呪い袋【イランまたはカンボジアあるいは中国北西部】
2018年頃、私は中国で仕事をしていた。家の近所には外国語大学があり、片田舎にも関わらず外国人が多かった。中でも多かったのはカンボジア人とイラン人の留学生だった。
彼らの寮は会社の近くにあり、時々アルバイトも頼んでいたためすぐに親しくなった。休みの日は一緒に食事をすることも多かった。
共に食事をして初めて分かったのだが、豚肉以外の肉すべてがハラルではないということだ。鶏肉も牛肉も、屠殺するする前に祈りを捧げ、できるだけ苦しむ時間が短くなるように処理していなければハラルではないそうだ。初めて一緒にレストランへ行った時にそう教えてもらった。
すでに普通の牛肉炒飯を注文してしまった同僚は詫びたが、彼らは笑って
「大学にアラブ人の先生がいるんだけど、この前楽しそうにKFC食べてたんだよね。楽しい時は神様も怒らないと思う」
と言って、一緒に炒飯を食べた。学生と言っても全員がおそらく20代後半から30代の彼らは、落ち着いていておおらかだった。対してカンボジア人の学生はほとんどが19歳だったが、寮での共同生活は上手くいっているようだった。
そんな彼らの中からカップルが生まれた。イラン人の中での最年長男性Mさんと、カンボジア人のSさん。Sさんはカンボジア人グループでは目立たない方で、何度か食事をしたが一度も話したことがなかった。しかし、たまに外で見かける二人は幸せそうで、無口なSさんが一生懸命にMさんに何かを語りかけていたのをよく覚えている。
ところが、ある時から留学生全体の雰囲気が悪くなった。どんなに忙しくても数週間に一度は皆で食事をしていたのに、いつしかそれもなくなった。寮生総出で行っていた買い出しも少人数のグループに分かれて行くようになった。それも、以前は大きな声で話したりげらげら笑ったりしながら外を歩いていたのに、険しい顔をして足早に歩いている。
そして例のカップルは、2人でいるのを見かけなくなった。
ある日の仕事帰り、スーパーに寄ると留学生がいた。カンボジア人とイラン人が2人ずつ。彼らは私に気が付くと、「久しぶり!」と声をかけてくれた。
「最近忙しいの? また皆でご飯行こうよ」
「あー……、うん。それが……」
「うーん…私たちも行きたいんだけどちょっと……」
話を聞くと、案の定留学生グループは内部分裂していた。発端は例のカップル。
実はMさんは子供もいる既婚者だったというのだ。家族を国に残して留学していたという。
まず初めにMさんが既婚者であることを知っていた同郷の学生が、Mさんと揉めた。しかしMさんの肩を持つ人もいたそうで、イラン人グループは不倫反対派と容認派で対立した。
ちなみに容認派の理由は「イスラム教だから」である。一夫多妻制なのでそもそも悪いことではない、と。
しかし複数の女性と結婚するのが普通というわけではない。それが出来るのはごく限られた金持ちだけで、一般的に妻は一人なのだそうだ。それに、Sさんはイスラム教徒ではない。既婚であることを隠して付き合って、いざ露見したら宗教を盾に開き直る。そんなのは詐欺も同然だと非難していたのが反対派である。
そしてカンボジア人グループはというと、こちらはこちらでSさんの肩を持つ不倫反対派、なぜかSさんを非難する派閥、それから、どちらでもなくただ揉め事に心を痛めている中立の立場の派閥に分かれていた。スーパーにいたのは中立派の学生だった。
それからしばらく経っても状況は変わらないようだった。一度だけあのカップルを見かけたが、Sさんはうつむいて泣いていたし、Mさんは心底面倒くさそうな顔をしてじっと佇んでいた。誰が見ても修復は望めないような様子だった。
ある日、カンボジア人留学生の何人かが帰国するというので、寮での送別会に招かれた。寮の部屋割りは以前と変わって、それぞれの派閥ごとに分かれていた。送別会を開いたのはSさんを非難しているカンボジア人と不倫容認のイラン人のグループだった。
寮は3階建ての小さな団地のような建物だった。入るためにはゲートを開けてもらわなければならないので留学生に連絡をする。すぐに部屋から出てきてくれたのだが、階段の最後の一段を降りるところで「あっ!」と叫んで頭から落ちてしまった。
ゲート越しに声をかけたが、彼は呻き声をあげるだけで立ち上がれない。騒ぎを聞きつけて降りてきた他の留学生は落ちた学生を指さして口々に叫び出した。
やっとのことでゲートを開けてもらって中に入ると、彼らが指をさしていたのは落ちた学生ではなくその傍にあったビニール袋だということが分かった。
よく見るとそれは某ファストフード店の袋だったのだが、何やらカサカサと動いている。小動物が入っているようだった。
よく見ようと袋に手を伸ばしたのだが、
「ダメ! 触らないで!」
と注意されてしまった。
彼らの話によると、袋を置いたのは不倫反対派だということだった。
理由を聞くと、まずイラン人が「殺すのに一番苦しいのは窒息だからだよ」と言う。次にカンボジア人が「その上を通らせるんだよ」と言う。
要するに、呪いなのだそうだ。
上を通らせるというのは呪いとしては割と広く知られた方法だ。日本でも呪いたい相手の玄関先に髪や骨を埋めて毎日その上を歩かせて発動させるという話はいくつか聞いたことがあるし、欧米でも呪具が違うだけで発動方法は同じものがある。
ただ、小動物を使うというのは聞いたことがない。蠱毒だとしても上を通らせる必要はないし、何より袋の中に入っていたのは一羽の小鳥だそうだ。
呪いの効果なのかは分からないが、イラン人グループは学期の終了を待たずに帰国させられることになった。理由は明かされていないが、政治的な問題が関係していることは明らかだった。
その頃、首都でアラビア語の看板が消えたという報道が日本でもあったはずだ。
ちなみに転んでしまった学生は骨折していたらしく、皆よりずいぶん遅れて帰国した。帰国時も自身で歩くことができず車椅子のまま搭乗したそうだ。空港まで迎えに来た彼の妻子は驚いたことだろう。
イラン人がいなくなってからしばらくして、同僚とハラルのラーメンを食べに行った。そこは中国北西部出身の店主が一人で切り盛りしている店で、その地域には一軒しかなかった。元々はイラン人学生たちに連れてきてもらった店で、店主も彼らの不在を悲しんでいた。
二人で向かい合ってラーメンを食べていると、同僚がちらちらと店の外に視線を動かしているのに気がついた。
「何か変な人がずっと覗いてる」
そう言われ、私も振り返って外を見た。外には赤い腕章をつけた中年男性が立っていた。私と目が合うとすぐにその場を去った。
ところが、しばらくすると同僚が目配せをしてくる。
「またいるよ」
どうやら、店の周りをぐるぐる歩いているようだった。店主はというと、苦々しい顔で外を見ていた。
「最近役所からよく来るんだよ」
私に気がついた店主はそう教えてくれた。イスラムに関係があるので目をつけられたのだろうか。
食べ終わって店を出た時もまだ男性はいた。何か言いながら近づいてきたが、私と同僚が日本語で話していると「あぁ、日本人? 韓国人?」と心なしか柔らかい口調で質問してきた。
こういう場合、中国語でうっかり答えてしまうと長い時間離してもらえなくなる可能性が高い。私達はパスポートを見せて「何か御用でしょうか?」と日本語で答えた。すると彼は諦めたようで、センキューと一言いうとそそくさと道路を渡り、役所へと戻っていった。
その後私は長期休暇で帰国、中国へ戻ったのはそれから3週間後のことだった。ビザの種類に関わらず(だと思うが定かではない)、中国へ再入国した外国人はすぐに役所へ届け出なければならない。タイムリミットは24時間だったか48時間だったかもう忘れてしまったが、とにかく空港から直接役所へと向かった。すると、役所の裏口に置いてあるビニール袋に目が行った。道端のゴミなんて別に珍しいものではないのだが、気になったのには理由がある。
動いていたからだ。それに、袋の中でバサバサと音がする。小鳥ではないだろうか。
ふと通りの向こうを見ると、ラーメン屋の店主が店の外に出て看板を外しているところだった。
店主は私に気が付くと手招きをした。
「お店やめるんですか?」
「そう、しばらくしたら別のところに行くよ」
おそらく帰国前のあの腕章の男性に報告でもされたのだろう。
「ところで、役所に行ってたんでしょ? 裏口から入ってないよね?」
きちんと正面入口から入ったと言うと、店主は頷いて
「これからも裏口から出入りしないようにね」と言った。
イラン人・カンボジア人学生と親しかった店主であれば、あの呪いのことも知っていて当然だ。もしかすると、作り方を教えたのはこの人かもしれない。
そう思い、帰宅してからインターネットで彼の出身地域の呪術について調べてみたが、そういった情報は出てこなかった。イランやカンボジアの呪術文化についても結果は同じだった。
できるだけ苦しめて半殺しにした小鳥を袋に入れ、呪いたい相手に踏ませる、或いは跨がせる。
おそらくだが色々な地域の呪術を組み合わせて彼らが作ったオリジナルの呪いではないだろうか。というのも、以前ラーメン屋の前に雀の死骸が落ちていた時、店主は「縁起が悪いなぁ」と言っていたのだ。
縁起が悪いというのは生物の死のことではなく、空のものが地に落ちることだ、とも言っていた。それを、一緒にいた留学生たちも初めて聞いたような反応をしていたはずだ。
それぞれの地域での縁起の悪いエレメントを集めて完成させたのが袋の鳥なのではないだろうか。その効果のほどは分からないが、正しい手順を踏んでかける呪いよりも、オリジナルの呪いの方が効果があるという説もある。呪う方も呪われる方もそれぞれに他人と違った人格や個性を持つ。テンプレートの呪いが効かなくなってしまったというのも頷ける。現代は多様性の時代だから。
そういう理由で、本エピソードは地域を”中国”としなかった。現場は中国なのだが、どうもその本質という意味では違うような気がするのだ。
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