32.フィードの成人

足を止めて、フィードは耳を澄ませた。


「……――っ!」

「……なにか聞こえた?」


遠くで声のようなものが聞こえた気がしたが、周りには誰もいない。

真っ白がどこまでも続く世界。それがフィードの今いる場所だった。


「なにか大切な人の声だった気がするんだけどな……まぁ、いいか」


フィードは緑髪を揺らして首を傾けた後、歩みを再開させる。この白い世界のどこへ向かえばいいのかも分からないまま、ただ歩み続けた。

胸は穏やかさで満ちていた。普通なら見慣れない空間に閉じ込められた時点で、もっと慌てたり恐怖を感じたりすべきなのだろうが、どういうわけかそんな気になれないでいる。


(ここはとても落ち着く)


ここが好き。ずっとこの場に留まりたい。

ここにいれば――すべてを忘れられる。

再び、フィードの足が止まった。


(今、オレなにを考えた?)


忘れられる、ということは、忘れたいなにかがあるということ。そして忘れたいことは大概、忘れてはいけないことと一致する。


「…………ドッ!」


また。またなにか聞こえた。

穏やかにいでいた心が、小さく波立つ。不安にあおられ、せわしなく左右に視線をやるが、瞳に映る色は白ばかり。


「……フィードッ!」

「っ! ラックッ?」


そうだ、ラックだ! ラックが自分を呼んでいるのだ。

空っぽで軽かった胸の内に、大きな質量を伴って黒い雨が降り注ぐ。雨は急激にフィードの体温を奪っていった。

罪の記憶が蘇る。忘れたいけれど、決して忘れてはいけない、友の人生に傷をつけた自分の行為。

丸みのあるフィードの瞳が苦さを伴って歪んだ。


「ラック……すまない」

「――それは過去に対する謝罪か? それとも未来に対する謝罪か?」

「っ、誰だ! ……って、オレッ?」


障壁をへだてて聞こえるラックの声とは違う、クリアな声がフィードの真後ろから聞こえた。反射的に振り向いた先には――フィードが立っていた。緑色の短髪、どんぐり眼の童顔。見慣れた自分の姿である。

彼は自分の姿を見下ろして頷いた。


「ふむ、なるほど。この場所は肉体の姿が反映されるというわけか」

「ふむ、じゃない! なんなんだお前は! なんでオレの姿をしているんだ!」

「俺はもうすぐお前になる」

「意味が分からんっ!」

「分からないか? なら思い出してみろ。ここに来る前、なにがあったかを」

「ここに来る前? ここに来る前って……あ!」


真っ先に浮かんだのは、どアップの優の顔。抵抗虚しく唇を奪われ、口移しで魂を飲まされたのだ。

記憶を刺激され、鳥肌が立つ。


「オエェェッ!」

「思い出したようだな。しかしえずくほど前世の魂を拒んでいたのか……」


なぜかもう一人のフィードは悲しそうな表情を見せた。フィードに吐き気をもよおさせたのは口づけの方であり、魂そのものではないのだが。

そんなフィードの内心など知らない彼は、咳払いをして悲しげなその表情を振り落とした。


「俺こそが……フィード――お前の前世だ」


意味を理解するために、一拍間があく。


「はぁっ? ……ってことは……お前玲音かっ?」


フィードが口に突っ込まれたのは玲音の魂だ。だから半ば確信を持って訊いたのだが、予想を裏切り彼は首を横に振った。


「俺の名はグレイグルンド」

「ほう、玲音じゃなくてグレイグルンド……はぁっ? えっ? グ、グレイグルンドだってっ? ……マ、マジでかっ?」


聞きたいことがあったはずなのに、英雄を名乗られた興奮に負けて、思考能力が低下する。


「グ、グレイグルンドってあんた……時と場所の亀裂に飲まれたっていう……」


そこまで言って、玲音の言葉が頭に浮かぶ。彼も時と場所の亀裂に吸い込まれたと言っていたではないか。

玲音だと予想した相手はグレイグルンドを名乗った。玲音とグレイグルンド、二人に共通する奇妙な符号。

引っかかりを覚えたが、グレイグルンドが小さな笑い声を発したため意識が彼に移った。


「よく知ってるな。俺が英雄になったというのは本当らしい。外の二人にも驚かれたよ」

「外の二人?」

「公安局の男と」

「フィード!」


ラックの呼び声がグレイグルンドの声を遮った。微かに顔をしかめたフィードに、グレイグルンドは慈愛の笑みを浮かべて優しく言う。


「――お前の親友だよ」

「親友……」


昨日までなら肯定できた言葉なのに、今のフィードには無理だった。前世の魂の消失は、変わらず親友を名乗れるような軽い罪ではない。

顔に陰りを見せたフィードに、グレイグルンドは近づいてぽんと肩を叩く。


「友が待ってる。早く行ってやれ」

「行けない。顔向け、できない」


フィードが泣きそうになりながら言う間にも、ラックの声が遠くで聞こえた。最初よりも鮮明で、より必死な声音になっている気がする。


「行けよ。いつまでもここに閉じこもってるつもりか? いい加減にしないと、俺が完全にお前の身体を支配することになるんだぞっ!」

「……好きにすればいい」


投げやりな答えに目を見張ったグレイグルンドは、直後に硬く握った拳でフィードを殴った。


「ッグ……なにすんだっ?」


顎に入ったせいで足から一気に力が抜け、床にへたり込むことを余儀無くされる。

顔を上げたフィードの胸ぐらを、グレイグルンドがつかんで素早く引き寄せた。


「ふざけるなよっ!」


間近でグレイグルンドの表情を見たフィードは言葉を失った。なぜだか、彼は泣きそうな顔をしているのだ。


「未来を奪った相手から、今度は友人まで奪うつもりかっ! なぜ相手がどんな思いをするか想像しないっ!」

「……っ!」

「フィードッ! ……フィードッ!」


合間に聞こえるラックの声が、鋭くフィードの胸を突く。


「まさかこの必死な声を聞いた上で、それでも友がなにを望んでいるか分からないなんて言うわけじゃないよなっ?」


馬鹿を言うな、とフィードは思う。ラックの声は真摯しんしで、それでいて切ない。この声を聞いて、自分がうとまれているだなんて思い込めるはずもなかった。


「友はお前と一緒にいる未来を望んでるんだろっ! お前には友の望みを叶えるチカラがあるんだから、臆病風おくびょうかぜに吹かれて逃げてんじゃねぇ!」


逃げるなと言われて初めて、フィードは自分が逃げていたことに気がついた。


――ラックはオレの顔を見たくないだろう。


そう思い込んでいた。けれどそれは、ラックがフィードを求める声で否定される。

正しくは――オレがラックの顔を見たくない、だ。

この先ラックの姿を見るたびに、フィードは罪悪感に苛まれるだろう。フィード自身気づかぬうちに、それを感じ取って逃げようとしていたのだ。

しかし気づいてしまったからには、もうそのまま進むことはできない。


「オレ……」


力の抜けた声でフィードは言った。


「生きるよ。生きて、ラックのためになにができるか考える」


グレイグルンドの手が離れ、中途半端に浮いていたフィードは床に腰を下ろした。脱力して、そのまま床を見つめる。


「ラックが望む限り、オレは奴のそばにいる」

「そうか。……じゃあ最後に一つ、アドバイスだ」


なんだ、とグレイグルンドを見上げた瞬間、頬を左右に引っ張られた。


「隣に立ってる奴にこんな辛気臭い顔されたら、たまんねーよ。……笑ってろ。それもお前の義務だ」

「ふぁあう……」


フィードは友達を傷つけてヘラヘラと笑っていられるような悪魔ではない。けれどグレイグルンドの助言が的を射ているのも理解できるわけで。


「ふぁあっへいへうは」


笑ってみせるさ。そう告げると、グレイグルンドは頬を解放した。


「その言葉、忘れるなよ」


そう言ったのを合図にして、グレイグルンドの身体が輪郭りんかくを失った。あまたの光の粒となり、フィードの身体に入り込む。

五百年ぶりの前世と現世の魂の融合。身体に広がる優しい温かさに、フィードはうっとりと身を任せる。

目を閉じていると、ふとまぶたの裏に映像が映った。


(あぁ、これはグレイグルンドの記憶だ)


グレイグルンドの生きた足跡そくせきを、眺め、受け入れていく。長い人生の中で、彼はいつも誇りと自信を持って生きていた。


だからこそ、彼は英雄と呼ばれることになった。

だからこそ、彼は独りぼっちになってしまった。


時と場所の亀裂に吸い込まれてからの彼の人生は悲惨としか表現できない。

多くの友人知人を失って、たった一人になった人間界でも彼は強く気高く生きていた。幸せな時間も、あったようだ。が、幸せな時間は、彼を不幸へ落とすための前段階なのだ。

人間と悪魔の間に横たわる寿命の差のせいで、グレイグルンドはいつも人間の最期を見守る羽目になる。


(そういえば、玲音もそんなことを言っていたな)


玲音とグレイグルンドは一体どういう関係なのだろう。偶然で済ますには、彼らは共通点が多すぎる。

時は流れ、別れを繰り返したグレイグルンドは次第に衰弱していった。早く早く、がこの頃の彼の口癖である。彼は決して主語を口に出しはしなかったが、魂がつながったフィードは正確に理解できた。彼の望みは――早く死にたい、だ。

人間に擬態したグレイグルンドは公園のベンチに腰掛け、視線を落としていた。その目に以前のような輝きはもう見られない。


「なにしてるの? おにいさん」


小さな黒髪の女の子が近づいてきてグレイグルンドに声を掛ける。彼女の純粋な瞳に、ほんの少し孤独が癒された気がした。


「休んでいるんだ」

「休んでる? つかれてるの?」

「……あぁ、とってもね」

「そっか、じゃあ……まながなおしてあげる」


小さな体を伸ばして、彼女はグレイグルンドの胸に手をついた。人間の子供がすることで、自分に危険を及ぼせないだろうと彼女の行動を放置する。


「いたいのいたいの、とーんでけー」


ひらひらひら。彼女は胸からもみじの手を離す。


「あのね、つかれるっていうのは、こころのけがなんだって。こころがなおれば、つかれもなおるの」


不思議なことに、胸が軽くなった。人との触れ合いに飢えていたグレイグルンドにとって、少女の無邪気な優しさは特効薬として働いたのだ。

少女との出会いから数日後。グレイグルンドはもう一度彼女に会いに行った。今度は、大人の姿ではなく、少女と同じ年頃の男の子の姿をして。

グレイグルンドが期待した通り、彼女はまた無邪気な笑顔を見せてくれた。


――また置いていかれるのは、分かっている。それでも独りにはもう、耐えられない。


少女の優しさに癒されたい、そんなグレイグルンドの気持ちが流れ込んできたところで、記憶の映像はふつりと途切れたのだった。

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