郷士たちからの加勢はみこめませんぞ」
「れっきとした帝国軍人が、よそからの加勢がなくては戦いの一つも出来ぬとは、情けないと思わぬか」
ライゼン隊長は弱音を吐く部下を叱った。
「隊長は、ジェリコ砦の背信を知っておられたのですか」
レイウォルの問いに、
「ジェリコ砦には多少の不審を抱いていた。いずれベイロードに問いただすつもりだったが」
「州政府に報告して、増援を要請してはいかがです」
「報告はするが、増援は期待できまい」
「なぜです」
「そもそもベイロードの一存ではあるまい。ウィランド男爵の言うように、こんなことは地方の一武官や有力者たちだけで出来ることではないのだ。黒幕は州政府の上層、もしかしたらもっと上かもな。太守様以下丸ごと買収されているとは思わぬが、ダークネスの金は相当に巡っているはずだ。報告をあげても握り潰されるだろうし、増援など、期待するだけ無駄というものだ」
「では、グルザム一味の討伐は諦めて、等閑なさるおつもりですか」
弱気をみせる部下に、
「それでは我らは、この砦に寝起きしてメシを食うだけの、穀潰しの集まりということにあいなろう」
自嘲めいた顔で答えた。
「グルザム一味がこれまで多くの罪を犯してきたことはあきらかであり、今後も罪を犯し続けることは確実だ。ゆえに、これを成敗するのは我らが使命である。上の思惑や地域の事情がどうあれ、これは変わらぬ」
「しかし、もしジェリコ砦の軍勢が攻めてきたらどうなさいます。ジェリコ砦の兵にグルザム一味が加われば、とても勝ち目はありません」
「ベイロードとてアルスター帝国の軍人である。いくら汚い金で懐柔されているとしても、陛下からお預かりしているこの砦に攻撃を仕掛け、同輩である我らを討つまでのことはやるまい」
「いや、そうとは限りませぬぞ」
魔道師カムランが、ライゼン隊長に異を唱えた。
「他の州でも似たような話を聞いたことがあります。もちろん公式の発表ではなくあくまでも噂ですが、ヴァルカンやヴァルムの集団と戦って全滅したことになっている部隊の中には、軍内の路線の対立により粛清されたものもあるということです。それに、さっき隊長殿も申されていたではありませんか、黒幕は上のほうだと。たとえベイロード殿にその気がなくても、上から命令されれば、どう動くかわかったものではありますまい」
「なるほどな。我ら一つの地域に長く駐留している軍人より、諸国を流れ歩く傭兵諸君のほうが、さまざまに見聞して情報も多く、軍の腐り加減もよくご存知かもしれんな。だが、たとえベイロード以下ジェリコ砦の将兵がグルザム一味と合流して攻めてきたとしても、恐れることはない。戦いは数のみにて決まるものではなく、我らが結束して立ち向かえば、志を捨てたジェリコ砦の有象無象や、汚らわしい邪教徒や魔人の群れなどに、むざと敗れるものではない」
「だが、向うからこちらを襲うことはあっても、こちらからジェリコ砦を襲うことはできない」
志摩はこの世界のタバコ特有の、ほのかにグリーンの煙を吐き、ライゼン隊長を見やる。
「ベイロードがグルザム一味に加担しているという確たる証拠もなしにそのようなことをすれば、敵の思うつぼ。軍法会議が開かれれば、隊長殿が獄に繋がれて事は終わる。つまり、相手には打てる手がいくつもあるが、こちらにできることはさほどないということだ。グルザム一味のアジトを叩くかできればいいのだがな。一番手っ取り早いのは首領のグルザムを討ち取ることだが」
「残念ながら、一味のアジトはいまだ掴めておらぬし、首領のグルザムについても、人相風体一切が不明となっておる。しかし、相手がこちらになにか仕掛けてくるならば、こちらにも相手の尻尾を掴チャンスがあるわけで、まずは守りを固めてその時を待つこととしよう」
ライゼン隊長の決意に、不安な表情だった砦の幹部たちも、腹を決めた顔となった。
「志摩殿たちはいかがなされる。最初の話といささか状況が違ってきたが、いや、そうではなく、私に状況が見えていなかっただけだが。とにかく最初の説明に誤りがあった以上、ここで手を引かれても仕方のないところだが」
ライゼン隊長は大らかにいったが、レイウォルをはじめとする幹部たちは、ここで頼みの綱の志摩たちに去られてはと、固唾をのむかの表情で志摩の言葉を待った。
「ここまで来たんだ、やれるところまでやってみるさ」
志摩は答えて、仲間たちに顔を向けた。
「反対の者はいるか。嫌なら抜けてかまわんが」
「これから面白くなりそうだっていうのに、抜けてどこへ行くんだい」
バルドスはサブリナの言うところのバトル馬鹿オヤジの本領発揮、むしろ喜々としている。
「わしの魔道、どれほどの役に立つかわからぬが力を尽くそう」
魔道師カムランは、志摩がやるのなら共に闘うだけと、これはごく自然に決めているようであった。
「経験値の稼ぎどころね。ジカルってトカゲあがりの首はわたしがもらうわよ」
黒木雌豹のなめずるがごときサブリナである。
「ここまできて、いまさらチームは割れないぜ」
「リーダーはともかく、サブリナやおまえにまでいいカッコされたまま、尻尾を巻いていられるかって。悪党どもには俺のアックスを、たらふくごちそうしてやるぜ」
エルゼンの町での戦闘に加われなかったのが、なんとも悔しげなダオであった。
「僕も戦います。ここで逃げ出すぐらいなら傭兵になりません」
レオンが答え、
「右に同じ」
ファルコは短く済ます。
「俺はどうせ戦力外だ。好きにしろや」
ふて顔のグレッグがなげやりにいった。
「五尺三寸ならぬ、五寸三分のこの身体、みんなといっしょに張らせてもらうぜ」
舞い上がったウィルが胸を張り、
「オレも・・・」
言いかけたマユラだったが、
「ガキがしゃしゃり出るんじゃねぇ。砦の隅っこで棒振りでもしてろ」
ファズにどやされた。
「聞いてのとおりだ」
志摩の言葉に、
「方々の勇気に感謝する」
ライゼン隊長は礼を述べ、レイウォルたちはほっと安堵の顔となった。
緑の大地に影を落として、マユラは一人木刀を振っていた。師匠の志摩は見回りに出ていて一人稽古だ。ここ二日ばかり一人稽古が続いている。エルゼンの町での戦闘から四日が経過して、まだなにも起きていないが、ジェリコ砦が敵の側にあることも明らかとなり、そのうちなにか仕掛けてくるのではないかと、クリオ砦の緊張は高まっていた。
砦の警備は強化され、地域の見回りも、三つの班を編成してより密に行うこととなった。志摩、バルドス、サブリナを各班のリーダーとして、チームの他のメンバーを割り振り、そこに二十人ずつ砦の兵士が配属される。外部の者に兵士の指揮を任せるのはどうかという意見もあったが、傭兵たちの実戦で培ってきた胆力や判断力を見込んでの、ライゼン隊長の発案による編成だった。そんなわけで傭兵たちは見回りに出払っていて、砦に残っているのは、マユラと戦力外のグレッグだけだった。フェアリーのウィルもこのところは志摩に付いて出動しているのだ。
できるだけ砦の中にいるようにと言われていたが、一人で稽古しているのを人に見られるのも照れ臭く、砦の外の人目のない場所に来ていた。それでもそんなに離れていない。このあたりなら、いざとなったらストリームで翔ければすぐに砦に戻れる。
マユラは志摩から正眼の構えからの三つの太刀と、片手二つの太刀の型を教わっていた。サムライの刀術は基本両手持ちだが、状況や態勢によっては片手持ち片手打ちを使うことになる。即座に正確な太刀筋で、両手打ちと同等の威力斬撃を放たなければならないので、片手打ちの稽古もなおざりにはできないのだ。とにかく反復練習で打ち込みの型を身体に覚えさせ、ストリームで翔けての刀術はその先のこととなる。
マユラは日射しを遮る影もないなか、無心に太刀を振るい、ビュンと片手打ちを放ったとき、木刀の先を飛んでいた羽虫が二つに割れた。木刀に触れたわけでもなく、鋭い太刀風に断たれたのだ。初心者では到底起こり得ぬ現象だが、マユラはときおり志摩が驚くほどの鋭い打ち込みを放つことがある。それは稽古の末に到達したものではなく、志摩はマユラにはラーニングの才能が備わっているとみている。ラーニングとは見ただけでその動きの要諦を掴み取るスキルだ。天賦の才で修行や鍛錬で後天的に獲得できるものではない。志摩もラーニングの能力はない。ラーニングを備えていること自体が稀有なことであり、名だたる剣豪たちをみてもラーニングの能力者は少ない。ラーニングは武芸者にとっては、憧れであるとともに警戒すべき才能である。ラーニングを極めた者は、どんな達人の技も見た瞬間にマスターしてしまえるといわれている。修業を経ることなく、見ただけで技を習得できるのは夢のようだが、逆に見られただけで技を盗まれるので、ラーニングを備えているものは、武芸者たちから警戒の目でみられるのだ。もっともマユラのラーニングは、いまのところそんなに大したものではない。見事に抜刀をしてのけて志摩を驚かせたこともあったが、反面呑みこみの悪さも依然としてあり、志摩が手取り足とり教えても、なかなか習得できないところもある。それでも上達のスピードは早く、そこはラーニングの能力によるものであるが、志摩はまだ、マユラの剣士としての素質や才能そのものについては判断しかねているところだ。そして本人は、自分にそんな能力があるとは夢にも思ってなく、さっき切った羽虫も蚊ほどのものだったので、そんな現象が起きていたことすら気づいてないのだ。自分の才能には気づかぬマユラだったが、
――あれは――
遠くを歩く人影を目ざとく見逃さず、すぐさまストリームで翔けた。
編み籠を手に少女が歩いていた。白いブラウスにチェックのスカート、青いスカーフが輝くような金髪を包んでいる。一陣の風とともに少女の前に現れたのは、シャツの袖をまくりあげ、ジーパンにサンダル履きの少年だった。木刀を携え、陽炎をまとったようなその身体は数十センチ浮いている。
「やあ」
声をかけるマユラに、
「こんにちは、マユラくん」
エレナはあいさつを返す。
「ボクのこと、覚えていてくれてたんだ」
「風に乗れる人なんて、わたしのまわりにはいないもの」
「ボクもエレナの名前はすぐに覚えたよ。なんたって、キミみたいにきれいな子、ボクのまわりにはいないからね」
「ありがとう、お世辞でもうれしいわ」
「お世辞じゃないよ。サブリナさんも美人だけど、年上だしおっかないもんね。エレナみたいに優しくてきれいな子はいないよ」
マユラの言葉をエレナは涼やかに聞き流し、ストリームを凪いで浮くマユラの足元を不思議そうに見た。
マユラは突然ストリームを流す。風の尾を曳いて草原を大きく翔け、エレナの前に戻って来た。
「馬で駆けるみたいに速いのね」
「ストリームだよ」
「いいな、わたしもそんな能力欲しいわ」
「ボクにもできたもん、キミにもできるさ」
マユラは陽炎のたゆたうようなブレイヴを消して普通体に戻った。
「もうやめたの」
「ブレイヴは戦う力だからね、無駄使いはできないんだ」
「そう、なんにしても無駄使いは良くないものね」
ブレイヴを消して普通体に戻ると、ストリームも消滅して当然ながら浮いていた足は地面を踏む。ストリームで浮いていた二十センチ弱の背丈の嵩が消えると、身長そのものはエレナのほうが高いのであった。しかしストリームを使えるという優越感が、その現実を脳内でどう変換したものか、マユラはこの背丈の逆転についてまったく気づいていなかった。いまでも自分が少し高いぐらいに思っている。
「キミもブレイヴを覚醒させたら、ストリームで翔けたりエアで走れたりできるよ」
「そんなの、父さんが許してくれないわ」
「どうして」
「だってそれは戦うための力でしょ。そんなもの手に入れたら、戦いに巻き込まれることになるもの。そんな物騒なことには関わらず、地に足をつけてまっとうに生きるべきというのが、ウチの父さんの考えなの」
「そりゃあ、たしかに地べたに足は着けないけど、傭兵だってそんなにフワフワした生き方じゃないぜ。それに、もし悪党どもが襲ってきたらどうするんだよ。いくら戦うのは嫌だといったって、敵に襲われたら戦って身を守るしかないぜ」
「このあたりではそんな心配はいらないの。砦の兵隊さんが守ってくれるもの。このあたりにグルザム一味が現れたことなんて一度もないのよ」
楽観しているエレナだったが、その頼みの綱のクリオ砦が、実はけっこうな緊張状態にあるのをマユラは知っている。しかし、もしこのことが周辺の人々に知れ渡ればパニックとなりかねないので、クリオ砦を取り巻く現在の状況については一切が秘密とされ、マユラも、外でうっかり口をすべらさぬように釘を刺されていた。
「確かに、砦が近くにあれば安心だね」
心苦しいながらもそこは口外するわけにはゆかず、あたりさわりのない言葉を返す。
「これ、食べて」
エレナは籠からリンゴを一個出した。
「のどが渇いているんじゃなくて」
「ありがとう、じつはカラカラさ」
マユラはリンゴにかじりついた。酸味のある果汁が渇いたのどに沁みた。
「じゃあ、ゆくね」
「うん、また」
マユラはリンゴをシャキシャキ食べながら、別れの言葉を交わした。リンゴを食べ終えて芯だけになったのを投げ捨て、エレナの歩いていった方を見ると、彼女は草原から、行く手に広がる林の中に入ってゆくところだった。緑の中に木立の広がっていて、森というほど密ではなかったが、あたりの地面は落葉の敷き積もって樹間は暗く、明るい平原の中に、そのあたりだけ光の煮凝ったような景色であった。
マユラは再び稽古を始める。切っ先が弧を描くように木刀を振れと志摩から教わっていた。そのあたりを注意して、上段に構えた木刀を真っ直ぐ振り下ろし、しかしその動作の途中でピタっと動きを止め、風の音に耳をそばだてた。風に運ばれて悲鳴の聞こえたような気がしたのだ。それは空耳と思えるほど微かで、誰の声とも知れなかったが、マユラは反射的にエレナの入っていた林のほうを見た。
エレナ!
次の瞬間にはストリームを噴いて、林を目指し矢のように翔けていた。
この林はエレナの好きな場所だった。木々の醸しだす落ち着いた雰囲気の中に、ときおり小鳥たちのさえずりの明るく鳴りわたり、エレナの心をなごませてくれる。はつらつとした緑の草原もいいけれど、しっとりした雰囲気の枯れ葉踏む木立の中を歩くのも好きで、エレナはよくこの道を通った。しかし今日はなにかがちがっていた。小鳥のさえずりもなく、この林に住むすべての小動物がどこかへいったかのような、息づくもののない墓場のような静けさに、木々の影もいつになく濃く、どこか別の場所に迷い込んだかのような気さえしたのだ。一刻も早くここを出ようと足を早めたエレナの前に、それは現れた。
影法師がゆらゆらと立ちあがったかのような、古い井戸の底の闇が、人の形を取って這いあがってきたかのような、漆黒の異形であった。不定形に揺れる身体は黒いガスをまとっているかのようで、全身から墨色の靄を湧きたたせていた。全身ぬっぺらとした闇のごとき中に、目だけが赤かった。もやもやとした闇にドス黒くにじむ血のごとき赤い目が、エレナを見つめていた。
キャアァァァァァ!
無意識のうちに悲鳴をあげ、持っていた籠を投げつけると、あとをも見ずに走り出した。籠からこぼれたリンゴが怪物のまとう黒いガスに触れると、青い実が一瞬でドス黒く朽ちた。
夢中で走るエレナだったが、背後にぞっとするような気配の迫るのを覚え、とっさに小道から林の中へと駆けこんだ。木々の間を逃げ回りながら、一刻も早く明るい草原に出たかったが、そんなに広い林ではないはずなのに木立は尽きなかった。恐ろしい気配に追われて、彼女は林の中をぐるぐる走り回っていたのだ。
息を荒くして逃げていたエレナは、木の根につまづいて倒れた。急いで立ち上がった彼女の前に、黒々した怪物の姿があった。深い暗渠の忌まわしき闇の如き腐臭をはらんだ漆黒に灯る、鬼火のような赤い目で睨まれると、エレナは足がすくんでしまった。たゆたう闇のごとき怪物は急ぎもせずじりじりと近づき、あとずさりするエレナの背中が木の幹に当った。蛇に睨まれた蛙のように、ふるえる身体はもう一歩も動けそうにない。
「助けて、だれか、たすけてください」
声をあげ、助けを求めるのがやっとだった」
「むだダ、だれモこヌ」
もやもやと揺れる、黒いガスの塊のような怪物がしゃべった。洞窟の奥から聞こえるような、陰湿な響きの声に、エレナは鳥肌立った。
「ちかクニ、たすけニクルようナモノハいない。おまエハココデ、ワレのえじきとナルのだ」
「誰か来て、お願い・・・」
エレナの声が、か細く震える。
「よいゾ。きょうフニふるエルほど、しんゾウばビミとなル」
黒いガスをまとう怪物はエレナに近づき、血のような赤い目は、残忍な喜悦の滴りのようであった。
「誰か・・・・」
祈るようなエレナの前で、黒いガスをまとうような怪物の肩のあたりから、黒いロープのようなものがするすると立ちあがった。蛇だった。黒蛇がエレナの前で鎌首をもたげ、赤い舌をひらひらさせる。
「ドコからハイロうかね。このヘビハ、どこかラダッテ、キミのカラダのなかにハイレるのダヨ。めカラか、シカシそのウツクしいめヲつぶスノハおしい。ミミからにシヨうか。しかしソレだとノウヲさきにタベることにナルが、ノウみそハさいゴのタノシみにとってオクのがワタシのリュウギでね。クチからはいッテしんゾウヲショクすか」
エレナは耳や口を手でおおった。目を閉じることは、怖くてできなかった。
「テでフサイでもムダダよ。そんナカヨワいテナド、かみみタイニクイヤぶるカラネ」
怪物は震えるエレナを、その恐怖心さえも味わうかのように、じっくり眺めた。
「サて、そのウツクしいカラダのナカヲ、ぐちゃグチゃニたべチらかしてヤロウ」
ひっ!、
エレナは恐怖に身をすくめる。
――だれか――
その、声にもならない祈りに応えたかのように、
「エレナ」
風を駆って、木刀を携えた少年が飛び込んできた。
「なんだこいつ」
マユラは敵愾心もあらわに、闇が人の形をとったような怪物を睨む。
「エレナから離れろ。命が惜しかったらとっとと失せやがれ」
マユラは声を張り上げたが、黒いガスの塊のような怪物に動じた様子はなく、マユラへと向きなおる。
「ぶれいヴつかイがきたのでナニかとおもっタラ、こネズミいっピキカ。エサがフエタダけのこと」
黒いガスの身体から出た蛇がスルスルと伸びて三メートルもの長さとなり、今度はマユラに狙いをつける。
「大道芸の蛇使いかよ。女の子なら恐がりもするだろうが、あいにくこちとら野良育ちの腕白だ。青大将なんざとっ捕まえて、丸焼きにして食ったもんさ」
マユラは気丈に啖呵を切った。
「くくくクククくくくくっ」
地底の毒気のごとき黒々したガスをまとう化け物は、木霊のような笑い声をあげた。
「けっこウダ。ショクざいハいきノヨイほうがウマイ。ならバおまエカラクッテやろウ」
「蛇使いなんかにやられるかよ。志摩先生直伝の剣術でボコボコしてやるぜ」
木刀を構えるマユラを怪物の赤い目が笑い、彼奴めの身体から生え出ている蛇が、鞭のようにしなって襲いかかる。とっさに木刀を合わせたマユラだったが、バキッ、木刀を蛇に噛み砕かれた。
くそっ、マユラはおのれの失態を悔んだ。剣はストリームに乗って活きると志摩から教えられていたのに、迂闊にも凪いだまま、単純に木刀を出してしまったのだ。
「つギハ、おまエのくびのホねをカミクダイてやる」
「あざけんな、オレは魔王だってやっつける強いサムライになるんだ。おまえみたいなチンケな魔物にやられてたまるか」
「クククくくっ、オマえのヨウナつよガリが、キョウふにかおヲユガめながらしんデユクのヲみルノハ、ナントもタノシいものだ」
「クソくらえって」
窮鼠猫を噛むというが、この子ネズミは蛇にだって噛みつくのだ。ストリームを流して飛び出すマユラに、蛇が襲いかかる。ヒュルヒュルとロープのような胴をくねらせて宙を泳ぐ蛇の、鋭い牙をむき出しにした口が迫る。マユラは身体を大きく傾けてぎりぎりにかわすと、風の尾に枯れ葉を散らし、樹間を抜けて去った。
「ニゲたか」
怪物は追うそぶりもなく、、その関心は再びエレナへと注がれる。
「あんナこぞウナドドウデもよい。あいツガたすケヲツレてくるコロニハ、ワタシはおまエヲたいらゲテイル。シンぞうカラ、ナイぞうカラ、ノウみそまで、オイシイところヲ、すっカリイタダいているトいうワケだ」
邪悪の化身のような闇の塊のような怪物の、生け贄を求めてやまぬ血暗く貪婪な赤い目に見つめられ、エレナは震えが止まらなかった。
「これマデナンにんモタベてきたが、オマえのようナムスめがイチバんマウい」
――神様、たすけてください――
エレナは神に祈った。
「ワレのジヨウトナレるこうえイヲ、イダイナルてぃぎロシンさまにカンしゃスルノだ」
頭上を泳ぐ蛇がエレナを狙い、クワッと口を開く。
――もうダメーー
エレナは両手を合わせ目を閉じた。
蛇がエレナに襲いかかろうとした、そのとき、
「エレナ!」
一陣の疾風の木々の間を翔けてきくる。
「キタか」
マユラは半分になった木刀片手に、まっすぐストリームで翔けてくる。
「ソノままさっテオレバあったイノチヲ、わざワザステニくるとはオロカモのメ」
いかにストリームの機動力があったとしても、なんの芸もなく突進してくるならば、蛇で仕留めるのはたやすい。この蛇は槍のごとく衣服もろとも皮肉を噛み破り、内臓を喰らうことができるのだ。
「ソレほどシニタいノなら、オマえからクラッてヤル」
蛇がシュッとマユラめがけて一直線に伸びる。刹那、マユラはは身体を横に倒し、ブレーキ深く急停止した。尾を引くストリームが横に流れ、敷き積もったあたり一面の枯れ葉を巻きあげた。
なっ!
巻き上がる枯れ葉がカーテンのごとく視界を遮る。マユラめがけ襲いかかった蛇に手応えはなく、次の瞬間、枯れ葉のカーテンを破ってマユラが現れた。急停止して足元に溜まったストリームを一気に蹴って、カタパルトから射出されもののごとく、枯れ葉の幕を破って、邪悪なガスの塊のような怪物めがけ跳んだのである。蛇が首を返してマユラに噛みつきかかろうとしたが、それより早く、マユラは半分になった木刀での渾身の両手突きをで、黒々したガスの化け物を撃った。身体全体がガスでできているわけではなく、黒々覆う気体のむこうには身体があり、骨肉粉砕する手応えがあった。
うげっ、
怪物は五六メートルもふっとび、その身体から生え出た蛇も、ロープのように力なくしなだれていた。
「エレナ、大丈夫」
マユラは普通体になってえれなに駆け寄る。
「大丈夫よ」
「動ける」
「うん」
マユラが怪物を倒して、呪縛から解かれたようにエレナも動きを取り戻した。
「逃げよう」
マユラはエレナの手を取る。おぶってストリームすることも考えたが、スレンダーなエレナであっても、おんぶしてどれだけ翔けられるかわからない。ここは、普通に走って逃げたほうが速いと思った。もし怪物が追いかけてきたら、ストリームで戦ってやるだけだ。
「「おのれ、よくも」
黒いガスに包まれた怪物が唸るような声をあげ、マユラはドキリとして振り返ったが、怪物は倒れ込んだまま、まだ動けない様子だった。その身体から生え出た蛇も、古縄のようにのびたままピクリとも動かない。怪物の赤い目だけが憎悪の炎のごとくメラメラと揺れながら、マユラに視線を注ぐ。本当ならトドメを刺しておくべきだが、武器が折れた木刀だけではヤバすぎる。
「必ずや、八つ裂きにしてくれる」
仕返しを誓う怪物の言葉を、マユラは鼻先で笑いとばす。
「こっちこそ、こんど会ったらボコボコにして、そのへその緒みたいに繋がった蛇の皮を剥いで、小銭入れでも作ってやるぜ」
蹴りの一つでも入れておきたいところだが、あの蛇が、またウネウネやりだしたらヤバい。ここはさっさと逃げるに限ると、エレナの手を引いて走り出そうとしたが、エレナはじっと怪物の方を見たままだった。
「なにしてんだよ」
「ごめん」
マユラに強く手を引かれ、我に返った顔となった。
「ゆくぜ」
「うん」
手をついだ二人は、さくさくと枯れ葉を踏む乾いた足音をさせて走り出した。エレナはもう後ろを振り返りはしなかったが、気がかりな思いにとらわれていた。さっき、マユラの一撃を受けて倒れた怪物の声の、不気味に震えるようなトーンが弱まり、いくらか人間めいたものに聞こえたのだが、その瞬間、どこかで聞いたことのある声だと直感したのだ。明瞭に聞きとれたわけではなく、誰の声かまでは分からなかったが、聞き覚えのある声だと思ったのだ。気のせいかもしれないが、窮地を逃れた安堵の中にも、不吉な心のざわめきを消せないでいるエレナだった。
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