第24話「出自」

「ちょっとこっち来い!」

 二人はそのまま引きずられるようにして、坊壁際に連れていかれた。

「まったく。楽南ここに来てどれだけ経つんだよ、おまえたちは! おのぼりさんじゃあるまいし、間抜け面してフラフラしてんな!」

「ごめんなさい、私が――」

「違うんです、楓花さんは僕に付き合ってくれて―—」

「あー分かった分かった」

 互いを庇い建てすることは織り込み済だとばかり、眉間に深く皺を寄せた琉樹は左手を振って二人の言葉をあしらうと、肩越しに背後の喧騒を振り返り、

ここにあるのは楽しいものや珍しいことだけじゃなくて、危ないことだってある。見なくていいものだって――」

 そこで二人に向き直った琉樹の顔からは、険しさが消えていた。一転、明るい声を上げ、

「さ、嫌なことはさっさと忘れて飯だ飯! いいかげん腹減ったし」

「そうね、もうお店にも入れる頃合いだし。行きましょ」

 琉樹に追随するように、楓花は白々しいくらいに明るい声を出し、傍らの珪成に目を投げた。

 「はい」兄妹に揃って目を向けられた珪成は、いつものように笑顔で頷く。

 だが。

「おまえ――また妙なこと考えてるだろ。まさか、俺たちを騙し切れてると思ってるわけ? 子供ガキのくせして」

 低い声。と同時、琉樹にガッと頭を掴まれた珪成は、たちまち視線を泳がせる。だが正面の琉樹にも左隣の楓花にも、決して目線を合わせようとはしなかった。口元はいつもみたいに上がっていたが、強張って僅かに震えているのは、隣の楓花にはハッキリと分かった。珪成が今、何を思っているのかも。


 多分、自分と同じようなことだ。


「『嫌なこと』じゃないです。僕がちゃんと覚えてなきゃいけないことです。僕が――私奴だってこと」

 珪成はためらいがちに、だけど自らに言い聞かせるかのように確かに、そう言った。

「それは俺だって同じだ」

「今は違います」

 琉樹の言葉を、珪成は即座に否定した。口調の強さに自分でも驚いたようで、取り繕うように珪成ははにかんだ笑みを浮かべ、

「買い手が違っていたら、とっくに殺されてたかもしれないのに、今の僕は優しいみなさんに囲まれて楽しい日々を送ることができています。これを当たり前だなんて勘違いしたら、バチがあたります」

「どこがだよ! あの賊禿くそぼうず、朝から晩までお前をこき使ってるだろうが!」

「また師兄ってばそんなこと言って。老師のお優しさはちゃんと分かってるくせに。僕なんかを買ってくださって衣食住を提供くださっただけじゃなく、読み書きや武芸まで。この御恩に報いるのに、家事をやるくらい、なんてことはないです」

「僕『なんか』と言うなと何度言ったら分かるんだ。次言ったらただじゃおかねえぞ!」

 言いながら琉樹が、珪成の頭を掴んでいる右手にぐっと力を入れると、珪成が顔をしかめる。「師兄、痛いです」

「反省したか?」

「しました」

「じゃあよし」

 そこでやっと、琉樹は珪成の頭から手を離した。


 中国史上常に存在していた数ある奴隷の中でも、最も低い位置にいたのが私奴婢(奴は男、婢は女奴隷)である。

 犯罪者の子、貧困で親が手放した子、彼らは様々な事情で人買いに渡され、売りに出される。そして自分を買った主に仕える。牛馬と同じく財産の一つとして扱われる私奴婢は、主を訴えることは許されない。酷薄な買主にどんな扱いをされたとしても、たとえ理不尽に殺されたとしても仕方がない。うまく逃げ出せたとしても、戸籍がない以上まともな生活などできず、犯罪に巻き込まれるか盗賊になるくらいしか道がない。当然科挙を受けることは不可能である。結婚は奴婢同士でしかできず、その子はやはり奴婢であった。

 その呪縛から解放される道は二つ。

 一つは主人から、良人にする旨を役所に提出してもらうこと。とはいえ財産を無償で手放す物好きはそうそう居ないわけだから、我が身を買い取るのが一般的であるが、それは莫大な金額となる。自分に入れあげる者に資金を用意させる手もあるが、単に主人が代わるだけのことと言えよう。


「……おまえだって、度(僧になるための国家試験)を受けるんだろ? 受かったら、賊禿にこき使われた分、しっかり請求してやれよ」

「またまた、師兄だって請求されてないくせに」

 そう言って、珪成は明るく笑った。

 もう一つは僧籍に入ること。仏の下では貴族も奴婢も平等となるからである。ただし還俗すれば奴婢に逆戻りではあるが。


 突如どよめきが起こった。

 揃ってそちらに目を向けると、先ほどの人だかりがあった。どうやら先ほどの少年に買い手が現れたらしい。売人が大声で白々しいまでの謝辞と称賛を並べているのがここまで届いた。

「いい人に買われてたらいいです。僕みたいに」

 琉樹は黙って、そんな珪成の頭を撫でた。「よし、じゃあ行くか」そのまま珪成の肩に腕を回し、兄弟は揃って歩き出す。

「なんかもう、何でもよくなってきました。お腹すき過ぎて」

「おまえ何言ってるんだ、普段は山中深くで粗食に耐えてる俺に、適当なもので腹を満たせってか? そんなのは許されない」

「勝手に山に行っちゃったのは師兄じゃないですか。僕はそんなこと頼んでません!」

「おまえ、志均と同じことを言うようになりやがって。あいつに毒されたな、良くない傾向だ」

 何事もなかったかのように会話している二人の一歩あとに楓花は続いた。兄弟のほほえましい会話を見守っている態の笑顔を作りながら。


 そう、大兄は僧籍を得ることで良人になった。

 珪成も十五歳になれば、きっと僧籍を得て自身を解放するんだろう。

 でも私は、何も……。

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