瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
今日で世界が終わればいいのに
明日なんて来なければいいのに
あの頃に……戻れればいいのに
春特有の朧のかかった月が浮かんでいる。
じりじりと空を渡る様は嫌でも時を刻んでいることを知らせている。
二階の自室の木枠の窓の桟に腰掛ける。
春とはいえ夜ともなれば冷たい風が時折肌を刺すけれど、もうそれさえも寒いのかどうかわからない。
どうしてこんなにも
どうしてこんなにも
どうしてこんなにも
いつからやり直せばいいのだろう。
婚約の話が出る前?
――いいえ、それでは他の縁談が持ち込まれるだけ
あの絵を見る前?
――いいえ、それでは私が恋というものを知らない
私が女学校に入る前?
――いいえ、それでは私が幼すぎる
いっそこの家の娘にならなければよかったの? 他人として出会っていたら?
――でもそれでは花冠や色水で遊べない
――あの部屋でふたりで過ごせない
好きですと
お慕いしていますと
伝えることができたなら
私の
たとえお兄様にとってはただの可哀想な女の子でも
ただ一緒に暮らした妹のような存在でも
私が打ち明ければ
お気持ちが変わることはありましたか?
また月が動いている
西へ
西へと
月が
月が往ってしまう。
朝が
朝が来てしまう
陽がさしてしまう
風が緩やかになってしまう
桜が咲いてしまう
春が
春が来てしまう
視線を庭に下ろした
目の前が滲む
滲んだ世界に
貴方が見える
美しい横顔で
月を眺めていらっしゃる
朧がかった月よりも
ずっと綺麗で
ずっと美しくて
ずっとずっと優しくて
いつも
いつもいつも見守ってくださった
もうこの気持ちはどう表現したらいいのかわからない
そばにいたい
寄り添いたい
包み込まれて
貴方に溶けてしまいたい
貴方しか呼ばないあの名前で私を呼んで
貴方しかいない世界で生きていきたいの
貴方だけを見つめて
貴方だけを想って
貴方だけを……
貴方だけを見つめつづけてきた。
ずっと憧れつづけてきた。
あの日もそんな貴方の横顔を見つめていた。
あれは昨年のこと。春が往こうとしていた頃のこと。
◇◇◇
運転手に横濱まで連れてきてもらう。お兄様と私は車から降り、馬車道を歩く。
女学校の最上級生となった春のこと、体調のいいお兄様とふたりででかけることになった。
横濱三塔と呼ばれる神奈川県本庁舎(キング)、横濱税関(クイーン)、開港記念横濱会館(ジャック)を見て周る。西洋風の建築物は日本に居ながらにして異国情緒を味わうことができる。
「素敵ね。横濱って外国に来たみたい」
「そうだね」
浜風に私の帽子が飛ばされそうになり、自身で帽子を押さえる。帽子のリボンと黒髪が風に遊んでいる。隣のお兄様が微笑んでいる。
すれ違う人々が時折私達の方を見やっている。
(お兄様が素敵だからみんなが振り返るわ)
そんなお兄様と一緒に歩けるのが嬉しくてならない。
目鼻立ちの整った顔に中折れ帽をかぶり亜麻色のスーツに海老茶のネクタイ姿のお兄様に自然と人々の注目が集まる。私はお兄様にふさわしいようにと
「
注文を済ませたお兄様がそうおっしゃる。
ミルクホールに入って脱帽した頭に手をやってさりげなく髪型を整えられる。
「大好きよ。甘くて冷たくてとっても美味しいんですもの。お兄様も召し上がればいいのに」
片眉にかかる前髪を指ではらう。瞳はいつものように私に微笑みかけてくれる。
休日の昼下がり。席はほぼお客で埋まっている。
「僕は珈琲でいいよ」
ここは外国との貿易の盛んな横濱だからかお洒落な装いの人が多い。
「男性の方は甘い食べ物を注文しづらいものなの?」
外国人のお客様もいらっしゃる。
お兄様は片眉を上げて肩を上下させる。
「まあ、それもあるね」
横濱の素敵なミルクホールでお兄様と向かい合って座っている。深い宝石のような瞳。眩しそうに少し目を細めて笑ってくださる。
「私のを少し差し上げましょうか?」
私の胸はときめく。お兄様の仕草のひとつひとつに。
「いいよ。
優しいお兄様の微笑み。嬉しい。楽しい。
「では精一杯美味しくいただくわ」
流れている曲は西洋の音楽。ヴィヴァルディの「四季」の「春」だ。本当に外国にいるような感じがする。もちろん外国になど行ったことなどないけれど、お兄様の部屋にある画集や写真集を見せてもらった。
「そういえば、
念願のアイスクリームを食べながら私は少し前の世界的ゴシップの話を始める。
「ああ、そのようだね」
英国王室の恋愛沙汰に女学校では大騒ぎだった。
「物語のような恋ね。”王冠を懸けた恋”って言うのですって」
お兄様はくすりと笑みを漏らす。
「そうらしいね」
あまり興味はないご様子に見えるお兄様。
「素敵よね。憧れるわ」
アイスクリームを掬っているスプーンを両手で握りしめ私はため息をつく。
「でもあの女性は結婚してたんだよ? そんな恋に
そんな指摘をされて私はあわてて首を横に振る。
「そうではなくてね、周りに反対されても王位を捨ててまでその方と結婚したいという王様のお気持ちにね。でもそうね、結婚している方との恋は間違っているわね」
ふふふ、と私は笑ってからアイスクリームを味わう。
「
お兄様の顔が曇ったような気がした。ぎこちなく微笑んで珈琲を口をなさる。私は反対にスプーンをテーブルに置いて座りなおす。
「あのね、お兄様」
聞いてみたいことがあるの。前からずっと。
「ん?」
「……」
どうしよう。やっぱり聞かない方がいいのかしら。
「どうしたの、
優しい眼差しに導かれるように口を開いてしまう。
「お兄様はお好きな方はいらっしゃらないの? 恋人とか……」
口にするのも恥ずかしい単語を言ってしまった。
「僕?」
どうしよう。呆れていらっしゃらないかしら。
「ええ」
それでもどうしても聞いてみたかった。私は真っ直ぐにお兄様を見つめる。けれどもその答えは知りたくもあり、知りたくないことでもある。するとお兄様はふーっと鼻息を出しながら笑った。
「いないよ。恋人なんて」
恐れていた答えでなかった。
「そうなの?」
私はほっと胸をなでおろす。
「僕の恋人は絵だね」
ふふふとふたりで笑い合ったあと、私はふたたび質問をする。
「お好きな方もいらっしゃらないの?」
また胸が波打つ。さざ波のように。
「好きな
聞かなければよかったかもしれない。
「ええ」
胸の鼓動が早くなる。
「いるよ」
心臓が音をたてた。爆発音のような大きな音を。
「えっ!」
動悸の音が聞こえてくるようだ。波打つ心臓の動きが目に見えるようだ。
「いるけど、想いは届かないし、伝えるつもりもない」
好きな人はいるけれど、伝えない。お兄様の答えに私は首をかしげる。
「どうして? 告白はなさらないの?」
心臓が何倍にも膨れ上がっているような気がする。血の流れる音がする。
ドクン。ドクン。
「しない」
お兄様はそう断言なさる。
心臓が外に飛び出しそう。
ドク。ドク。ドク。
「お兄様がお伝えになったら、お相手の方だってお兄様のことを好きになってくださるかもしれないでしょう?」
そうなってほしくないのに、気持ちとは裏腹なことが口から出てくる。お兄様は目を伏せながら笑っている。
私は落ち着かせるように胸に手をあてる。
トクトクトクトク。
「それでもしないんだ。言っただろう? 恋人は絵だって」
私は無言でお兄様を見つめる。お兄様はいつもの穏やかな微笑みで私に諭してくれる。
「絵という恋人がいるのに女性に告白はできないよ。絵を捨てることはできないしね」
私はふうと一息吐いてからお兄様に笑いかけた。それからもう一度スプーンを手に取り少し溶けかかっているアイスクリームを食べ始めた。
よかった。お兄様に恋人はいらっしゃらない。
でも……、好きな方はいらっしゃる。何か告白できない事情でもおありの方なのかしら。さっきの話ではないけれど、まさか結婚なさっている方? いいえ、お兄様に限ってそんなことはない。お兄様の好きな方……。一体……。
「
「えっっ!」
あまりに動揺してスプーンを落としてしまう。女給がすぐに来てくれて代わりのスプーンを渡してくれる。女給や周りを騒がせてしまい、私は顔を赤くして身を小さくする。そしてお兄様の質問にさらに頬が紅潮してくるのが自分でもわかる。
「私の好きな……人?」
また心臓の音が聞こえはじめる。言えるわけがない。お兄様が私を見ている。
「好きな人……ですか?」
お兄様が
「あの、それは……」
お兄様の視線が私の心を射貫く。その心が早鐘を打つ。けれども私の理性が否定する。間違っているの。わかっているの。でも……。
「……」
今度は私の本心が顔を覗かせる。本当は言ってしまいたいの。お伝えしたいの。でも。
「まだ、
言えないの。言ってはいけないの。言ったら今までどおりでいられなくなる。
「そう」
お兄様はふっと笑ってから冷めかけた珈琲を飲み干した。
少し気まずい空気になったけれど、すぐにお兄様が小説で読んだ倫敦や巴里の話をしてくださり、楽しい時間は過ぎていく。
「お兄様、今日はお身体は大丈夫なの?」
ミルクホールを出て運転手の待つ車まで歩く。
「ああ、今日はとても調子がいい。おかげで
山下公園に到着する。ここで車が待っている。
「また連れてきてくださる?」
直接車には向かわずに少し公園の中を歩こうとお兄様が誘ってくださる。お兄様とこうして並んで歩けるなんて本当に久しぶり。
「いいよ、もちろん」
薔薇園を抜けて海沿いへと出る。
陽が傾いてきて公園と港が朱色に染まってくる。
私の目線はお兄様の肩の少し上くらい。見上げると温かい眼ざしは降ってくるよう。
「嬉しい」
またこんな風にふたりで歩きたい。
大好きな人の隣を歩きたい。
「綺麗ね、夕暮れが」
夕陽が海に反射して波が煌めきを放つ。
その美しい世界で隣にいる憧れの人を見上げる。
「そうだね」
目が合ったお兄様の方が何故か慌てて目を反らす。
彼方の海を見つめるお兄様。
「本当に綺麗。きっといつまでも忘れないわ」
今日の日のことを。この夕暮れを。
お兄様のその横顔。お兄様と歩いたこの街を。
「そうだね、
大好きな人とお出かけしたこの日のことを。
「楽しかった」
今の私にとって最上級に嬉しいお言葉。
両手を胸にあて、首を傾げてお兄様を仰ぎ見る。
「ええ。お兄様」
私もとってもとっても楽しかった。
薄れゆく茜色の夕暮れの中、お兄様の微笑みの方が眩しい。
いつまでも。
いつまでもこうしてふたりでいられたら。
ふたりで一緒に出かけたある一日。
ふたりで一緒に同じ夕暮れを見た一日。
私の胸に温かい何かが宿った一日。
そんな幸せを味わった横濱での一日。
〜 並び居て 胸ときめくは 恋の街
煌めく夕陽 君と見る夢 〜
それから間もなくのことだった。
父が私に縁談を持ってきたのは。
◇◇◇
夜風が私を現実に引き戻す。
庭に見えていたはずの貴方の姿が霞む。
見ていたのは
静かな夜の庭の木々が音もなく佇む。
花々も眠っている。
さまざまな花々が四季を彩る庭、ふたりで過ごした忘れられない想い出の数々。
魔法の色水。
紫陽花の花冠。
「お兄様」
「お兄様」
いつだってそばにまとわりついてはしゃいで遊んだあの頃。
いつからかその想いは胸をしめつけるようなときめきを伴うようになっても。
嬉しくて。
楽しくて。
そんな幸せな記憶がいくつもそこの庭につまっている。
同じ庭にまさかこんな辛い真実が埋め込まれていたとは思いもしなかった。
手に手をとっての逃避行なんて物語の中や遠い世界でのこと。
それも逃避行だなんてお互いの想いが通じ合っていてこそのこと。
有り得ないことまで妄想してしまう自分に少しだけ笑みがこぼれる。
そう
有り得ないこと
もうそんなことは望まない
想いが叶わなくとも
気持ちを告げなくとも
あの庭で一緒に過ごせたら
この花が咲いたわね、とか
あの木は蕾をつけたのね、とか
あのお部屋にいられたら
これが新しい作品?
素敵な色ね、なんていう名前の色なの?
そんな他愛もない話ができるだけでいい
朝におはようと
夜におやすみなさいと
いいお天気ね
今日は暑いわね
今日は雨なのね
随分と寒くなってきたわね
お体は大丈夫?
お辛いところはない?
お苦しくない?
お兄様
お兄様でいい
かりそめの兄妹という関係でいいから
ずっと一緒にいたかった
◇◇◇
「お兄様これ」
先刻この家での最後の夕食のあと、お兄様の部屋の戸を叩いた。
「お誕生日にはまだ早いのだけれど、差し上げます」
差し出したのは組紐のかかった小さい立方体の桐箱。
「ありがとう」
お兄様は目を細めて受け取ってくださる。
「いただいた櫛、大切にしますね」
お兄様からいただいた宝物です。
「ありがとう。僕も大事にするよ」
そんな風に言ってくださって嬉しい。
「ありがとう。お渡しできてよかったわ」
これでいい。これ以上のことは言ってはならない。
「
めぐみ。今まで何度そう呼んでくださったのかしら。
「はい」
もう一度呼んで。
「幸せに」
そんな言葉じゃなくて、もう一度呼んで。
「……ありがとうございます。お兄様も」
違うの。言いたいことはこんなことじゃないの。
「
もう一度。
「……」
もう一度呼んで。
「……」
耳に残すから。その声と言葉を。
目に焼き付けるから。その微笑みとお姿を。
心に刻み込むから。貴方との想い出を。
だからお願い、もう一度だけ私の名前を呼んで。
◇◇◇
贈った懐中時計に
ありったけの想いをこめた
決して言葉にできなかった想いをすべて
それをお兄様が持っていてくださると
それを願って生きていく
いただいた櫛を握りしめ
その櫛で髪を梳き
額にあてて生きていく
この櫛だけは生涯をともに
肌身離さず生きていく
いつしか
月は去ってしまった
花の香りが春風に少しだけ
漂ったような気がした
夜が明ければ
爛漫の春
〜 巡る月 想ひとどめん
君に捧げし 懐の
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