ごきさんを見つけた日

「あ、ごきぶりだ」


 簡易な掃除用具を格納している物入れ。さっきちょっとばかし入用になったので拝借した箒をしまおうと用具入れの扉を開いたら、真正面奥の壁をゴキブリがもしゃもしゃとはっていた。テカテカと艶のある茶羽。体長と同じ長さまで伸びた触角を上下に揺らしながら、ゴキブリは素早く動いていって隠れてしまった。

 ゴキブリなんて久々に見たわ、と思いながら用具入れの扉を閉める。この屋敷は広いけれど、手入れだけは隅々まで行き届いているから、廊下なんていつもピカピカだ。ちりひとつ落ちていない。そんな場所にゴキブリが入り込む隙なんてなさそうに見えるのだが、実際に屋敷内に生息しているのは、この屋敷が自然に囲まれた田舎領地にあるのが一因かもしれない。

 まぁ、その辺はどうでもいいか、と用具入れを離れる。ふと視線を上げると同じ部屋内にいた侍女の娘二人がそろってわなわなと口を震わせていた。

「お、奥様!」

「何?」

「だって、ご、ごき、ごき……!」

「ごきぶり?」と問うと彼女たちは悲鳴を上げた。「絶対に絶対に、その扉を開けないでください!」と掃除用具入れから目をそらして、訴えてくる。

 彼女たちの慌てっぷりは、種を異にはするものの、どこか親友の姿に通じるものがあった。目の前にある可愛らしさがすごく懐かしいもののように見える。

「大丈夫よ。もう扉は閉めたでしょう」

「けど、カザリアさん。きちんと退治しておかないとそのうち出てくるんじゃないでしょうか?」

 ロウリィが彼女たちの横でぽややんと言った。害のなさそうな彼の言葉は、はっきり言ってどこまでいっても余計なものだ。

 侍女の二人の顔はさっと青ざめる。

「そ、そうですよね……退治しなければなりませんよね」

 私たちが、と彼女たちは泣きそうな声で呟いた。この場にいるのは、私とロウリィと彼女たち二人。当然、退治するとなれば侍女である彼女たちの役割となるのだが――なんだかリシェルに見えてしまう二人にそんなことさせられるわけがありません。

「そう言うなら、ロウリィがやっつけなさい」

「ぼ、僕がですかぁ!?」

 我が夫は名指しされたことが心底意外だとでも言うように目を丸くして、何とも情けない表情を見せる。

「言いだしっぺがやるのは、どこの世界でも共通でしょう?」

「そんなこと聞いたことありませんよ」

「私は聞いたことがあります!」

 ええーと不平をこぼしながら、ロウリィは目を掃除用具入れに向ける。が、彼の蒼い双眸すぐにこちらに向き直った。

「僕には無理です!」

 真剣な面持ちで、彼はきぱっと言いきった。

 だから、こういうときに限って、きっぱりはっきりと断言するな!

「カザリアさんの方がきっと適任だと思いますよ。先ほども華麗に箒で刺客を払っていたではないですか。カザリアさんの技をもってすればゴキブリくらい一瞬で叩きつぶせますよ」

 彼はうんうんと一人頷いた。

「ロォォォリィィィィィ! あなたは一体私をなんだと思っているんですか! 一応、名のある家の令嬢だったんですよ!? ゴキブリなんか退治したことすらありません!」

 大体、箒で刺客を払わざるを得なかったのは、「まねしようと思ったんですがやっぱりうまくいきませんねー」とか言ってあなたが足払いに失敗したからでしょうが。せっかく助けてあげたのに、恩を仇で返すとは。

「あ、それ、僕も同じです。一応名家の子息でしたからゴキブリなんてやっつけたことないです」

 だからやっぱり無理ですねーとロウリィはぽやぽやと続けた。

「カザリアさんは、さっき平気そうだったじゃないですか」

「だって、さっきのは歩いてただけだもの。見る分には平気よ。そんなに気持ちがいいものじゃないけど」

 自分の方に飛んできたらさすがに怖いだろう。だが、それはバッタが急に飛んできたらびっくりするのとあまり変わらないんじゃないだろうか、と思う。結局はどっちも虫なのだから。

 でも、退治するとなるとつぶさなきゃならない。あの大きなゴキブリがどうやってつぶれるのだろうとか、つぶれた時の感触を想像するだけで気味が悪いのは仕方がないことだと思うのだ。それをこなすのは、さすがの私でもちょっとばかし勇気がない。


 四人そろって、じーっと用具入れの様子を窺う。扉はぴったりと閉まっているので、中がどうなっているのかは分からない。物音が聞こえないだけで、ゴキブリは今もカサコソと動き回っているのかもしれない。

 ちらと横目で侍女二人組を見やった。不安そうな顔をしている彼女たちにはやはりこんなことを強制するのは忍びない。

 それでは、と反対側、ロウリィの方を見やってみるのだが、どこからどう見ても頼りない。退治するには、一体何日かかることだろう。私から、ロウリィに退治しろと言ったのはいいが、実際問題よく考えてみるまでもなく、彼には無理に違いない。

 ということは、結局私しか残らないわけで。

「……うぐぅ」

 や、やりたくないやりたくない。

 どこまでも遠慮したい。できれば、今後も退治の仕方を知らずに生を全うしたい。

 遠くから見る分はいいけど、自ら近寄って、しかも、たたかなければいけないなんていやすぎる。

「――ろ、ロウリィ、私が、」

「はい、もうこのままにしておきましょうかね。それが一番の平和的解決策です」

 ロウリィはぽややんと笑ってそう言った。

 よかった。助かった、と安堵が大きかったせいか、長い息を吐いてしまった。

 これで万事解決である。

「きっとそのうち勝手に出て行ってくれるでしょう」

 ロウリィの言い方はどこまでものんびりとしていて穏やかなものだった。

 しかし、この夫の言葉で、はたと我に立ち戻る。

 なんだかこれに似た言葉をさっき聞いた覚えがあった。

 思い出したとたん、ふつふつと小さな怒りが込みあがってくる。

「ロウリィ! あなたがほっといたら出てくるなんてこと言うから……!」

 あんなこと言われなければ、悩むまでもなく掃除用具入れはしっかりと閉めたまま、退治しようなんてことにはならなかった。つまり、初めっからこうするつもりだったのだ。

「そうでしたっけ?」とぽやんと首をかしげるロウリィは、うそぶいているのか、はたまた、本気で忘れてしまっているのかすらわからなかった。

 

 結局、この掃除用具入れは一カ月の間、開かずの用具入れとなったのである。

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