暗い月夜に嗤う

狂音 みゆう

男娼と紳士

 酷く憔悴しょうすいしきった様子の男を拾った。

 長く伸ばした髪は乱れて、化粧は涙で崩れていた。

 肩に触れると「怖い、怖い」と泣き、手を握れば「何をする」と問う。猜疑心さいぎしんの塊のような男だった。

 男と言うにははてながつくような容姿をしてはいるが、別に私は彼をどうしようとも思わなかった。こんなに青い痣を作って泣いている人間に何かをしようと思うのは変態か相当なサディストくらいだ。

 とりあえず、今彼に触れても、話しかけても焼け石に水ということだけが分かった。私は少し、珈琲でも飲みながら男が落ち着くのを待つことにした。


 珈琲を飲みながら、私は彼の装いを眺めた。

 黒々とした長髪には艶がある。前髪は右に長く垂れて、青い宝石の様な瞳を隠している。先程私の顔を認知するのに少し時間がかかっていたから、弱視であるか、もしくは人工虹彩の移植手術で視力を落としてしまっているのかもしれない。眉は細く整えられて、すらりと通った鼻の下に桜色の唇が咲いている。唇には赤い紅が引かれていたようで、乱雑に拭われた痕がある。今まで何をして過ごしてきたのだろうか、布の色合わせを楽しむのには惜しいほどの透明感のある肌には赤や青の痣、皮膚の剥がれた様な痛々しい傷が刻まれていた。紺色の和服を身に纏い、三色程の帯で軽く腰周りを締めている。

 こう見るとなかなか整った容姿をしている。特殊な生き方をしているのは間違いないだろう。

 私がカップの中に残った一滴の珈琲を飲み干すと、和装の彼は、まともに言葉を発した。

「あ、あの…無礼をおゆるしなんし…」

 聞きなれない日本語だった。この訛りはさてなんと言ったか。

「いいや、いきなり見知らぬ男に声をかけられたら怖がって当然だろう。こちらも申し訳ないことをしたね。…ところで、愛らしい君、私は君を何と呼べば良い?」

「わっちは“指切ゆびきり魅美みみ”、と申しんす。えぇ…主様はわちをなんと呼んでも構わんす。」

 これは面白い。男性でありながら娼婦でも営んでいるのだろうか。廓詞くるわことばという言葉が頭に浮かんできたことと、愛らしい声の彼の名を知ることができたことからくる二種類の喜びに、私は口元に笑みを浮かべた。

「魅美か。良い名だ。」

 私がこれだけで会話を終わらせようと思ったのは、話題の発展のさせ方が思い浮かばなかったからだ。話題を広げようと思うと、魅美の痛々しい痣とか、変わった服装、口調の話になってしまう。そんなことをしたらまた怖がってしまうから、今は話を広げるべき時ではないのだ。

「今日は私の家にいると良い。ゆっくりお休み。」

 私は使わなくなったベッドに視線を送った。一人で暮らしているのにベッドが二個あるというのはこれや如何に。

 私が頭の中でくだらない自分との会話を繰り広げていると、魅美の安堵したような表情が視界のはしに映り込んだ。あたまが三角になりそうだ、人の思考って言うものは難解だから。

「主さんは優しゅうて。ありがたく泊まらして頂きます。」

 意外と単純なことだったようだ。複雑な事情を抱えていそうだが、だからこそ単純に惹かれるというのもあるかもしれない。

 私と魅美は月が遠く離れた夜更けに眠りについた。

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