第81話《隠神様》-16-


 俺の名前は飯田カズヨシ。

 あ。

 死んだ、俺。

 と、マジで感じた今年三六歳の高校教師だ。


「うあああああ!」


 なんの前触れもなく。

 宙に逆さ吊りになった。

 わからない。

 突然、目の前の世界が高速に動き回った。

 状況が理解できず。

 俺は悲鳴をめいいっぱい上げることしかできなかった。


「△繧?k? 繝溘Φ繝△励※鬟溘▲縺ヲ繧?k繝懊縺ゥ繧みみみみ△繧?k? 繝溘Φ繝△励※鬟溘▲縺ヲ繧?k繝懊縺ゥ繧みみみみみっとととととととともなななななないでてでてですよぉおおおお。先生」


 意味不明な怪鳥音の中から、人の声が混じって聞こえた。

 聞き覚えのある声だ。

 まさか。


「し、椎名か!」


「せぇんええせえええい。こ、こ、こ、こん、こんばばばはbababaぱんわ」


 壊れたラジオの音声のように、声に雑音が混じって聞き取りづらい。

 だが、間違いない。

 この声。

 椎名ユヅキだ。


「たただだだいいいのおおおおとなななながががが、ひひひとままええででささけけぶぶななんんててははずずかかししいいでですすよよ」


 地面に落ちた。

 背中からどすんと落ちた。

 と、思ったが。

 落ちた瞬間、どぽんと音が聞こえた。

 水面に落ちたみたいに、柔らかく包み込まれる感触があった。

 地面……?

 いや、違う。

 これは。

 スライムの中だ。

 俺の体は、さっき、スライムのバケモノの表面に落ちたのだ。

 そして。

 今。

 スライムのバケモノに体を取り込まれている。

 まるで底なし沼に落ちたかのように。

 ズブズブと体が落ちている。


「先生。気持チイイヤロ?」


 スライムの一部がにゅうっと俺の前にせり伸びてきた。

 俺の前にせり伸びてきたスライムが、人の顔の形に変形し、やがてユヅキの顔に変化した。


「最初ハスゴク怖カッタ。暗イ穴底ニ落チテ、【隠神様】ガアタシノ体ニ入ッテキタ時ハ。トテモ怖カッタワ」


 ぐるっと、ユヅキの首が俺の周りを一周した。

 顔はユヅキで、顔以外がスライムのバケモノ。

 めちゃくちゃシュールだが、全然笑えない。


「セヤケド、【隠神様】ト合体シテ、何モ怖イモノナクナッタワ。ホンマ、ナクナッタワ。ナァミンナ」


 ユヅキが声をかけると、スライムの表面から何かが浮き上がってきた。

 人の顔だ。

 それも一つだけでではない。

 何人もいる。

 ざっと数えて五人。

 五人とも見たことのある顔だ。

 こいつら。

 うちのクラスの生徒だ。

 若菜チヒロの取り巻きたちだ。


「ああああ」


「助けてえええ……」


 チヒロの取り巻きの女の子たちは、苦悶な表情を浮かべ、各々が悲痛な呻き声を上げている。

 苦しい。

 助けてほしい。

 表情と声からそれが伝わってくる。

 その様子を見て、チヒロはにんまりと満面の笑みを浮かべた。

 

「ミンナ、コレデ友達ヤナ。ズット憧レテタネン。何デモ腹割ッテ話セル友達ガ欲シイッテ」


「し、椎名。やめろ」


 下半身を取り込まれていたのが、いつのまにか肩の位置まで取り込まれている。

 身動きが取れない。

 スライムから脱出しようともがけばもがくほど、体がスライムの中に沈んでいく。


「ソレニシテモ、小島サン。アンタ、ケッタイナ奴ニ取リ憑カレタンヤナ」


 もこもことスライムの一部が隆起した。

 隆起した先端には、への字に体を曲げてぐったりするハツナの体が吊り下げられている。


「小島! おい!」


 ぴくりとも動く気配がない。

 まさか。

 死んだのか。


「カワイソーになぁ。どーせ守ってもらうなら【隠神様】にしてもろてたら、こんなことにならんかったのに。ちんけなバケモノに寄生されなかったら、もっと長生きできたのになぁ」


 ユヅキがハツナの体を自分の顔の近くまで運んできた。


「ええ加減、死んだふりはやめときー、小島さん」


 スライムの細い触手が、ハツナの首をぐるぐるに巻きつき、強制的にハツナの顔を上げた。

 もはや、顔の半分どころではない。

 ハツナの顔のほとんどが、どろどろの液状に溶けてしまい、醜い肉の塊ののっぺら坊のような貌になっていた。


「虫の息なところ悪いんやけど、ちょっと死ぬ前にあんたに聞きたいことがあるって【隠神様】がいうてはるねん」


 ユヅキが骸骨の顔を下から覗くように顔を近づけた。


「あんた。なんでうちの村に来たんや? 何が目的やったん?」


 かち。

 硬い物体がぶつかる音が聞こえた。

 かちかちかち。

 小刻みに硬い物体がぶつかる音が連続であたりに響く。

 ハツナの骸骨の上下の顎が動いている。

 上下の歯が噛み合う音。

 喋っている?

 何かを話そうとしているのか? ハツナは。


「なんや? なんか言いたいことあるんか?」


「ぁひぃはぁと」


「は?」


「ありがとう……」


 ハツナの右手が、ユヅキの顔面を掴んだ。


「へ?」


 一瞬だった。

 残ったハツナの左手がユヅキの口の中にねじ込まれ、あっという間にユヅキの喉奥から何かの物体をハツナは引っこ抜いた。


「ほんと、死ぬかと思ったよ。ありがとう」


 ハツナの顔が、みるみるうちに肉がつき、逆再生するかのように元の形に戻っていく。

 左手に掴んでいるのは、くしゃくしゃになった黄色い紙。

 なんだあれは。

 あれを手にした途端、ハツナが復活した。

 一体、どういうことだ?


「このポスター、材質はわからないけど、かなり『頑丈』なの」


 燃やすこともできないし。

 破り千切ることも。

 ましてや。

 バケモノの腹の中にあっても消化もできない。

 そうハツナはいった。


「死ぬ一歩手前で、『射程距離』に入ることができたのはよかった。マジ感謝だよ椎名さん」


「ぐ、ぐが……」


 ハツナに喉奥に腕を突っ込まれたおかげで、ユヅキの下顎がぷらーんとぶら下がっている。

 ぎろっとユヅキがハツナを睨みつけた。


「くそ女……」


 スライムの表面から、数え切れない数の触手がロケット噴出みたく飛び出した。

 飛び出した触手は、ハツナの四肢を瞬く間に縛りつけ、身動きがとれないように雁字搦めに拘束した。


「ぶっ殺してやる!」


「ごめん、無理」


 冷静な口調でハツナはつげた。

 俺は自分の目を疑った。

 スライムの触手が。

 いや、触手だけではない。

 スライムの表面のすべてを包み込むように、白い泡が湧き出した。

 いや、泡ではない。

 生き物だ。

 白くて小さい生き物の群れ。

 まさか。


「なんやこれぇえええ!」


 ユヅキが悲鳴を上げた。

 悲鳴と同時に、俺の体を取り込むスライムがみるみる溶け始めた。

 蛆だ。

 スライムの内側から大量の蛆虫が湧いた。


「もう終わりだよ。椎名さん」


 ぼろぼろとスライムの体が砂の山のように崩れていく。

 スライムの触手から解放されたハツナは地面に降り立ち、崩れ落ちていくユヅキを、スライムの巨体を見上げた。


「こ、小島」


 スライムの体から解放された俺は、咳き込みながらもハツナの元に駆け寄った。

 制服もぼろぼろに破れ、血まみれ蛆まみれになっている。

 ハツナは露わになった胸元を腕で隠して、「先生」とつぶやいた。


「大丈夫ですか?」


 それはこっちのセリフだ。

 大丈夫なのか?


「ああ、あたしは平気です。この通りピンピンしてます」


「一体、なにがどうなっているんだ。さっぱりわからんぞ」


「まぁ話すと長いんですよねぇ」


 ぞわっと鳥肌が立った。

 夥しい数の蛆に侵食されたスライムの塊。

 ハツナの背後に回り、獣のような喉を鳴らしている。


「小島! うしろ!」


 ハツナが振り返った。

 スライムがハツナの頭上目掛けて襲ってきた。


「お座り」


 ハツナが地面を指差す。

 スライムの軌道が、ハツナから大きく逸れ、地面に激突した。


「ナ、ナンヤト?」


 お好み焼きやクレープのように、スライムの体がべたっと地面に広がった。

 広がったスライムの端に、ユヅキの顔が露出し、驚いた顔でハツナを見上げた。


「いったでしょ。もう『終わり』だって」


 ハツナは腰を落とし、ユヅキを見下ろした。


「【蛆神様】は《あたしの味方》なの。傷ついた体を治してくれるし、あたしを殺そうとする敵も『排除』してくれる」


「ど、どういうことやねん」


「よーするにこういうこと。【蛆神様】は土地に棲む神様。この『ポスター』の半径五メートル以内にいる限り、あたしは『無敵』だってこと」


「ちくしょう……」


 ユヅキが悪態を吐いた。

 スライムの表面に、水が沸騰するかのごたく大量の蛆が湧いた。

 ユヅキの顔が、蛆たちの中に埋もれ、やがて見えなくなった。

 それから数秒もしないうちに。

 蛆まみれのスライムは、瞬く間に硬質化し、濁った泥になった。

 蛆も消え、スライムはただの土になっていた。


「守ってもらう神様を間違えたね。椎名さん」


 ハツナはぼそりとつぶやいた。

 静寂があたりを広がった。

 寂しげな表情を浮かべるハツナは、ポスターを強く握りしめ、地面を見つめ続けていた。


続く

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