異世界で奴隷と開業を
佐々木 篠
序章 異世界転移
1話 店長はフラグをへし折って転移する。
如月 朔(きさらぎ さく)は閉店時刻の過ぎた新月食堂の事務所で一人、頭を抱えていた。
「原価率が四十パーセント……人件費率も三十二パーセント……だと?」
カタカタと電卓を叩く軽快な音が静まり返った事務所で響き渡る。その反面、その音を作り出している当の本人は非常に暗い顔をしていた。
(今回は新作の開発のために材料費が高く付くのは覚悟していたが、人件費率まで上がっているとかもう……)
絶望である。本社からファックスで送られて来た紙には『目指せ人件費率二十五パーセント』と書いてあり、特に朔たちの支店は名指しで叩かれている。
ここで人件費を下げる方法は二つしか無い。一つはピーク時やアイドルタイムに於けるアルバイトの数を減らす事。もう一つは時給の高いアルバイトより、時給の低いアルバイトを多く入れる事。
だがそれを行っていないのはそれなりの問題があるからだ。
『先輩、夏休みは彼女と旅行に行きたいんで、ガンガン入れちゃって下さい! ……あ、あんまり稼げないと他のバイト探す事になるんでよろしくっす!』
朔は後輩の言葉を思い出した。彼は働き者で愛想もよく、常連からの評判も良い好青年だ。しかしその分時給も高く設定してあり、今は少々遠慮して貰いたいところではあるのだが……彼がいなくなったらいなくなったで、今度は店が回らなくなる。
特に祝日なども積極的に入ってくれる貴重な戦力を失うのは痛い。
「脅しじゃないですか……でも力無い俺は屈するしか無いっていうね……」
来月の予定が後輩の名前で埋まって行くシフト表を見ながら、朔はそっと溜め息を漏らした。
ちなみに後輩と言っているが朔はまだ高校生で、後輩の彼は大学生だ。ただし朔より後に入ったためその呼び名が定着している。
そして何故高校生である朔がこんな店長の真似事をやっているのかと言うとーーーー
「朔くん、お疲れ様。これお母さんから」
調理場の方からトレイに紅茶を乗せた少女が顔を出す。
日本人らしい黒い髪を染める事なく、肩の上で切り揃えた少女の名前は乙川 愛梨(おとかわ あいり)。ここ、新月食堂の店長である乙川 結菜(おとかわ ゆいな)の娘であり、朔が通う高校の同級生でもある。
「……ハイビスカスティーか。サンキュー」
ほのかな酸味と甘みが疲れた身体を癒してくれる。ビタミンとクエン酸が含まれているため、疲労回復に効果的な紅茶だ。
「……むー」
結菜の紅茶に癒されていると、愛梨がパソコンの画面を見ながらうなり声を上げる。
「どうした? 乙川」
「いやもう、ぜんっぜんこれぽっちも分かんないなーと思って」
「頑張れよ未来の店長」
ーーーー店長である結菜もその跡を継ぐであろう愛梨も、こういった店長業務に不慣れなのだ。
じゃあ何故飲食店を経営しているのかと言うと、元々この店の店長は愛梨の父親だったからだ。そしてそれを結菜が継ぎ、今に至る。
元々の店長は一年前風邪をこじらせて他界したのだが、バイトリーダーとして店長業務の補佐をしていた朔はそのまま業務を引き継ぐ形となり、今に至る。
ここが直営店であれば代わりの店長が来て終わりだったのだろうが、如何せんフランチャイズであるためにそうはいかなかった。無論他店で店長業務に携わった事のある人材を募集したのだが、結果は朔が働いている事から分かる通り惨敗。
「……でもほら、朔くんがこのまま店長業務やってくれれば問題ないんじゃないかなーって」
「……う」
「あ、ごめんね、変な事言って。朔くんには道場もあるしね!」
「いや、道場は継ぐ気が無いからいいんだけど……」
朔の実家は剣道場を経営している。一応教えているのは剣道だが、如月家は源氏の血を継ぐ代々武士の家系であり、希望者にはより実戦的な剣術も教えている。
無論嫡子である朔も準師範代の称号をいただいているわけだが、その生き方は好きにして良いとの言葉を言い渡されているため、まったくもって継ぐ気は無かった。
であれば愛梨の「このまま店長業務を」という言葉に言い淀む必要は無い。無いのだが……。
「雇われ店長ってのはな……」
「何か言った?」
「いや、何でも」
飲食店はどこもブラックだ。特に雇われている側に利点は無い。
愛梨の父がフランチャイズとして新月食堂をオープンさせたのも、単にフランチャイズであれば初期投資が少ないからだ。自分の店を開店する資金があれば最初からそうしている。
故に朔が目指すのは自分の店を持つ事。そしてそこに結菜と愛梨がいれば言う事は無いのだが……。
(一応この店も、お父さんの形見になるわけだし……果たして付いて来てくれるか)
後輩を誘うのは簡単だ。「時給五十円アップ」とだけ言えば尻軽女の如く付いて来るだろう。
だが結菜と愛梨は分からない。二人は自分にとって第二の家族と思っているため、出来れば一緒に働きたい。
結菜の淹れる紅茶は格別だし、愛梨の愛嬌は常連を増やす。だから誘いたい。だけど断られた場合、確実にしこりを残すだろう。二人と気まずくなるのはごめんだ。しかし消費される雇われ店長もごめんだ。
(俺としては作った料理を客が美味しそうに食べてくれればそれで満足だ。……が、しかし。今みたいに他店との売り上げを競わされたりするのはごめん被りたい)
考えれば考えるほど道が塞がって行く事が分かる。
フランチャイズであるが故に、本社が決めたメニューは強制的に出さねばならない。しかし本社があるのは都市部の回転率が高い場所で、安価で次々と客を回す事が前提のメニュー構成となっている。一方、朔たちの店はどちらかと言えば田舎の落ち着いた場所にあり、単価が高い代わりに時間と場所を提供するようなメニューが望ましい。
もちろんそういったメニューを考案していて客の評判もいいが、学生などはどうしても安価なグランドメニューを頼んでしまう。
「うぬぬ……」
「ほらほら、また眉間に皺寄せて……今日はもう終わりにしなよ」
「う、ん。そうだな。今日はもう遅いし」
「そうそう。……あ、肩揉んであげるね」
そういうと愛梨は手の平で朔の肩に触れる。華奢な見た目の割に、鍛えられた筋肉の感触。肩から二の腕に移ると、そこもしっかりとした手応えを感じる。
「すご……い、凝ってるね!」
力を入れて揉むが、親指が痛むばかりで凝りを解せてはいない気がする。
「ちょっと強くするよ!」
そう言うと愛梨は肘でごりごりと肩を抉る。
「う、わ」
朔の反応からいい感じだと思った愛梨は更に体重をかける。だが朔の反応は愛梨が考えているものとは別種のものが原因であった。
(む、胸が、圧し潰されてっ……!)
そうとも知らない愛梨はその反応に気分を良くして更に体重をかける。そして朔は更に悶えるという悪循環。
「も、もういい。乙川、そろそろ帰るから」
「ん、そう?」
「ああ、ありがとう」
朔にとって愛梨は家族のようなものだ。だが胸を押し付けられて平然としていられるような関係でも無い。
若干前屈みになりながらも付けっぱなしだった腰衣(サロン)を外し、帰る準備をする。
「あ、乙川。結菜さんは?」
「……多分お風呂だと思う」
「そっか。んじゃごちそうさまって伝えといてくれ」
カバンとティーカップを持って洗い場に向かう。
そのままカップを洗っていると、後ろから声をかけられた。
「ねえ、朔くん」
「なに?」
「朔くんってお母さんの事名前で呼ぶよね? 何で?」
「何でって、どっちも乙川でややこしいからだよ。他意は無い」
父を亡くした娘としては気になるところなのだろうか? と思いながら他意が無い事を強調する。
「他意は無い……ね。じゃあ私の事も名前で呼んでよ」
「うぇ!?」
思わずカップを落としてしまいそうになるが、なんとか堪えた。
「なに、嫌なの?」
「そういうわけじゃ、ないけど……」
嫌なわけがない。愛梨は客観的に見て美少女だし、性格もいい。気心の知れた仲でもある。
だがそれを知るのは当人と一部の人間だけだ。もしも名前で呼び合う事になればきっと周りは邪推するだろう。
朔と愛梨はクラスが別であるため学校で言葉を交わす事はあまりない。だが全く無いわけじゃない。
学校の人間は朔と愛梨が同じバイト先の仲間くらいの認識だが、名前呼びを始めればそんな単純な仲では無いと思うだろう。そして相手は愛梨であるため、具体的に言えば嫉妬と憎悪と野次馬根性の野郎共がどうなるか……考えただけでも胃が痛い。
ただでさえ気苦労が多いのに、それが更に増えるなんて遠慮したかった。
「じゃあいいじゃない。ねえ、朔くん。名前で呼んでよ……ダメ?」
悲しいかな。美少女に上目遣いで懇願され、否と言えるほど朔は女に慣れていなかった。
「…………愛梨」
空気が悲鳴を上げるような沈黙の中、朔はぼそりと呟いた。いっその事聞き取れなければいいのに、なんて思ったが愛梨はしっかりと耳にしたようで、嬉しそうに破顔した。
「も、もう今日は帰るから! それじゃあお疲れ様でした!!」
返事も聞かずに店を飛び出す。
心臓が高鳴る。それは走った事による酸欠が原因じゃない事は明らかだ。
(もしかして、おとか……愛梨は俺の事が……いやいやいや! そんな馬鹿な!)
現実がそんなに甘くない事は分かっている。むしろ名前呼び程度で認定してしまえば、勘違い乙! と恥をかくだけだ。
(いや、だが、それでも、しかし)
ぐるぐると考えが頭の中を回る。今の朔に周囲は見えておらず、身体が無意識のうちに自宅へと向かっていたーーーーそれ故に。
如月 朔には、迫り来るトラックが見えてなかった。
「ーーーーは?」
反射的に後方へと飛ぶ。それは衝撃を拡散するための動きであったが、その衝撃がトラックの生み出す物であれば誤差でしか無い。
前後左右上下、全てがめちゃくちゃに入り交じる。痛みなんて物は衝撃と一緒に吹き飛ばされてしまい、頭にあるのは「何とかして受け身を取らねば」だった。
受け身を取ったところでどうなるのかという話だが、コンクリートに無防備で叩き付けられるよりかはマシだろう。無論それらは考えたわけではなく無意識の行動だが、残念な事に得意な受け身を披露するチャンスは無かった。
「……ぅあ」
まるで永遠に続くかと思われるような浮遊感ーーーー朔はトラックに吹き飛ばされ、橋から転落していた。
衝撃が和らぎ、下へ下へと落ちて行く。
時刻が時刻だけあり、そこにあるのは綺麗な水面ではなく墨汁のような闇。
「ぐっ!」
そこまで高所から叩き付けられたわけでは無いが、全身がバラバラになるような衝撃が朔を襲う。これでは受け身が取れる分だけコンクリートの方がマシだったかも知れない。
(くそ……身体が……)
動かない身体を叱咤して何とか水面へ向かおうと思い、ふと気付く。
(水面ってどっちだ?)
痛みを無理やり押し込み目を開く。
黒、黒、黒。
何も見えない。身体も満足に動かせない。
(これが……)
息を止める事も限界が訪れていた。ただただ、苦しい。そこに一片の快楽も希望も何も無い。
(こんなモノが、俺の『死』か……!!)
幸せな走馬灯すら流れる事なく、朔はゆっくりと意識を失った。
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