第六章 ひとりぼっちの苦悩

23.宇宙王子は追い詰められて

途中誰と鉢合わせることもなく、微かな衣擦れの音だけをさせて階段を降りきった。次の角を曲がれば、あとはまっすぐ行くだけで放送室が見えてくる。

先ほどの空き教室を出てからここまでの間、芹香は自分がどう悪魔と関係しているのかを語って聞かせていた。


「……そうだったのか」

「うん。だから悪魔について知ってたんだ」

「なるほどな」


すっかりいつもの口調に戻った芹香にホッとしつつ、玲音は頷いた。しかしそれでも、鞄を二つ持ったまま歩く速度を変えない。


「じゃあ今度は玲音の番だ」


二人の間に落ちる暗い雰囲気をかき消すように、芹香は声を元気に響かせる。けれど玲音はそれに乗りきれず、目を伏せた。


「話しにくいかな?」


下からすくい上げるように覗き込まれた玲音は居心地悪く顔を逸らす。現実から逃げられるはずもないのに、往生際悪く逃げようとする自分がいた。

本心には話したいという気持ちも存在しているのだが、自分の事情など打ち明けたことのない玲音にとって、身の上を話すことは非常に難しいことだった。

いつの間にか二人は立ち止まっていた。足音も衣擦れの音も失せ、沈黙が廊下を支配する。

数秒の後に、玲音は口を開いた。


「……いや、話すよ。聞いて欲しい」


意を決し、芹香に視線を合わせた時のことだ。パタパタという駆け足の音が耳をついた。にわかに緊張が走り、状況を掴もうと耳を澄ませる。

音は玲音たちが降りてきた階段の方からだ。誰だ、と顔を上げたと同時に曲がり角から姿を見せたのは真愛だった。


「きゃっ」

「っと」


ハッとした顔で急ブレーキを掛けた真愛だが、勢いを殺しきれずそのまま玲音の胸に飛び込んできた。ぶつかった弾みで転びかけた彼女を玲音は素早く支える。


「大丈夫か?」

「う、うん」


実に十日ぶりの会話だ。想定外のアクシデントのおかげで気まずい雰囲気は一切ない。

支えていた腕を外した玲音は、頭二つ分低い位置にある真愛へ顔を向ける。


「……」


――こんなに可愛かったか?

今考えることでないのは分かっていたが、まず出てきた感想は『真愛可愛い』だった。

自分の持つ黒とは種類の違う黒を持つ少女。黒真珠のような上品さのある瞳で見上げられると、守ってあげたい愛おしさとめちゃくちゃに壊してやりたい嗜虐心を掻き立てられる。

自分で思っていた以上に真愛不足は深刻だったらしい。その事実に気付いて猛烈な自己嫌悪に陥った。


(なんで俺はこんなにも真愛が好きなんだよ!)


先ほど中断した真愛への想いが再び溢れ、玲音の身体を硬直させた。

抱きしめたくても理性がそれを食い止め、かといって距離を取りたくても本能がそれを許さないのだ。

言葉も発せないまま、久しぶりに間近にある彼女の顔に見入っていると、ふとその表情に変化があった。視線が落ち着かなくなり、どうもこっちを見てくれない。

おかしな様子の真愛を見て、玲音はようやく思い出した。玲音は真愛と喧嘩のようなものをしている真っ最中なのだ。玲音が無言を貫く理由を誤解するのも無理はない。まさか見とれて言葉を失っているなどとは想定外だろう。


「見過ぎじゃない?」


ふわふわと心を浮かせる玲音を現実に引き戻したのは低い男の声。よく知るその声は、玲音のすぐ横から聞こえてきた。


「……優」


思ったよりも近くに優の顔があり、玲音は我知らず仰け反って、そのまま小さく数歩後ずさる。

真愛と優の二人を視界に収めた玲音は、小さく首をひねった。


「二人してどうしたんだ? 随分慌ててたみたいだが」


二人の視線が一瞬芹香を捉え、その後互いに小さく頷き合う。

視線で会話を成立させたその親密な様子に、玲音は内心舌打ちをした。ついに友人にまで嫉妬するようになった自分にがっかりだ。


「なんでもないの」

「うん。玲音が気にすることじゃないよ」


(…………こいつ)


隠し事をしているのが丸わかりな態度をとっておきながら、二人とも言葉では否定してきた。それが玲音に疎外感を与える。そしておそらく優の方はわざとやっている!

友人の悪趣味に付き合ってやるのも癪なので、気持ちを表に出さないように表情を和らげてみせる。


「そうか。なら良い」


実際は全然良くないのだが。


(一体何を隠しているんだ)


感情を読まれないように気をつけながら、視線で二人を探る。


「私たちのことより、玲音くんたちはなにしてたの? なんで玲音くんは二つも鞄持ってるの?」

「あぁ、俺たちは……」


言葉は半端に途切れて空中に溶け消えた。


(このまま話せば、俺が悪魔であることや芹香の事情についても必然的に説明しないといけなくなる)


自分の事情を話すのは……まぁ良い。元々芹香に話そうとしていたのだ。すでに悪魔の存在を知っている真愛と優が増えるだけならなんの問題もない。

しかし――。

首を回し、三歩分離れたところに立つ芹香に視線をやる。

彼女は不動だった。

芹香の性格ならば、話しても構わない時には大きく反応を見せたはずだ。それがないということは、つまり、できれば話して欲しくないということになる。


「大した……」


大したことじゃない、と言いかけ再び口を噤んだ。


(――同じだ)


今玲音がやろうとしたのは、真愛たちがした反応と同じじゃないだろうか?

隠し事を共有するもの同士で確認を取り、隠し通すと決めてごまかす。


(同じだな)


それに気付いた玲音は、真愛と優の隠し事に見当が付いた。

芹香の存在を認めて隠すことに決めたのは、二人の視線の流れから明らかだった。すなわち内容は芹香に知られたくないと思っていること……、『芹香は知らない』と二人が思っていることだ。


(悪魔関連か)


玲音自身、芹香と悪魔の関係を知ったのはほんの数分前。悪魔が掛けた魔法の流れで話に至っただけのことだ。悪魔について芹香が知らないと考えるのは当然だった。

もう一つ、玲音の考えを裏付ける根拠がある。この廊下だ。


(目的は同じというわけか)


訳あって悪魔に協力することになった芹香は、魔法をかける場所として放送室を提供していた。

真愛と優も悪魔が放送室にいると見当をつけて向かっていたのだろう。その道すがら玲音たちと出くわしたのだ。


「玲音くん?」

「いや、なんでもない。大したことじゃないんだ」


首を傾けて見つめてくる真愛と不用意に目を合わせてしまい、心臓が高く跳ねた。余裕の笑顔でそれを覆い隠し、何事もなかったかのように言葉を返す。


(まずいな)


非常にまずい。日に日に真愛が可愛くなっていく。玲音が心惹かれているのも大きな理由だが、それよりも真愛の自分を見る目が以前と違うのが最大の理由だ。

少し前までの真愛の瞳に恋情はなかった。単純な親愛はあったがそこに情熱を感じることはなく、見つめられても玲音の心に動揺が走ることなど皆無だった。

しかし今は違う。自惚れでもなんでもなく、真愛が自分を好いているのを感じてしまう。勘違いだと疑う隙を与えない瞳なのだ。


(俺は真愛を好きじゃない。俺は真愛を好きじゃない)


こんな陳腐な暗示で誤魔化せる気持ちなら、苦しいと思うこともなかっただろう。それでも何もしないよりはマシだ。


(まったく……こんなことで悩んでる場合じゃないっていうのに)


これから悪魔と対峙し、場合によっては残った魔力を使って戦うことになる可能性だってあるというのに、真愛の登場によって心が乱されてしまった。

そう考えて、しかし、頭を振る。

真愛たちが来た以上、もはや玲音に出番はない。不本意ながら、己で魔力を生成できない悪魔に成り下がってしまった玲音よりも、真愛が保護している悪魔の方が魔法を解ける確率が高い。


「真愛、話は後にして。早く行こう」


数歩歩き出して、優は真愛を振り返った。


「あ……ちょっ……」


紙袋を胸に抱いた真愛は、落ち着きなく玲音と優を見比べる。


「俺の方の話は後でいい。急いでんだろ?」


玲音の話を聞こうか、先を急ごうか、と右へ左へ顔を動かす真愛にそう促した。溢れる想いにはち切れそうになる胸を抱えて、それでも玲音はしっかりと笑顔を浮かべて真愛を見据えていた。


(早く行け。早く行け。俺の前から消えてくれ)


このまま傍にいられたら、頭がどうにかなってしまいそうだ。


「じゃあ……玲音くん、また後で」

「あぁ」


後で、ということは家に帰って話すつもりなのだろう。

優と並んで去って行く真愛の小さな背中。小さな身体を悪魔に対峙させることに不安はあるが、人間だと思われたままの身では足手まといになりかねない。


(この魔力も無駄になるな)


芹香から吸収した魔力に意識をやりながら、玲音はふと思う。

――この魔力を使って真愛に魔法を掛けられるのではないか?

輝く黒髪を振り乱して、勢いよく顔を上げた。

今ならまだ魔力が残っている! そして真愛もまだ近くにいる! これは絶好のチャンスだッ!

そう気付いた瞬間、玲音は駆け出していた。


「玲音?」


芹香の上げた戸惑いの声の横を通り過ぎ、真愛の背中を追いかける。

彼女が振り向いた。


「どうしたの?」

「……真愛。ごめんっ!」


指先に残った魔力を全て込め、真愛の柔らかい黒髪に隠れた額に押し当てた。そのまま暗示の言葉を口にする。


「田崎真愛は宇田川玲音に恋をしない」

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