恐怖

 目を覚ますと、大粒の汗の滴が次から次へとわたしの頬から流れていた。恐怖のために、わたしはせわしなく目をギョロギョロと動かして、ようやく自分が夢から脱したことを知った。現実に戻ることができて安らぎを感じながらも、わたしは荒く息を吐きながら、自らの身体の震えを止めることができなかった。わたしは、自分自身が何かわけのわからない不明確なものに触れて反射的に怯えていることをおぼろげながらも感じることができた。

 奇妙なことに、わたしは自分が見た夢の内容をほとんど覚えていなかった。ただ、妖艶な少女の白い顔だけは脳裏の奥底にこびりついていた。汗ばんだ体を小刻みに震わせながら、しばらくの間わたしは自身の脳に残存する少女の輪郭を部屋の天井の表面に映し出していた。

 何が恐ろしいのか。

 わたしがいま認識できるだけの記憶の材料を照らし合わせれば、わたしが見た夢は、いわば現実世界において望んでいた情景そのものであったはずだ。理想。桃源郷。現実には存在しないが、そう願うだけの世界。均整のとれた、きれいな愛おしい顔。人生のすべての喜びと幸福をひとつに凝縮したような微笑み。少女の顔のどこにも恐怖を感じる要素などありはしなかったのに、わたしはなぜ怯えているのだろうか。

 そうして冷静に、きわめて客観的に自分自身を分析していると、いつしかわたしの体の震動は消え、日常的なリズムと落ち着きを取り戻し始めていた。わたしは布団から出て立ち上がり、よどみなく動き続ける時計の針を見つめた。七時を指している。これから繰り広げられるわたしの恒常の生活ー味気はないが意味を持つ毎日ーの予定が、非現実的な妄想からわたしを解放した。ほっと息をついて、何の情動も起きない機械的な行動の連続にわたしは身を委ねた。

 布団をたたみ、パジャマを脱いで新品の高校の制服に着替える。わたしの部屋が位置する二階から一階へと下る。一階の洗面所で顔を洗う。リビングに行くと、朝早く起きている母がテーブルの上に朝食を並べている。母と話をしながら、目玉焼きをほおばる。少し遅れて父と妹が我が家の朝食会に参加する。冗談を交えながら笑顔で家族と話す自分がいる。朝食が終わるとまた洗面所に戻って歯をみがく。外出の用意ができたら玄関先で靴を履く。父や母に「行ってきます」と元気に言う自分がいる。妹と一緒に外を出て学校へと向かう。妹は新しい中学校の制服を着て幾分うれしそうだ。スキップをしながら、手提げかばんを体の前と後ろ交互に揺らしている。それも無理のないことだ。今日は、妹が中学校に入学してから初めての登校日であった。今までとはまったく異なる新しい環境が彼女の眼前に広がっているのだ。彼女の顔は緊張と歓喜の入り交じった感情から紅潮し、体はその内なる心のくすぶりを最大限まで吐き出し、縦横無尽だ。跳んだりはねたり一回転したり。そうしたひとつひとつの可愛い仕草が、わたしの意識の表面に未だに居座りつづけているあの夢の恐怖をいくらか和らいでくれた。

「こうしてみると、お前もまだまだ子供だな。」

わたしはわが娘を見るような目で妹を慈しんでいた。優し気な風が、わたしの意識をつらぬく。

「そりゃ、落ち着きもなくなるよ。登校初日だもん。」

妹は下からわたしの顔をのぞき見る。ピンク色に染まったほっぺたが東の太陽に照らされて白と黄色が交差する光の点を内包している。彼女は少し得意げにいたずらっぽくわたしに話しかける。

「お兄ちゃんだって涼しげな顔しているけど、登校初日なんだからちょっとは不安なんじゃない?ほら、けっこうお兄ちゃんって人見知りでしょ?」

「俺はお前よりずっと社交的だって。はじめて人に会うときなんか、お前は昔からずっと一言も話さず俺の後ろにくっついてもじもじしてたじゃないか!」

「そんなの、あたしが小学生の頃の話でしょ?もうわたしは中学生なの!おとなですー」

そう言って妹は少し胸を張った。そうすることで、自分が尊厳のある別の存在にすっかり変わってしまったことを誇示しているようであった。わたしはわざと不服な顔をして妹の白いほおをつねる。妹はやめてと言ってわたしの手を振り払う。わたしは振り払われた手を妹の首の後ろにつけた。冷たいわたしの手のひらが妹のあたたかな体から熱を吸い込んでいく。妹はちびたっと言って(おそらくは冷たいと言ったのだろう)、振り向いてわたしの親指を噛んだ。わたしは激痛を感じてとたんに手を引っ込める。手には歯形のしっかりとした痕跡が残っていた。

「お兄ちゃんの手のひらってなんでそんなに冷たいのかなぁ。ほんとびっくりするからやめてよね、そのいたずら。あと気持ち悪いし。」

わたしはごめんごめんと言って妹の髪を撫でようとしたが、その手も振り落とされてしまった。

 こうしたわたしと妹の他愛のないやりとりは、何重にも紡ぎ合わされた無数の糸となって、朝のあたたかな日差しに反射して輝いていた。わたしは日常の形式的な儀式を通じて、現実にぴたりとはまる感情の型で自らの心を満たすことができた。しかし、本当にそれが正気ということなのだろうか?妹の笑顔を楽しそうにながめながらも、心の奥底でわたしは山の断崖から飛び降りてどこまでも落ちていく自分自身を見つけだしていた。はてしなく続くあのジレンマーらせん状に下っていく自問自答の嵐ーをまた繰り返していた。わたしのこころを巣くう不安はそこにあった。内容は思い出せはしなかったが、わたしを襲うこの恐怖は、まぎれもなく常に自分自身の思考の中にあることをわたしはここでやっと自覚することができた。あの少女の顔が恐ろしいわけではなかった。あの少女を通じて、わたしの中に形作られたなにかの意識が、いやおうもなくわたしに恐れを感じさせるのであった。

 真に恐ろしいのは、わたしの内部にある、あの観念である。

 あの忘れてしまった観念がわたしを苦悩の迷宮に誘う。あの少女の顔が、あの夢が、現実ではなく幻であるなんてことを誰が言えるのか?一体あの観念が狂っていて、現在この世界にいるわたしの表向きの感情の表面が正常だなんて誰が言えるのか?そして最大の恐怖は、わたしがこの世界で「狂っている」と判断するであろうあの忘却された観念を、ひとえに間違っていると結論できるいかなる証拠も、わたしは持ち合わせている気がしなかったということである。

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