第35話「涅槃」


「抹香の香りがしたな、あの爺さん」

 西坊 門を目指して歩き出してすぐ、琉樹がそんなことを言った。

 えっ、そうだった? 思う楓花の傍らにいた珪成が、

「あの方からだったんですね。この近くにお寺があるのかと思ってました」

 ――全然気づかなかった。やっぱり調子に乗っていたのかもしれない……肩を竦める楓花を間に、兄弟は話を続けた。

「まあ、そう遠くないところにあるはずだ」

「でも南から来ましたよね、あの方。南門を出たら楽水だし、この並びの坊もここと同じように過疎化していると思うんですが、お寺なんてあるんでしょうか」

「確かに。聞いたことはないな」

 西坊門を出たところで鉦音が響き出した。北市と南市、営業終了の合図である。ほどなく暮鼓も鳴り始めるはずだ。

「もうそんな時間。急がないと。――着替えないといけないので、僕さきに医生のお家に戻ります。お二人はゆっくり来てください!」

 

 ――ええっ!?


「待て待て」

 思いっきり動揺する楓花の隣で、琉樹はのんびりとした声を上げて、駆け出しかけた珪成の足を止めた。

「一緒に寺に行こう。久々にあの賊禿くそぼうずの顔を拝みにいってやる」

「でも、こんな格好で老師の前に立つわけには」

「ちゃんと着替えは持ってきた」

 そう言って、琉樹は手にした包みを上げてみせる。下男らしくと持たされていたものだったので単なる小道具だと思っていたのに—―なんて抜かりのない。

「この時間、あの賊禿は経を上げてるだろ? 俺たちが引き付けておいてやるから、その間に着替えてくるといい。おまえも今日は志均の家に泊まれ、俺が話をつけておくから」

 そう言うと琉樹は隣の楓花をくるっと振り向き、

「まだ歩けるよな?」

 ここから南街の元弘寺までは六里(約三キロメートル)ほどである。

 「もちろん」楓花は笑顔で頷いた。

「でも突然お邪魔しちゃ医生にご迷惑……」

「よし決まった。ほら急ぐぞ!」

 珪成の声に被せるように、琉樹は声を張り上げて歩き出した。

「……。師兄が元弘寺ここに泊まれと言われるんじゃないですか?」

「だから小妹を連れて行くんだろうが」

「何、私ってそのために連れていかれるの?」

「今さら気づいたか」

 慌てて二人がその後を追い、三人は並んで歩き出した。正面から鈍く照りつける夕陽が、後ろに長い影を作る。


 元弘寺に着くと、大宝雄殿ほんどうから白い煙と、途切れがちな音が細々と漏れ出していた。

「じゃあ僕、支度して来ますから!」

 琉樹の背後に隠れるようにして顔を伏せ、可哀そうなくらい周囲を警戒してここまでやってきた珪成は、境内に人気がないことを確認すると、だっと駆け出して行った。これまでの我慢を発散させたかのような後姿は、もはやかわいらしい女の子のそれとは言い難い。

 そこへ最初の暮鼓が響き始める。琉樹は小さくため息をつき、「さて行くか」そう言って歩き出した。


 あちこちが割れた扉は外向きに大きく開かれていた。

 琉樹が階段の一段目に足をかけ――後ろに続こうとした楓花を振り返り、「ここにいろ」と目で訴えかけて来た。戸惑ったのは一瞬、楓花はおとなしくその言に従い、階段の脇に移動する

 階段もやはりあちこち割れているうえ、軋みがひどい。全体的に黒ずんだ板は、どこを踏み抜いてもおかしくはなさそうだ。しかし琉樹は難なく階段を上がり切り、開いた扉に背を預けるようにして立った。

 腕組みをしたまま、黙って中の様子を窺っている。

 

「……般若波羅蜜多心経――。琉樹か?」

 読経の声は止むも、仏像の前で座す後ろ姿は振り向かなかった。

「見もしねえでよく分かるな」

「お主は足音を立てぬからな」

「そう仕込まれたもんでね。もっとも――小妹はそんなこと、とうに忘れてるだろうけど」

 そう言って琉樹は、こちらに目を向けて来てニヤリと笑う。その通りなので言い返すこともできずに身を縮めながらも、楓花の心は、少しだけ重い。

 堂内から「よっこいしょ」の声。老師が立ち上がったようだ。

「ならお主も忘れればよかろうよ。子供の些細な足音を怒る者は、もうお主の側にはおらなんだ」

 言葉とともに、板を踏むぎしぎしという音が近づいてくる。

 のっそりと歩いてきた老師は、扉の前で佇む琉樹の前で足を止めた。

「難しい顔をしておる」

 そう言って、堂を出る。そこでようやく気付いたとばかり階下に目を投げ、「これは杜公の。かような破れ寺に、よくぞいらしていただきました」見慣れないにこやかな笑みに少々戸惑いながらも、楓花は小さく膝を折った。


 「なあ」低い声。


 老師と背中合わせに立つ琉樹からだった。

「――涅槃に往ける者よ、悟りよ、幸いあれ――か。なあ、あんたはそうやって、日毎『般若心経』唱えてるけど、涅槃は少しでも見えたの?」

「いや」

「じゃ、何で唱えるんだ?」

「お主が笛を吹くと一緒じゃ」

 「はっ」と笑い、琉樹は振り返った。

「ありがたいはずの経と笛が同等かよ。何だ、じゃあ無駄じゃねえか」

 ぎしっと音がした。老師が階段に足をかけたのだ。そのまま振り返ることなく一言、

「何が無駄で何が有益かなど、分からぬ。何せまだ天命が知れぬものでな」

「――何、まさか珪成がしゃべったのか」

 ばつが悪そうに振り返った琉樹に対し、老師は片足を階段にかけたまま、

「何のことだ? まあお前のことだから、珪成に儂のことを『もう知命ごじゅうだってのにまだ惑ってやがる』とでも言ったんであろうがな」

 息を呑む琉樹を後に、「まあ、そういうことだ」からからと笑いながら、今度こそ老師は階段を降りた。

 階段を降り切ったところで振り返り、

「さて、もう時がないゆえ騾馬を貸してやろう。珪成も貸してやってもよいが、明日には返すのだぞ。何せ珪成は、我が掌中の珠なのだから」

「聞いてて呆れる」

 苦笑しながら空を仰ぐ琉樹に、老師は、

「同じことを、よう医生公子が言うてるの、お主に」

「――確かに」

「老師、戻りました! 早いですが寝床の支度は済ませました。明日の朝は、お隣の劉さんにお願いして来ましたからね」

 そこへ笑顔の珪成が、手を振りながら中門から姿を現した。すっかりいつもの姿である。

「杜公の院子にわはさぞ見事かろう。ゆっくり眺めてみてはどうだ。笛でも吹いてな」

「そうだな」

 琉樹は短く答え、大宝雄殿の扉を押す。切れ切れに上がる耳障りな音が、静かな夕暮れの空に延び、やがて消えていった。


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