消えたキャンプ場
@kuratensuke
第1話
消えたキャンプ場
十津川 会津
森に踏み入るとバキバキと小枝が鳴った。鬱蒼とした森のトンネルを抜けるようだ。
枯れた木が、人を寄せ付けていない証拠に、横からも上からも出ていて、歩行の邪魔をした。
それでも暫く進むと、低い草の生えた広場に出て来た。
広場迄来ると、人介に寄る石垣らしい物があって、長く横に連なっている。
階段も上下する為に、石垣のまんなかに作られていた。
古くからそこに有る石垣のようである。見たところ五、六段位になっている。
ふと、過去の記憶を辿ってみると、キャンプ場の中にはそんな石垣、
なだらかな傾斜があるので人が使う単位で区切りをなす石垣が、有った様な……。こんな感じだったか……。
記憶の中で呼び起こされてきた。
此所迄一時間近くは歩いて来た。秋の日差しとは言え、案外に強くて暑い、背中には汗がにじんでくるのが分かった。
何故かこんな昼間ではあるが、一人で森に分け入るのは怖い気がしていた。
糖尿に近いと言われて散歩が始まって久しい。半世紀以上、慣れ親しんだ土地柄なので、地理に詳しいとばかりに家の近くに有った公園を散歩するのが日課になった。
私は中学生の時にサイクリングに来たキャンプ場を探してみたい。
そんな衝動に駆られ、今、こうしているのだった。
何度か探しては見ている。だが、何せ中学時代の記憶なので危ういのである。 いつぞやは、軽自動車に呼び止められて、
「仁川のピクニックセンターは何処なんやろう? 」
と、尋ねられた。
「いや私も、探してはいるんですが、見つかりませんねん」
「そうでしょう、地図看板には書いてはいるんですが、そこが特定出来ませんねん」
確かに此の老人、歳は七十をゆうに越えてはいるだろう、しかし惚けてる様子には見えない。
「おっしゃる通りですねん、分かりませんねん」
彼もそのキャンプ場、仁川ピクニックセンターには、かなりの楽しい思い出をお持ちのようでは有った。
彼とはそれっきりであったが、場所探しは、私の場所探しはその後も続いた。
続いた理由は簡単で、その記憶は、私にとって青春の甘い思い出でもあったからだ。
ただ、これだけは間違いなく覚えていたのだった。
「某君、私って可愛い? 」急に、河合が言った。うろたえてボートが大きく
揺れる。立て直すのに苦労して、
「……」おもわず沈黙した。何を返して良いか分からなかった。
池の上で皆が離れ離れになり、声が聞こえなくなるのを待っていたようだ。
ボートを漕ぎながら、私はいきなりの言動に戸惑いを覚えた。
「うん……」
これしか、無理だった。
河合の手に目をやると、固く握り、決意の固さを表しているようだった。
本当は、そんなに自分のタイプではない河合だった。
しかし、その時の私は、彼女を傷つけたく無かった。
「可愛いよ」
其れだけ言った気がする。
きゅっと搾られた心をそのままに、ボートを漕ぎ続けた。
「某君、今度は、二人で梅田に行こう」
「……」
そう言われて、返答にまた困った。
まず、金が要る。中学生にとって此の誘いは色々、新たな準備が要る。
「私と行くのは嫌なん? 」
「そんなんちゃう、行きたいで」
繁華街で目上の、柄の悪い高校生にでもカツアゲされたらどうしょう、等とも考えた。河合とキスが出来るかも……とも考えた。其れを考えた途端、
「よっしゃ、次の日曜に行こう」
やけくそで答えた気がする。
キスが出来るかもと言う、持ち前の卑猥さが、所謂、リビドーとなり俺を突き動かした。
と、その時はそんな考えが大半を閉めていた気がする。
女の従兄弟のおしめを替える時、おばちゃんが替えているのを横から見ては研究した。
なにせ、十五歳の性衝動は激しい、四六時中其れがつきまとう。
河合のは、毛が生えている。
従兄弟の子のあれのような形のあれに毛が生えたんが、河合の股間にも有る訳で、もう少し黒くも成っているのかと思うと、胃袋から下、股間が熱くなり、早く、一物を擦っては出す物を出したい、と願った。
思い出し笑いをして我に帰ると、五ヶ池が見えて来た。
此所で船を浮かべて俺たちは漕いだのかな?
四十年以上前の記憶とは裏腹に、想像よりも大きくなっていた、五ヶ池。
これほどは大きくは無かった。もう一度、記憶を反芻してみた。
時が流れて、池の様子も湖岸のすすきの様子も変わってしまったのか、高く群生したススキ達は、当時の面影を消し去って、人の這入るのを拒否している。
そんな感じがした。
きれいな湖面をみていると、鳴き声が五月蝿い。空からカラスが鳴いて来る。
青く、雲が少ない空から十を越えるカラスが群れをなして鳴く。
五月蝿い、と、兎に角思った。
湖岸には人の気配はなかった。すると、すうっとひと風吹いて来て、体温を奪って行った。そのまま、さわさわ、風の音を聞くとも無し聞いていた。
と、その時、さっき迄歩いて来た道に人影が見えた。
二人要る、女の子と母親らしき人物。女の子は、小学六年から中学二年くらい、母親らしき人影は三十五、六歳か、見え隠れしながら後ろからやって来る。すすきの影になったりするので目で追っていると、暫くして消えた。
どうやら、違う道に進んだようである。登山の格好を二人ともしていた、大きめのリュック、足元はすすきで見えないが、赤いチェックの厚手シャツ、二人ともお揃いに来ていた。下はグレイの登山パンツである。これもお揃いであった。
こちらをちらりと見ては、目が合うと恥ずかしそうに娘は目をそらした。
母親は、急いでいるらしく、先へ先へと進んで行った。
それから暫くして、目を池に戻すと、こんなにおおきく無い筈だ。湖面を見ながら改めてまた記憶違いを思った。
寒くなって来た、帰ろうと、今来た湖岸のすすきの道を取って返す。
甲山公園の出口迄歩いて来ると、又背中に汗を感じ、寒さは消えていた。
又今日も見つける事が出来なかった。ホンマに何処に有ったんやろうか。
嘆きがはいった。
それぞれの近くに有る看板や地図には仁川ピクニックセンターと書いてある。それぞれとは、五ヶ池、甲山公園、青少年センター等であった。
そもそも、私の頭には、自分の記憶を辿りながら行き着きたい、という願望が有る。
若い頃の思い出を、ひとかけらごとに拾い集めて継ぎ足しているのだ。
其れをまた楽しんでいるのだ。ネットでの検索や人から情報を聞くと言う作業を阻止して来た理由が、これなのである。
十津川から帰った竜子は、暫く喫茶店の給仕で生計を立てていた。
何か新しい仕事を見つけなければならない、思いは募るのではあるが具体的に何がしたいという事は見つからない。
篠田の誘いは魅力的ではあったが中卒の自分が警察の仕事をするのは、気後ればかりが先に立つ。
かと言って、興味がない訳ではなかったのだ。
カンジュを亡くして捜査の裏側を知った。
警察の仕事に敬愛の情がない訳ではない。
しかし、と考えては思い、消えてはまた出てくるのであった。
身を売りながら稼いだ金があるうちに、何とか事務所を借りる事とした。
探偵の仕事をしたいと想う、しかし、女だてらにはかなりの勇気がいる。
事務所は北区の雑居ビルで萬屋をする、という名目で何とか借りる事が出来た。
連帯保証人を立てるのは朝鮮人には厳しい事ではあったが、ここばかりは篠田に甘えた。
篠田は警察の規則も忘れて快く了承したのである。普通、公務員や銀行員は、公務等に差し障りが出る事を恐れて保証人は断ることが多い。
大家である不動産屋も少し驚いた様子で、竜子の契約書を見たのではあったが、断る理由は見つからない。
渋々、店子が少ないせいもあってか、了承してくれた。
篠田は、それから、事があるごとに事務所に出向いて来た。
大阪に用事があって寄ってみた、とか、今日は非番だから来てみた、と、事あるごとに事務所に顔を出した。
篠田の様子がどうも可笑しいと、五條署の井上は密かに他の刑事に様子を伺わせた。
数日して事情を知った井上は、人の良い篠田の思いはよく理解出来たが、心配で仕方ない。
相手はやはり百戦錬磨の女である。
客あしらい、男の扱いにかけてはプロである。強かさで田舎者の篠田等は赤子の手をひねるように簡単であった。
しかし、それをするにはあまりにも篠田は純情でもあった。利用するには十分で簡単である。
流す目に憂いを秘めて頼み込んでみると、篠田は断る事は出来ないのである。
金を引き出す事も意図も簡単であろう。
もてぬ男篠田は、利用するだけの存在である。
そんなとき珍しい客が、竜子の事務所の戸を叩く。
男は、事務所の中の様子をじろじろと見ながら入って来た。おもむろに名刺を差し出す。
「田中言います」
年の頃は四十絡み、固そうな髪をオールバックに、鼻を突く整髪料で搔き上げている。 テラテラと光っていた。
名刺を受け取り、慌てて竜子も名刺を出した。慣れぬ名刺の交換にとまどい、隙を見せたのか、
「ここの事務所は新しいんですか?」
「はい、先達って開きましてん」
「フーム」
値踏みをしているのか、暫く考え込んでいる様子である。
思い切った様子で言った。
「実は、……、嫁はんに逃げられてまいまして……」
「……」
「探してほしいと……」
「そうですな」
「いつ頃からおりはれへんのですか?」
「昨日の夜、家帰ったらおりまへん……」
「心当たりはどないですか」
「これが、また、ホンマによくわかりまへん」
「よくわからんと言うと?」
「理由が無いんだす」
「心当たりが無いと……」
「何やさっぱり判らんのです」
ここで気づいたのが子供の事であった。
「子供さんはおりはれへんのですか?」
「連れ子がおりますけど一緒に出て行きよりましてン」
こうして、初仕事は人探しであった。
当然に、篠田は駆り出されて有給を使って人探しに協力するはめになる、惚れた弱みとあきらめた。
篠田は、竜子の話と田中の話を総合して目星を付けてみる。警察の力の見せ所であった。
不思議に捜索願を出さないのが引っかかる。
何か言えない秘密があるようにも想えた。頑に、警察のご厄介になるのだけは辞めてくれと言う。
初仕事だし、金も欲しいのでそれはそれと割り切った。
手がかりは、殆どない。篠田の話等に寄ると経験上、これは浮気という判断だった。
どこかの若い男と懇ろになり、家を出て行く、よく有る話ではあった。
まずは親戚筋からあたる事にした、予め、親戚の住所等を調べてある。
失踪したと想われる、加奈子、田中加奈子は、三十五歳、一人娘はあつこ十三歳。
三十歳で前の夫と離婚して、ミナミで水商売をしていた。そこで知り合った田中は、加奈子の何処か影の有る様子に、店に来る度引かれて行く。
何時しか二人は関係を持ち、いつの間にか田中の家に住み込んでしまう。
いわば内縁関係であった。
秘密がありそうな加奈子の言動は、ますます田中の心をとらえて行く。
色々聞いては見るものの、加奈子の答えは何処か要領を得ずにいた。
そんな様子ではあったが、田中は構わない。今が幸せである、それで良いと感じた。
それから、五年ほど経ってからの事であった。突然にいなくなる。
置き手紙も無い、全くの青天の霹靂であった。その間に何度か加奈子の父親と言う人物にもあった。
奈良で墨汁と炭を造る工場をしていた。何代か続く経営者である。
母親もそれを手伝い、兄弟は無かった。
「お父さん、加奈子さんの行き先には心当たりありませんか?」
田中は何度か足を運んだ。が、父親健二は、
「いや、ホンマ知らん」
「どないしてんのやろう?」母親の光子も心配そうに相づちを打つ。
「そうですか?」
何度か通っては見たものの、嘘があるようには見えなかった。
「ホンマ何処行ったんやろうか?」
浮気の線で捜査していた篠田だが、芳しい成果は上がらなかった。
仕事をそっちのけで竜子の仕事に入れあげている様子に、井上の雷が落ちるのに時間はかからなかった。
「アホかお前、仕事そっちのけで竜子の事ばかり考えやがって、見てられへんわい」
昇進試験も近づいてはいたが、今年もこの様子では無理かもしれない。
「ちゃんと本業の仕事をせいちゅうんじゃ、この色ぼけヘタレが……」
「スンマセン、スンマセン」
「ええかげんなこと抜かしよらんと、はよ、星上げろ」
「分かりました」口ではいい返事をするのだが、頭の中は竜子の事だけであった。
警察の情報網も使う。
しかし、住民票以外の細かい情報は得られないのであった。
何日か経って来ると、殺しの線も想定に入れて来なければならない。
そうなると厄介な事になる、田中は警察官であった。
職場は、もちろん、世間体からしてこんなスキャンダラスな事件は避けなければならない。
自分自身で探す事も考えた、しかし、五條とは違って神戸の警察は忙しい。
特に此の頃、山口組が抗争事件を起こしたりして大変だった。
それなら大阪で分からない様に、調べてもらおうとしたのである。
しかし、思い通りには行かなかった。
加奈子たちの手がかりは、その後もなかった。前の旦那にも当たろうと、篠田が調べた。
加奈子の旦那、つまり、あつこの父親は、聞き込みから、0型で背が高く、豊中市役所に勤めている公務員という事が分かった。名前は北村と言った。
加奈子の事は、田中が奈良の出である。
と、しか覚えていないのである。それ以上の事は聞いていないらしい、本人も喋らなかったのだ。
親達や親戚にも保守的な奈良の事もあって妊娠が分かったときから、家を出た。
妊娠から出産迄は、金も出してくれていたらしい。
一夜限りの情事のつもりがうっかり妊娠迄してしまった。相手は役職も有り、家庭も有る。
北村は、新地で働く加奈子の美しさに我を忘れた。
公金に迄手を出していたので、被害が少ないうちに分からない様に穴を埋めて、役所には秘密にしている。
かれこれ五百万の遊興費が、散財されたのであった。
其れもすべては、今の嫁の父親に嗜められた。
嫁が浮気に気づき父親に言う、豊中市の市会議員をしていた有力者の父親が、金の使い込みから、新地のホステスの加奈子に迄、金で済ます段取りをしていた。
それからというものは、飲みに来なくなったのだ。
随分と聞き分けが良かったものである。
嫁の尻に引かれてどうしょうも無い。 つまらない男である。
ところが、こんな男に限って女には魅力が有るものである。
ハンサムで背が高いので余計に面倒を見たくなるらしい、ところが、加奈子にしては新地で揉まれていたのか、全く興味が無かった。
むしろ、いつもの調子ではなく、此のハンサムボーイが熱を上げていた。
加奈子は色んな男からも声をかけられる、売れっ子のホステスであった。
ただ、其れからあつこを育てるのに忙しく、腑抜けたハンサムボーイは、此の性根の据わった加奈子には何の魅力も無かった。
それから、十二、三年の月日が経つとあつこも大きくなり、自分自身の生い立ちや環境を気にする様になった。
この子はまた、父親似なのか、自分の生い立ちや、先祖に興味があった。
母親は全くと言ってそんな事には興味が無かった。
ただ、父親は死んだと嘘ぶいては居るのだが、何となく大きくなるにつけて、見破る力がついて来たのか、怪しい目で見る様になった。
こうなると余計に会いたくなって来たのか、この頃には、何度も聞き出そうとしては、かまをかける様にもなって来たのだ。
危うくすると本当の事がばれてしまう事態も考えなければならなかった。
なかなかの巧者でもあったのだ。
女の子の成長は早く、言語能力も達者なのでこの頃、口喧嘩では敵わないぐらいであったのだ。
早くに田中が実の父親でない事は分かっていた、あまりにも性格や体格が違いすぎた。
身長は、随分と女の子としては大きい部類であったし、顔の作りも全然違って、のっぺりして一重の田中に比べてあつこは二重で身長も百七十センチ近い。
田中ももうすぐ抜かれる勢いであった。
田中としては、こんな可愛い娘と見事に色っぽく垢抜けした嫁がいる。
これが一挙に手に入った。此の事が田中の虚栄心に火をつけている。
職場等でも加奈子やあつこの事を思い出しては、にやにやした。
いつぞやは、町でばったりであった同僚や事務方の警察官に、後で褒めちぎられては、虚栄を満たされてにやにやしていた。自分で、幸せを感じる瞬間であったのだ。
身につけるブランド物のバッグや時計と変わりはない。
二人も良く心得てた物で、同僚の前ではいつもと違う呼び方をしたりするのである。
「あなた」加奈子が言うと、
「お父さん」とあつこが呼んで、其れも見ていて採って着けている、言い回し
であったのだ。
美人の二人が言うと、あたかも宙に浮いたような状態が田中にはできあがった。
二人の唯一、遺伝しているところは、男を持ち上げて喜ばす術を持っているところであったのだ。
そうこうして田中にとっての五年は、瞬く間に過ぎて行った。
そして今は、二人を捜さねばならない事になったのだ。
理解に苦しむ田中では有ったが、鼻の下を伸ばしてばかり居る馬鹿でない限り、少しは予兆という物を感じている筈だった。
何年か経つと、二人の美人は、言う事や、やる事は丁寧には見えて居るのだが、所謂、そつなくこなしてはいるのだが、気が抜けている事甚だしい。
相手はゴリラかチンパンジーの扱い、それでも田中は喜んで仕事に家庭サービスに勤しんだ。なのに二人は、書き置き一つ無しで居なくなってしまう。
別れを此の頃には、予期しないでもなかったのでは有るが、あまりにも突然で戸惑ったのだ。
「此の大仏プリンを二つ頂戴」
近鉄奈良線のどん付きの駅でおりた竜子は、暢気にプリンを買っている篠田に苛々している。これやから公務員はあかんねん、心の声がした。
「はよして」促す竜子に、
「これ買うて帰らな井上さんの胡麻擦れんのですがな」
昨今は、中国からの旅行客が多くて何処も関西、特に此所、奈良も観光して回る中国人が増えた。買い物も所謂、瀑買いばやりで店は喜んでいるのだが、日本人の観光客は、甚だ迷惑であった。
まず声が大きい、人口が多いので主張をしなければ見落とされるのか、公共性の欠片は無い。
それと、厚かましい、大阪のおばさんどころではなく、並んでいるのもおかまい無しの抜かして行くし、買い物やバスの順番という概念は無い。
日本人は其れでも我慢しているが、竜子等韓国人は、容赦はない。
「はよしいな、此のどチャンコロ」と、言った具合である。
並んで待つのに抜かれでもした日には、
「どチャンコロ×××」
言えない言葉を吐くのであった。
韓国、中国、日本とそれほど何も変わらない人種では有るのだが、竜子にはそんな事はおかまい無しであった。
これには実は、少なからずわけがあった。
要は、体を売っていた時に性病を中国人から貰っていたのだ。
中国人は今、日本に梅毒を運んで来る。
其れと肺結核もである。ひどく蔓延を余儀なくされているようであった。
××の中身は、梅毒野郎である。
「アンタそんなんばっかり食うから豚になって中国人と変われへんやないの」
突き放す様に言うとさっさっと前に進んで行く。
二人の調べはだいぶ進んで来ていて、今日は奈良の裁判所で相続にまつわる姻戚関係の調査をする事になっている。
地下から駅を上がると、奈良の公園に向かう大勢の人たちとぶつかった。
秋の此のよく晴れた一日は、人手が多い。中国からの観光客を乗せているバスが多数往来している。それに負けじとトラックが多いのには何か訳でも有るのかもしれない。ともあれ、久しぶりの奈良公園の活気有る姿を、竜子等は少なくとも必要とはしていないらしい。
其れに反して、篠田は周りをきょろきょろと伺いながら、まるで当たりの中国人か、修学旅行生かの様に歩いている。
其れがまた、竜子のかんしゃくに障った。
「はよしろや××」××は、犬コロみたいな感じらしい。日本人に対する卑称
である事は間違いない。
ようよう、奈良の裁判所にはいって、向かって左の事務方の受付に来た。
「おねいさん、すいません」竜子は言った。
返事は無い、だいぶ混んでいて聞こえないようであった。
しかし、竜子は腹立たしいのか、今度は、
「そこの姉ちゃん、よんでんネンから返事したれや」
中国も韓国も無くなって来たのである。
事務所内が凍り付いて固まっていると、
「五條署の篠田言います」
「はい」と、眼鏡をかけた小さな新卒らしき、女の子が出て来てくれた。
「なんや、聞こえてんのかい、ほな、はよっ……」
篠田のいなすような目つきで言葉を止めた。
それから、二階の事務室に案内されて、加奈子の相手の北村を相続の姻戚関係簿から調べ上げた。
「これで行くと、そう、あつこさんは内縁の妻である加奈子さんの子やから北村さんの、つまり相続を受けるに値する訳ですわね? 」
「そうですね、北村さんには、子供さんがふたりしかいません。今の奥さんと前の奥さん、つまり二号さんでは有るんですが、認知はしてはりますから相続の権利は発生してはりますねん」
「つまり、北村さんが死にはると奥さんと二号さんの御子達に相続が舞い込んでくる言う訳ですわ」
非嫡出子があつこと言う訳である。判例では加奈子に相続権は今の法律上からは無いのである。最近においては、そのような法律を変える動きは有るらしい、つまり、二号さんにも同等に相続の権利を与えよという物である。
さらに、非嫡出子のあつこには本妻の子供や本妻のようには多くは無いのだが、三分の二程度の財産分与が認められているのだ。
しかし、今回の事件は、何の為にこんな事迄調べる必要があるのか、甚だ疑問では有る。相続での失踪という線を消したかったのか、篠田の考えはよくわからない。
帰りの電車の中で竜子は考えた。既に北村と面接を数度している。
北村は財産の問題を打ち明けると、火がついた様に、
「とんでもない、あいつらとはもう関係もおませン」
「今はもう、嫁さんの親父さんも亡くなって遺産はそれなりに有りましたが、もう使い果たしましたがな、それに法律上の相続人言ふても税金払わなあかんし、借金も沢山、親父さんなんか選挙のたんび借金するぐらいやからね、あれへんあれへん、何、今さらいうてまんの」こんな調子であった。
突然の失踪の裏には、二人の殺人、事故も視野に捜査していたので、さしずめ、北村は容疑者のマルタイでは有ったのだ。
そろそろ、数ヶ月の日にちが経つので依頼者の田中も篠田も本職の経験から事件として取り上げるのが妥当だと考えだしているのだ。
何とか手柄を立てて、売名もしたい。
竜子はそう考えていた、しかし、こう迄痕跡が見つからない以上、本当にそのように切り替えて行かねばならなかった。
又、時だけが過ぎて2週間が過ぎた頃、目撃証言が出て来た。
あつこの通う学校の同級生からの証言であった。
此の同級生の女の子は、夜遅くに犬の散歩がてら、近所や公園を散歩していると、家に入ろうとしたとき、前の公園を横断しているあつこ親子を見たというのだ。
其れも妙な事に登山姿であったというのだ。
其れは人違いではないのかと言う、周囲の声に反論して、
「だって、あっちゃんが振り向いて手振ってくれたもん」
確かにあり得る話では有る。遠く離れているので声にはしなかったと言う。でも目を合わせ、微笑みあったというのだ。
何時から学校にくるのか聞きたかったのだが、遠かったので諦めた。
母親らしき人もこちらを向いて微笑みかけてくれたともいうのである。
此の女の子は、話題が話題を呼んであつこ親子の失踪事件が噂され始めると、
会ったばかりなので心配しては居なかったと言う。
ひきこもりや、いじめ等のせいで学校に行く事が難しくなった現在では、
一週間や二週間の休みは日常的で周りの学生達も気にはして居ないのだ。
何とも薄情な世の中になって来たものだ。篠田等はそう思った。
そして、嫌がる竜子には警察に任せる様に何時になく厳しい口調で言ったのである。
「竜子はん、もう警察に任せていかなあかん、もう素人の出る幕やあれへん」
「しろうとちゃうわいな、これでもこれで、探偵で飯食うていこうとしてるんやさかい、何言うてんの」
いつもの様にきつい口調では言うものの、語尾は弱くなり、自信が無い。
「気が強いだけで出来る事ちゃうからな」
何よりも、依頼者の田中自身もそう願っていた。
「もう、こんだけ見つからんのやったら、恐らくは事件性が強いやろう、長年警察やってるから有る程度分かるわ……」
暫くして兵庫県と大阪の合同捜査本部が間を取ってマルタイ、容疑者の北村の近所である豊中署に出来た。
警察等では、マルタイ、マル被、マル害、マル暴等が隠語として使われる。
マルタイは警護対象者、spがよく使うところである、また、捜査対象者という意味も有る。
マル被、マル害は被害者、マル暴は言わずと知れた暴力団である。
マルタイ、北村は、日頃は、朝7時には起きて役所にくぬ
用度類の管理が主になる部署で課長を務めていた。
北村の生い立ちは、こうであった。
もともとは、京都の日本海側の出で、所謂、被差別部落の出身者であったのだ。
陰惨とした冬の海は強烈な風と雪を生んでこの地方を包み、日本海に面した小さい部落をより凍えさせていた。人々の生活もその気候に乗じてか厳しく、地元の皮職人か、京都に出て山師になる他は無かった
故に生活は厳しく、被差別部落故、早くに戦争にとらわれた父親は、舞鶴には戻っては来なかった。
母方は、同じ部落の出身者で父親はかなりの畑を所有していた。
その助けも有ってか、5人兄弟の末の子である北村は、此の部落出身者にはよく有る、拗ねて世を恨むというより、むしろ、さばさばとしていて屈託が無い性格のようであった。
ただ末っ子にありがちな甘えの性格が有り、欲しいものを手に入れる迄ごねてどうしょうも無いところが有る。
上の姉や兄等は、此の地方の同和枠で役所に就職出来たものの仕事と言えば、役所でも人の嫌がるゴミ処理や、汚物汚泥の処理、火葬場や危険仕事の火消しと相場は決まっていたのだった。
場所柄、海上保安庁の職もあったが、ほとんどが出地が問題で、受かる事は無かった。
その中でも北村の出世は大きかったのだ。後の妻となる豊中市会議員加登健三郎の娘、陽子を嫁にもらう事から始まったのだ。
地元の高校を出て土産物屋のバイトをしていたが性に会わず、一日の殆どをぶらぶらしているところに、大学の夏休みに、天橋立に遊びに来た陽子をナンパした。
陽子は、背が高く、ハンサムな北村に一気に恋をし、落ちた。
その夏休みの間中二人は、海へ山へと遊びに行き、夏の終わりには陽子の妊娠が分かったのである。
ジャズの軽快な、それでいて悲しげ、又刎ねるような変調の嵐に身を任せてスイングしている、北村は大阪市内のホテルの一室にいた。
大音量のジャズは止まない、裸の女を二,三人ベッドに転がしている、猫の様にしなる女達は今、北村の飼い猫だ。
北村は人生の有頂天を味わう、有頂天で良い。北村はそう思った。
大麻に火をつけた。マッタリとして、それでいて自分に逆らうものは一つとして無い世界。
極楽であった。北村は知った。殺人の世界を。今日二人を殺した。
義理の親父が死んで、金は有る。嫁は自分の言いなりだった。
何を望むこれ以上、至極の世界なのだ。
邪魔者は消した。ごくごく簡単な手作業である、人殺しなんて。
首を絞めた、元妻という女を。又首を絞めて殺した。
自分の娘を、可愛い、とても殺すには惜しい、でも殺さねばならない。
兎に角、人を殺した。
自首する、捉まえにくる迄このまま幸せ生活を続けるのか?
悩みは大きい、嫁を、元嫁を殺した、娘も殺した。
此の手で、感触はまだ残っているんだ。娘の顔は忘れない、美しい、あまりに美しい、娘の素顔。
「パパ、殺して良いよ」そう聞こえた。
哭けな死の世界観が北村を包む、涙が出る、昨今の嘘の涙ではない、惚けた涙腺でもない。笑う娘が見えた気がした。
「パパ、殺して良いよ」
至上の愛に包まれて娘は死んで行く。
手を緩めたい、北村にどんな謂れが有ろうともそうしたい気持ちで一杯であった。
だが現実、初めて有った親子でも現実社会は許さない。
殺人者と被害者だけに分け隔てるのである。
妻を殺した時に感じない悲壮感。娘に感じる愛情その物。
それを埋めるがごとく、ウエステインホテルの夜景と金髪達、金でだけ契約という、アメリカ人特有の契約と言う冷たい関係。浅はかな歴史の無い軽装的社会が生み出す人間関係。アメリカその物の感がした。
プラグマチズム、果てないアメリカを耕す農夫は明日を考えない。
考えるとやっては行けないのだ。考えずに今日、近未来だけを考えて答えを作る。
温故知新の考えは無い。
歴史が無いから仕方ないのだ、学ぼうともしない。
何故なら国が大きいからだけ、帝国主義なのだろう。
単純で馬鹿なだけであった。空っぽ、よく似合う。
暴力、よく似合う。殺人、とても良く似合う。ガン? とっても似合う。
ジャズのむなしい音に任せて北村は我に帰った。
こんなに無駄な人生が自分を凌駕している。
歴史も哲学も救いにはならない、死有るのみであった。
死んでも良い、娘に会いたい、此の手で殺した我が子に会う。
うざくなって来た、いくら抱いても外人との間は詰まらない、ああしてはいけないこうしてもいけない、契約だ。契約契約。
アホか?と思った。
セックスに契約?アメリカ人らしい。
馬鹿馬鹿しいのである。すべてが……。
何の意味が有る?
生きる事に意味が有るか?何の、なんの?
うんざりしてくる。
本当の自分に帰える時、真剣に考えろ!
俺なら一人でも何人でも良い、自分を自分以外の為考えたくはない。
他人は他人である。自分ではない。よって自分以外の人間とは愛想付き合いでは無く、自分の確立が必要であろう。
すり寄る術だけの人間は要らない、そう思った。
死ぬに必要なのは、何か?死に場所探すのは何がいるのか?
其ればかり考える。
強烈なジャズのビートは、薄ぺっらなアメリカ人にも深く考えを及ばせているのか? 分からない。ただ嫌悪感だけが走る。
殺人は殺人な訳で、只、捕まれば裁判の末、死刑なのである。
それで良い、北村は思った。
殺してほしい、それだけで有った。
何が要る?
他に何がいるのだ?
自問自答してみる。死ぬしか無いとも思う。死んで良い、娘が思い出される。自分は、娘よりいらない存在であった。この世にとって……。
明らかな現実だけが脳裏を彷徨う。
きれいごとは要らない、現実だけ。
もう良い、何もかももう良い、死ぬだけが美しい。
馬鹿馬鹿しい、死ぬのが美しい。少し勇気があれば出来る事。
そうおもった。毎日思う。其れが現実なのである。生きる必要は毛頭ない。
後の世界に自分の生きる異議は無いのである。
殺人は、必要なのであった。道連れ、そのものが答えだろう。
道ずれに自分の子供を選ぶ?
違和の世界に包まれて、心なく、泣く。どうしょうも無い人生。
死んで詫びるしか無い。そう思った。何もやる事は無い、遣り尽くした。
生きるに値しない、自分。
いくら抱いても物を突っ込んでも女は在り来たりだ。ああ言えばこういう口術を知っていてつまらん。
嫌になった。殺してしまえ、其れも思う。
くだらない人畜無害の世界。形骸だけ、形だけ、恐ろしく欺瞞、欺瞞に包まれて何処へいく。
女が居る部屋に警察が入って来た。ジャズは消されて、冷たい罪状の勧告。夢から覚める。覚めるというよりそれで良い、良いのだ。阿呆らしい。
警察は阿呆らしい、女は阿呆らしい、すべて阿呆らしいのだ。
芸術、分かる奴が居るのか?
芸術は日常にあふれている必要が有るんだ。そこかしこに拾えば芸術、そんな世界が、何処迄必要であるのか?そこらかしこに芸術、シャレ、小説に満ち満ちてほしい。
世の中、どう生きても世の中なんだ。芸術的に生きて欲しい。
女の乳をもみ、吸う、割れ目を触る。こんな事が唯唯愛しい。
いちいち、いと惜しい。異常で良い。何が、誰にとって異常で正常なんだ?
正常の定義等何処に有る。
疲れるんだ、リビドーに占領された奴どもが、イライラする。
餓鬼。知れば良い。餓鬼なんだよ俺たちは。
「ははは」笑う自分がいた。
警察の中、もちろん、檻の中、変に落ち着いた自分。
全てばれたからか、隠さなくて良い、開放感、その物に包まれて、長い夢から覚めた。
北村は存外にさばさばしている。娘を殺した。恐ろしい、恐ろしい親だ。
でも人間なのである。そんな娘殺しは世界中にいる。いるのだ。
必要悪ではないのだが、沢山いるのだ。
島国は其れを許さない、歪曲し、小さくまとめて、此の地方の価値観でおさめてしまうのだ。いつもそうである。殺人に限らない。
嫌になる、又嫌になるのだ。アメリカが嫌になった。
日本も嫌になった。どこへ行く?狭い狭窄社会、広いだけで考えが無い馬鹿な国どちらがいいの、訳が分からなくなる。
気が狂う、そんな思いで生きているんだ。我々は。
政治に何が出来る?
食えれば良いのか、日本。構造的に物を考えなくなって久しい。
又ジャズの悲しい曲が耳を潤す。悲しい、悲しい愛の歌が良い。聞きたい。そんな事を考えていると継ぎの曲は、ギターで始まるスローなブギ、酒が欲しい。
スローな女性歌手のブギウギ、酒が回る。それで良い、それでいいのだ。何も要らない、至上のひと時。
夜景を一望しながら飲む。それでいい。ソレで良いんだ。子供たちよ。可愛い子供たちよ、逞しく有れ。
北村の最後は、もちろん死刑であった。竜子も篠田も結末に驚いている。
田中は警察を辞めて、今はとりあえず遍路の道を歩いているらしい。
皆、警察から出た手記を読んで北村の薬物中毒を知った。
「篠田さん、ねえん、篠田……、アホよ」腹が立って来た。
竜子はあの事件以来少し酒浸りである。
篠田は、係長試験を目指して勉強中なのだ、
「触らしたろか?」酔って篠田の手を持ち、乳や股間を触らせようとする。
「変態女」
「……」
「邪魔や」
「……」
強烈な痛みが頭を直撃した、ライターが飛んで来たのだ。
「いたたた」二人は一緒に今、住んでいる。
二人の親子連れの死体が見つかってキャンプ場はそれとなく閉鎖に追い込まれた。
女の子の笑顔が思い出された。幽霊なのかも知れない。
北村親子は此所で最後のキャンプをしたのだろう。
幸せも一杯詰まってもいる、憎しみと愛情は裏腹とよく言う。
ただその事を知ってから、私の散歩コースは変わった。
河合、思い出は美しいまま残そう。
消えたキャンプ場 @kuratensuke
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