第50話もはやキスをする場所

時間は夜中の3時過ぎ、季節は6月だった。

夏至を目前に、3時過ぎの空は既に白み始めていた。


僕が一番好きな空の色だ。


梅雨明け宣言が発表されたばかりだったし、

今日も雨の心配は無さそうだ。

繁華街の裏路地にあるその場所で

どうしようもなく酔っ払った僕等は唇を重ねた。

今まで経験したことの無い、唇の柔らかさが印象的だった。

その場所を人々はこう呼んだ。

もはやキスをする場所


キスをし終えた後、女が教えてくれた。

世の中には2種類の不幸しか存在しない。

金の無い不幸と金のある不幸



僕がこれまで歩んで来たのは金のない不幸の方だった。

そう思う。

優子の方は当然、金のある不幸だ。

そう思う。


誰しもが羨むような美貌と、巨万の富を手に入れた女。

しかし、彼女は彼女自身の人生に満足している様子はなかった。

そんな彼女も中に地獄を抱えて生きているのだろうか。

彼女が抱えるのはどんな種類の地獄なんだろうか。

やはり優子の眼から見る世界にあっても

隣の芝生は青く見えているのだろうか?


16歳年の離れた男に車を買い与えようとすることは

やはり不幸な女のすることだろうか?


「富乃宝山と、いいちこを」


優子が大将を呼んでそう言っていた。


僕の頭は混乱した。

富乃宝山が飲みたいと優子に言った筈はないのに

何故、僕が富乃宝山を欲していることを優子は知っているのだろう?

これこそが以心伝心というやつだろうか?

やはり僕と優子の間には特別な何かが存在するのだろうか?

思い切って聞いてみた。

「何故、僕が富乃宝山を飲もうって思ってたのがわかったの?」

優子は何も言わず、「空いた口が塞がらない」を絵に描いたような表情で僕を見

ていた。きっかり3秒間。

その3秒間、すべてが静寂という名の闇に包まれたような気がした。

葬式で棺桶の上に立って裸踊りをする人を眺める周りの空気という趣があった。


「自分で言ったじゃないの」

やっと落ち着きを取り戻したように、いつもの素敵な笑みが戻ってきた。

「僕が?」思わず言葉を失った。

「そうよ、アナタが“次は富乃宝山にしよう”って言ったのよ」

「そうか」抑揚の無い声だと自分でも認識出来た。

心で思ったことをそのまま言葉にしてしまったみたいだった。



「それで?今度の金曜日に、ナカちゃんの旦那の店に行って

契約してこようと思うんだけどそれでいいわね?」


「色はパールホワイト、サンルーフ付の左ハンドル。間違いないわね?」


「色はパールホワイト、サンルーフ付の左ハンドル。確かに。」


僕は同意した。もし買うなら…という仮定の下に詳細なイメージを優子にも伝えてあった。

優子はちゃんと覚えていたのだ。


大将が富乃宝山と、いいちこのグラスを持ってきてくれた。

僕は軽く頷いて、富乃宝山が注がれたグラスを受け取り

大将は空いたグラスを下げた。


優子は、いいちこの注がれたグラスを左手に持ち

僕の方にそっと近付けながら

「アナタの決意に乾杯」と言ってウィンクした。


僕は乾杯を無視して、グラスの3分の1ばかりを一息で飲み干し

深い溜め息とともに、頭を振った。


「わからない。」


「ねぇ、僕は曲がりなりにも、ホンダのディーラーで働いていたんだ。

だから、車のことに関しては、普通の人より知識もあると思う。

でも、君の言うような、他人名義の車を自分の名義のようにして

乗れる方法があるなんて聞いたこともない。」



優子はとても不思議そうな顔をして、煙草を吸おうか吸うまいか迷っていた。

5秒ほど経って結局、吸わないことにしたようだった。

その代わりに、いいちこを一口飲んだ。


「悪くないわ。いいちこって。けどアナタと知り合わなければ

いいちこの良さを知らずに人生を終えていたかもしれないのよ。」


優子に似合うのは、ヴィンテージワインかシャンパンというところだ。

そして僕と出会うまでは、実にその通りの酒の飲み方しかしたことがなかったようだ。

焼酎さえ飲んだこともなかったんじゃないかと思う。

優子がこうして、僕を連れ出してくれたのは、

彼女が今まで見たことない世界を見せてあげることが

僕には出来るからだと言ってくれたことがある。



「そうかもしれない。」

一応、同意してみた。


「私が言いたいのは、そういうこと。つまり…」


彼女は言葉を探すのに時間のかかるタイプなのだ。

それはお酒が入ると更に拍車がかかった。

時間はいくらでもある。焦る必要なんてどこにも無い。

そう言って励ます代わりに、僕は煙草を咥え火は点けずに続きを待った。

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